珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

この漫画が凄すぎて僕の目から汗が出る2016~響~小説家になる方法

久々にあまりにも凄すぎる作品に出会って放心状態なので勢いにまかせて筆を綴ることにする。

 

 

響~小説家になる方法、このタイトルからあなたは何を想像するだろうか。まあなんかつまらんハウツーものだったり、表紙の女の子の地味めな感じからクソつまらない文学話でも展開されるんじゃないかというのが関の山だろう。

 

断言しよう。あなたのそのイメージは読後180度コペルニクスを圧倒的に突き放して展開する。この作品は圧倒的であり、バイオレンスであり、背筋がゾクゾクする。

 

あなたは作家というとどういうタイプの人間を想像するだろうか?想像力豊かだったり、根暗で文学が好きだったり。そういう文学少年やら文学少女チックな何かを期待してしまうんじゃないだろうか。

 

本書はそういう作家に対する印象をバズーカ砲のような激烈なドライブ展開でぶち壊してくる。そもそもモノを書くという行為は物凄くエゴイスティックな行いだ。自分の考えた妄想話を本にして読めという行為はこれ以上なく利己的な方法であり、またそういう利己的な存在を使って成り立っている編集者という存在もまた、これ以上無くエゴイスティックな存在だ。

 

だけどそういう姿は本にはあまりうまく現れてこない。当たり前だけど、そういう押し付けがましい他人のエゴから正面切って付き合うほど、僕たちは聖人君子ではないからだ。

 

本書に登場する才能ある人物は、全員いい意味で狂っている。素直すぎる主人公を筆頭に、本書に登場する人物で”才能ある人”はほぼイコールで”何かが欠落している人”であり、”普通の人”はほぼイコールで”何も持たない人”である。

 

こう書くと”普通の人”は残念な存在にみえるかもしれない。だけどそう簡単じゃないというのが痛いほどに本書を読み進めるとよくわかる。

 

本書にはいたるところで”特別な存在にほんの少しだけなれた”人達が出てくる。彼・彼女らは良くも悪くも普通の人だ。だからどこかで自分の欠落(≒才能)を自分のやましい何かとして受け入れてしまっている。

 

このようような人間は、作者が描くこの作品上では普通の存在から逸脱できない。欠落を、欠落ではなくギフトであると受け入れられなければ、自分のエゴを他人に読ませるという極めて破廉恥な行為を行う存在である”純文学の作り手である”というサガを乗り越えられないというのが、作者の提唱している純文学作家の定義である。

 

この作品上で純文学の定義とは?という問いがあるのだけど、それについて主人公である響は回答として太宰治芥川龍之介村上春樹、といった作家の名前だけをあげている。だけど響が”つまらない”という風に人の作品を攻撃している時、響がケチョンケチョンにけなす作品はすべからず全て、自分のエゴを隠した作品に与えられている(逆にエゴをちゃんと出している作品は稚拙であれ、キチンと褒めている)このことから逆説的に、響の純文学の定義がよくわかり、また作者が最近の純文学がどうして面白く無いのかという事についての回答にもつながっている。

 

僕たちは所詮、弱い存在だから、響のように”自分のエゴを全面に主張して生きる”事ができない。だけどこの作品において、響はそれを最高に痛快にロックな形で僕達に”正しい事”だと主張し続ける。それが読者に本当に痛快な何かを与えてくれる。これが、本当に読んでいて気持ちいい。

 

まあ御託はいいからさっさと一巻を買って読むんだ。今ならまだ4巻までしか出てないから、すぐに追いつけるから。そして僕と一緒に、スペリオールの最新話を心待ちにまとうではないか。ほんとこんなに凄い作品を連載中に読める機会なんて、そうそうないですよ。