年末まで頑張った新入社員へ贈る言葉~サラリーマンという修行の花咲く場所は何かについて~
ある日渋谷を歩いていて、たまたまというか筆記用具が欲しくなり近くにあった西武百貨店にでかけた。文房具がどこにあるかわからなかった僕は、近くにいた初老の男性に文房具がどこにあるのかを尋ねた。
スラっと背筋を伸ばし、それでいて全く威圧感を与えない優雅な出で立ちをしたその男性はこう答えた。
「申し訳ありませんが、私共の店ではこの手の商品は扱っていません。ロフト館にお客様の望む品があるかと思います。地図を書きますので、お手数をお掛けしますがご移動いただけますでしょうか」
初老の男性は、そう言って丁寧な地図を書いて僕に手渡してくれた。僕は彼の対応に満足することは勿論として、そのプロとしての完成された一挙一動に感動した。なんて素晴らしい動きなんだろう。僕にはとてもこんな動作はとれない。
古来から役割を与えらえる事はそれだけで尊い事であった
現代人は忘れてしまっているけど、古来から役割を与えられるという事は尊い事だ。例えば中世の禅の修行では、そもそも禅寺に入り込む事自体が困難であった。そうして苦労して入り込むことに成功した後に与えられるのは、一見修行とは真逆の日々の雑務をこなす役割なのである。
六知事とも呼ばれたそれは、事務所を統括する「都寺」、「監寺」、会計を担当する「副寺」、庶務を担当する「維那」、食事を担当する「典座」、労務を担当する「直歳」から構成されており、そのどの役割ですら与えられる事自体が尊かったのだ。
何故こんな日々の雑務をするだけの役を与えられる事に昔の人はこだわったのか?それはこういった役柄を通じて、普通に行きているだけでは成り得ない「何者か」になれるという事がわかっていたからだ。
一見悟りからは程遠いようにみえる日常的雑務だが、実はそういう些末なものこそが大切であり、全ての物事が修行に通じているのである。この世に無駄なものなど無く、全てが真理に通じている。禅の思想は古いようで新しい。何度読んでも新しい何かを見つけることができる。
サラリーマンは辛いよ。けどそこには何かがあるのである。
先の初老の男性に戻ろう。彼の優雅な仕草は、恐らくだけどこの仕事につかなかったらこの世に現れることのなかったものであろう。仕事という型を通じて、彼は僕を感動させるような存在へとなり得たのである。
もちろんというか、彼はこの動作を手に入れる過程で多大なる苦労をしたはずだ。ひょっとしたら、その動作は彼の欲しいものではなかったのかもしれないし、僕のような若造にこのような言葉を言わなくてはいけない自らの境遇をそう好んでいないのかもしれない。
だがしかし、彼の動作は僕を感動させたのだ。これは紛れもない事実だ。
多くの新入社員の方々は、自分が今置かれている境遇に不満を感じているはずだ。僕も辛かった。正直言って、満員電車に揺られたりしてまで労働にしがみついて生きなくてはいけない理由がよくわからなかったぐらいである。
しかしその苦しみは脱皮の苦しみでもあるという事を理解して欲しい。社会人歴数年の僕だが、働くことでえられた事はたくさんある。そのどれもが適当に生きていた時には身に付けることができなかった事ばかりである。
いつか君もサラリーマンという修行を抜けた先で、普通に行きているだけでは成り得なかった「何者か」になる日がきっとくる。あなたを働かせないようにする甘言に騙されてはいけない。まだ東京で消耗しているの?なんて言葉にはこう言おう。
「イケダハヤトよ、あなたはまだ労働のなんたるかがわかっておられない。サラリーマンの何たるかもおわかりでないようですなあ。総てのものが修行の処であり、労働こそ人を何者かに導く、尊い道なのですよ」