珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

マクドナルドと銀座・久兵衛の奇妙な関係

僕は三度の飯よりメシが好きだ。そしてその中でも鮨をかなり偏愛している。

 

魚の切り身を酢飯に乗せただけの単純なこの料理・・・こんな単純な料理に、人はなぜ惹きつけられるのだろうか?鮨には日本人の魂を揺さぶる何かがある。

 

現在は空前の鮨ブームだ。一年先まで予約で一杯だとか、常連じゃないと予約が取れないという鮨屋がバンバン出てきている。そしてブームの効果もあってか、外食産業の中でも値上げが特に著しく、また野心あふれる若手の寿司職人の独立が後を絶たない。

 

かつては鮨を一人前に握れるまでに10年の修行が必要だといわれていた。だが現在ではそこまで綿密な修行を行う人は稀だ。最近の若手寿司職人は書物やインターネットでの情報に加え、横の繋がりを強化する事で短期間で比較的容易に技術を高め、かなり若い段階で独立して店をかまえている(鮨は他の料理と比較して必要とされる作業工程が少ないので、比較的独立が容易だというのもある)

 

若手の独立を加速させた最大の要員は、2003年頃に中野坂上で生まれた鮨さわ田が発端だとされている。銀座青木で半年程度の修行期間を経た後に、佐川急便で激烈に働き開店資金をためた後、当時30代だったさわ田の主人は、築地でお金に糸目をつけずに最高級のネタを買いあさり、そのネタを銀座と比べて非常に安い価格で提供し続ける事で一気にスターダムへとのし上がる事に成功した。

 

このさわ田の成功を発端として、上野毛のあら輝(現在はロンドンで客単価5万円の鮨屋を営業中)や、神泉の小笹、蒲田の初音、最近だと川口の猪股といった、地代が安い場所で鮨屋を開業し、その分の金額をネタに投入するという作戦が流行ることとなった。

 

様々な手法で身につけたハイレベルな技術を、築地でお金に糸目をつけずに買った高品質な魚と組み合わせて提供する。これが今現在の寿司職人の最短成功ルートとなっている(皮肉にもこの成功法則が鮨屋の絶対価格をどんどん押し上げる事にもなっている)


なぜこのようなネタだけの若手の寿司屋は評価されるのだろうか?それはこれらの作り出す鮨が、大企業病におかされていないからである。

 

鮨における修行の功績

ほんの少し前だが、鮨スクールに通うべきか、老舗で10年修行を積むべきかという命題が議題にあがった。

 

さて鮨屋で10年の成功を積んだ人達が果たして現在成功しているかというと、少々難しいと言わざるをえないのが現状だ。

 

鮨の大企業というと、やはり久兵衛は外すことができない。ホテルなど多数の支店を構え、高級外食産業としてはかなり珍しく大企業化に成功した久兵衛だが、そこで働いた人達の鮨は端的にいって非常につまらないものの事が多いというのが現状だ。

 

久兵衛の系譜を踏襲する店の何が面白くないかって、正直な事をいえばどこで何を食べても全部似たような味がしてしまうという事が最大の問題だと僕は思う。


あえて具体名は出さないけども、Q系の職人の作る鮨はネタの程度の差はあれど、出される料理に驚きが非常に少ない。簡単にいうと、どれもこれも、どこかで食べたことがある味なのだ。

 

これって何かを思い出さないだろうか?そう、マクドナルドである。

 

高度に洗練化されたメシは、洗練されているが故につまらない

はじめに言っておくと、筆者はマクドナルドがかなり好きである。パサパサのパンズ、無味乾燥なパテ肉、わけのわからないケチャップ。

 

これらのどれ1つとして、単体で食べたら美味しくない料理だという事は否定しようがない事実である。だがしかし、これがハンバーガーとして組み合わさると、なんか結構いけるのだ。少なくとも100円でクソみたいな原材料から、整合性ある料理が生み出されているという事実には脅威としかいいようがない。

 

マック以外にも様々なチェーン店がハンバーガーを作り出したが、どれ1つとして完成度という点でいえばマックの足元にも及ばない。ロッテリアモスバーガーと数々のハンバーガーチェーンが一時期黎明期を争ったが、組み合わせの妙という点ではマックの圧勝だろう。

 

こうして圧倒的にかったマックだが、残念な事に一度勝ち上がって民衆がマクドナルドに慣れてくると、今度は逆にマクドナルドに飽きてくるようになってしまう。いつでもどこでも、大企業的画一的手法で作られるあのハンバーガーは、どこで食べても同じ味なのである。

 

それは全国チェーン展開という目的においては物凄く強いメリットだったけど、一度完成されて「飽きる」というパラメーターが確立された後は物凄くでかいデメリットとなる。細部に至るまで組み上げられたマクドナルドのハンバーガーという完成品は、その完成度故に自由度が著しく低いのだ。

 

そしてこれはそのまま久兵衛にも当てはまる。久兵衛の鮨は物凄く完成度が高い。その完成された手法からは、いつどこで食べても、フレッシュな江戸前の鮨が味わえるための最適な手法が確立されている。

 

これは久兵衛ブランドを確立し、人々の間に認知を高めるという攻めの段階においてはメリットしかなかったが、一度ブランドが確立された後に「飽きる」というパラメーターが確立された後は物凄くでかいデメリットとなる。細部に至るまで組み上げられた久兵衛の鮨という完成品は、その完成度故に自由度が著しく低いのだ。

 

もうわかっただろう。マクドナルドと久兵衛。これらは2つとも、攻めの時は最強の矛だったが、それと同時に最弱の大企業病という負の側面も抱える諸刃の剣であったのだ。イノベーションのジレンマならぬ、マクドナルドと久兵衛のジレンマである(これらに飽きる人が出てくるからこそ、サードウェーブ系の高級ハンバーガーや若手寿司職人の店が評価されるようになるのだ)

 

今後、マクドナルドと久兵衛は博物館のような懐古的存在に落ちぶれるだろうが、それもまた歴史の流れ上、仕方のないことなのだろう。


そしてまた、新たなマクドナルドと久兵衛が生まれ出ることだろう。その身に降りかかる、滅びという宿命を宿して

ティム・クックを1人生み出すために数万人のエリートを殺す社会

若い電通の社員が過労によりこの世を去った。実に痛ましい事件である。

 

グローバルエリートの超・長時間労働問題は正直なところ難しい。たとえばハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場ではハーバード・ビジネス・スクール卒という世界でも最高峰のウルトラハイスペック達が、高収入を得るために卒後、コンサルや投資系銀行に進み、辛い現実に直面しているという事が指摘されている。

 

ハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場

ハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場

 

 

今回の事件は東大卒の電通というこれまたウルトラエリート街道を突っ走っていった人間の死という問題により注目をあびるようになった。

 

だけどぶっちゃけ、この手の話題は上にも書かれたように海外では既にある程度仕方がないものとして受け入れられつつあるのが現状である。エリートの過労問題は、必要悪のうちの1つなのだ。今日はそのことを書こうと思う。

 

ハイパーエリートの行き着く先

ある程度ネット歴の長い人ならティム・クック(アップルCEO)やマリッサ・メイヤー(ヤフーCEO)の一日みたいのを見たことがあるはずだ。大体内容は共通していて、以下のような形態を示している。

 

5:00 起床。

5:15 社員にメールを送信

5:30~6:30 ジムで運動。その後朝食。

7:00~22:00  仕事

22:30  就寝

 

これを360日ぐらい続ける(残りの5日は強制的に取らされる休暇)これがグローバル企業のトップに立つものの責務である。

 

はっきり言って、こんな生き方は鉄のような身体に加えて、鋼のような強靭な意思をもっていないとできない。そして普通の競争社会では、彼らのような人間は出て来る事はありえない(狩猟・農耕民族の中に、ティム・クックレベルで働く人間が果たしているだろうか?)

 

グローバルエリートの世界は蠱毒のような世界だ。1つの会社の中に、ハイスペを何百人も入れてメチャクチャに競争させて、最後に残った1人がティム・クックのような自然状態ではとても生まれないようなハイパーエリートとなって生き残る。

 

なんでこんな事がいつまでたっても終わらないのか?それはハイパーエリートが社会に必要とされているからである。彼らのような存在なしには、アップルやヤフーといった企業は統制され得ないのである。

 

エリートにより守られる社畜

グローバル企業で生き抜くのに必要な能力は、普通の人間のキャパシティを遥かに超えている。何千年前かにアフリカで生まれたホモ・サピエンスの始祖の遺伝子プログラムには、こんな過酷な競争社会は想定されてなかっただろう。

 

人の社会は競争社会である。弱肉強食の世界に生きる私たちは、強ければ生き、弱ければ死ぬ。

 

人類は群れをなす生き物である。TOPが優秀なら群れは素晴らしい動きを取り、TOPが無能なら群れは無残にも殺される。

 

経済という、これ以上ないほど結果が残酷に出される競争社会において、僕達に必要なのは優秀なTOPである。この優秀なTOPは、どんな超長時間労働でも耐え抜く強靭な肉体と、どんなパワハラモラハラが加えられようが心が動じない強靭な精神が必要とされる(そういう人がTOPでないと、他のグローバル企業に食い殺されてしまう)

 

冒頭で上げたハーバード・ビジネス・スクール 不幸な人間の製造工場にも沢山出てくるけども、エリートの超過労・超パワハラ社会で生き残れなかった人達は、TOPを生み出すために作られた蠱毒のような生存環境の犠牲者だ。

 

当然と言うか、この仕組みはおかしい。おかしいんだけど、誰もそれを解体できないのは、このTOPに集団全員が命を守られているからに他ならない。

 

今回の電通事件も、被害者が出たのは悲しい事だけど、だからといって電通のTOPをphaさんに変えて”ゆるく生きよう”みたいな風に社訓を改革しても、誰も幸せにはならないだろう。多分だけど、電通が勤務体制を変えてもホワイト企業は生まれず、後に残るのは博報堂に負けてボロボロに打ち捨てられた資本主義の敗者だけだ。

 

結局、エリートに依存しないと生きていけない私達にも問題はあるのである。だからこそ、この問題は難しい。やれやれ、本当にどうすればいいんだろうね。

”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば人生は驚くほど楽になる

最近読んだ本の1つで格闘家の青木さんの「空気を読んではいけない」が結構面白かった。今日までセール中で600円ぐらいと半額なので、興味ある人は読んでみるといいと思う。

 

 

空気を読んではいけない (幻冬舎単行本)
 

 

この本は青木さんの人生論であるわけだが、個人の生存競争の方法論としてもなかなか勉強になる事が多いので、今日は閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)における生存戦略を絡めて筆をとることにする。

 

閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)

世間には様々な尺度がある。家族ならば構成員は多くても5人前後だけど、これが学校のクラスになれば30人程度、医者などの職能集団ともなれば、数万~数十万もの人により、”世間”が構成される。

 

所属する”世間”によって、そこにおけるルールは当然異なる。家庭ならば基本的には親が最も責任ある立場をつとめるし、会社ならば役職によって身分が異なる。これらは基本的には覆さえる事のない、ルールに沿った制度によって運営される集団だ。

 

一方、これがクラスとか競技スポーツになると話は変わる。クラスならば、基本的には評価尺度は顔や面白さといったものが評価の尺度になるし、競技スポーツば実力がものをいう世界である。

 

これらの世界は、その閉じられた体系の中で自然と作られたルールによって上下関係が決定される。学校社会なら、太ったオドオドした人間は基本的にはカースト下層を押し付けられがちで、これを覆す手段は基本的にはほとんどない(多少のカーストの上下はあるかもしれないけど、大きく変わることはほとんどない。これだから学校のいじめ問題の解決方法は、基本的にはいじめられっ子をその空間から出して上げる以外に方法がない)

 

繰り返すが、学校のような社会は閉じた世界である。カースト上位はずっと安穏としながらカースト上位であり続けたい。だから外からのルールの輸入を激しく嫌う。何故ならば、それを認めてしまうとカーストをひっくり返される可能性があるからだ。

 

「空気を読んではいけない」の中で、青木さんは教師にとことん歯向かう姿勢を出した結果、クラスから疎外にも近い扱いをうけているけども、これは当然といえば当然の話しだ。だって先生を頂点とするクラスという”世間”のルールに歯向かっているのだから。

 

青木さんの例に限らず、能力がある人は結構幼少期にイジメられる事が多い。鼻息が荒くて生意気だったり、頭が良すぎて自分よりも頭の悪い教師に従うのが嫌だったり。まあ色々原因はあるのだけど。

 

こうなると”世間”はルールに従わないものを”疎外”という形で最下層カーストに押しやるしかやることがなくなる(ルールを守らない人間は、”存在しないもの”としないと、カースト制度が成立しないのだ)

 

ここでまずハイスペは”疎外”される事に結構傷つく。ただ傷ついたら傷ついたで、今度は自分一人で生きていかざるをえなくなるので、次に何らかの活動に1人で没頭するようになる事が多い。

 

それでしばらくすると

 

「みんなに無理に合わせないでも、全然生きてけるじゃん」

 

という現実を肌感覚で理解する。こうなると後は早いもので、だいたいその活動を評価してもらえる集団を見つけ出して、今度はそこで精を出すことになる(当然と言うか全員がうまくいくわけではなく、多くのハイスペはそこで高い壁に直面して鼻をへし折られるのだけど)

 

これを僕は、閉じた世界から、開かれた世界へと活動の場を移すという風に表現している。あなたがもし、集団内で下されたカーストに満足できず、そこで埋没したくなかったら、文字通り”空気なんて読んではいけない”。そこを脱却して、自分が正当に評価される所に活動場所を移せるよう、努力しないといけない。

 

まあ人間、無理して集団になじまずとも1人で何とかなるもんである。こうして”スキル単独行動”を体得した人間は、閉じた世界で周りのみんなに合わせて行動するといった肩身の狭い生き方から脱却できる。

 

孤独も、そう考えれば悪いものではない。

 

開かれた世界での生存戦略

ただ、開かれた世界にたどり着けたからといって安心はできない。いくら開かれた世界とはいえ、そこにはある程度のルールがある(そしてルールがあるからこそ、それを逆手に取ることで勝利をいくらでも手にすることができる)

 

”空気を読んではいけない”の中で青木さんは、「柔道界では背負投や体落としといった技が評価される傾向があった。体格にそこまで恵まれていなかった自分は、そういう王道の技で勝利は手にしにくかったため、様々な他種目の格闘技から技を盗み、それを使って勝利をもぎ取っていった」といった趣旨のことを書かれている。当然と言うか、このスタンスは王道派からは邪道とされ、柔道界ではかなり嫌われたという。

 

当たり前だけど、どんな世界であれ、ある程度の伝統ができてくると、”皆が好む正しい風習”がなんとなく出来上がってくる。そしてそれに適応する個人が、より好まれるようになっていく。こういうときに、外からの技術を輸入して、”ルールに違反しない形”で”技術を応用”できるようになると、アウトライヤーは一気に勝ち抜くことができる。

 

例えば生物学。かつては分類学や形態観察といった手法が頂点とされていたこの業界だけど、遺伝子解析といった技術を、物理や数学といった手法で行うようになってから、かつて評価れていた人達の権威は地に落ちた。ワトソンとクリックの例をあげるまでもないだろう。

 

例えばヒト。かつて地球上には我々ホモ・サピエンス以外にも多くの種がいた。その多くは我々と比較して、体格的に恵まれており、動物という種の中ではホモ・サピエンスは最弱とはいわないまでも、弱小クラスタだったのは事実だろう(私たちは象にもライオンにも、下手すれば犬にすら勝てない)

 

なんでそんな弱かったホモ・サピエンスが、この地球を埋め尽くしているのだろうか?その秘密の1つとして、投擲具の開発が重要だったというのが、現在の人類史の通説だ。

 

原始の投擲具は、2つに折った布の間に尖った木の棒を載せて投げるという、今の私達からすれば単純この上ないこの装置だったそうだけど、これがホモ・サピエンスが他の主を圧倒しはじめたキッカケだと言われている(この装置は慣れると50mぐらい先の標的を射殺す事ができるという)

 

私たちは筋力では他の種と全く勝負にもならないが、投擲具という”たった1つのアウトライヤー”にとって、この世界の頂点に上り詰める事となった。これも動物界からみれば邪道以外の何者でもないだろう。だけど結果として、勝ち残ったのは人類だ(そしてこの投擲具は、弓矢、銃、大砲、原爆と、どんどん姿かたちを変えて発展していっている。人の歴史は、技術でも頭の良さでもなんでもなく、投擲具による暴力による格付けでしかないのだ)

 

雑種がサラブレットを追い抜く日

とまあこのように、この開かれたグローバル社会では、”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば、他人を圧倒的に出し抜くことができる。その結果人生が、驚くほど楽になる。

 

好きで生きるという言葉があるけども、それを既存のルールに乗っかった形で実現しようとすると、それはもう天賦の才能を持った人にしかできない狭き道しか残されていない。

 

それゆえにサラブレットではない我々雑種は、”好き”で生き抜くために、”孤独な努力”と”他分野からの勉強”を怠ってはいけないのである。逆にいえばそれさえできれば、結構人生、なんとかなるもんだ。

 

なお空気を読んではいけないは、それ以外にも勉強になるエピソードが沢山ある。ぜひとも骨の髄までしゃぶり尽くしてほしい。

続・「君の名は。」を様々な角度から考察する

見終わった勢いで書いた「君の名は。」の考察が予想以上に読まれたみたいで、結構驚いた。まあみんな同じこと思ってたんだなぁという事がわかり、著者としても納得した。

 

沢山読んでくれたお礼というか、あの記事の中に書かなかった事が幾つかあるので興味がある人向けにそれらを追記していくことにする。なお当たり前というか当然の如くここから先は「君の名は。」のネタバレ満載なので、未視聴の人は是非とも週末にでも期待して見に行ってくれ。面白いよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君の名は。」はシンメトリカルに作られている事を意識すると、更に深く読み解ける。

上に公式ビジュアルガイドの広告を置いたのは、アフィで儲けるためではなく「君の名は。」が全体にわたってシンメトリカルに描かれている事が意図されている事を伝えたいからだ(ポスターにも使われたこの絵をみればわかるけど、右と左で絵が対称的に作られている)

 

この物語は瀧くんサイドと三葉サイドで、物凄く対称性を意識してストーリーを展開している。ざっと思いついた所でいえば

 

1. 瀧くんの家庭も三葉の家庭も母親がいない、父子家庭である。

2. 行動する時はだいたい3人一組(瀧くん+男子2人、三葉+土建屋+放送部or祖母+三葉+妹、など。この3という数字は、お互いの間で離れていた3年間と関連しているのかもしれないけど、これは深読みのし過ぎかもしれない)

3. 瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった時点で、両者が両者とも涙を流すシーンがでてくる(これは重大な意味が隠されているかもしれないので、後でまた追記する)

4. 両方の主人公ともに自分に好意を抱いてくれているモブキャラがいる(瀧くん→先輩、三葉→土建屋の息子)

5. そしてそのどちらも、主人公とは異なる人と結婚する

 

とまあ数え上げればキリがないぐらい、対称性が意識されている。だからどことどこが対応しているのかや、ストーリー上で対称性のほころびが見える部分に着目すると、この物語のおかしい部分が見え始めてくる。これについては後でまた書くことにする。

 

隕石が衝突するあの日、なぜ瀧くん演ずる三葉は聖地に向かったのか

かなり練りこんで作られたこの物語で、まず誰がどうみてもおかしいとはじめに気がつく箇所が、隕石が衝突するあの日、瀧くん演ずる三葉が「父親の説得に失敗」した後に、「あそこに三葉がいる。会いに行かなくちゃ」と、口噛み酒が置かれている聖地へ向かうシーンだ。

 

「あと数時間で隕石が糸森町に衝突するというのに、なにをこいつは悠長な事を言ってるんだ。おまけに聖地まではかなりの距離がある。そんなところに行って戻ってくるような時間の余裕なんてどう考えてもないだろ」普通はこう考える。僕もこの辺で凄い違和感を感じた。

 

それに冷静に考えると、あの聖地に「三葉がいる」と考えつくのはどう考えてもおかしい。確かに瀧くんは三葉の口噛み酒を飲んでこちら側の世界にループしてきているわけだから、それに対応する三葉が瀧くんの体に乗り移って聖地にいると考えれるのは全くおかしい事ではないかもしれないけど、その後の物語展開をみると、瀧くんは自宅で彗星を見上げており、ちょっとやっぱりシンメトリーがここで崩れている。

 

じゃあ何故瀧くんは聖地に向かったのか。僕は前回の考察で、この物語は二回ループする事を想定しているという話をしたけど、元々想定されていた物語はたぶん以下の様な流れだったのだ、と考える。

 

1.土建屋の息子の爆弾爆発による陽動失敗

2.放送部の女の子がつまみ出される

3.瀧くん演ずる三葉が父親を説得するのに失敗

4.隕石が街に衝突(三葉は死なないまでも、致命傷を体に受ける)

 

こう考えると瀧くんが聖地に向かう理由が凄くしっくりくる。

 

三葉の祖母が説明していたが、口噛み酒が置かれた場所は「あの世」である。じゃあ、あのくぼみを作っているあの山は、この世とあの世の境目と考えるのが妥当な解釈だろう。

 

なんで瀧くん演ずる三葉は、聖地に「あそこに三葉がいる」と言ったのか。それは本来あったはずの物語では、隕石衝突後に瀧くん演ずる三葉は瀕死の重傷を負って、限りなく魂が「あの世」に近づくのだ。そういう存在になったとしたら、聖地≒あの世とこの世の境目に「三葉がいる」と感じるのはごく普通の認識となる。

 

聖地で瀧くんと三葉は、どうしてあのような形で出会いそして別れたのか

この映画で最も美しい場面である、夕暮れ時に聖地で瀧くんと三葉が出会うシーン。このシーンの出会い方もなかなか示唆的だ。

 

お互いがお互い、声だけが聞こえる状況の中、両者の距離が限りなく近くなった瞬間、お互いの姿が浮かび上がる。実に綺麗なシーンで、さすがは新海誠先生が作った映画だけはある。

 

けどこのシーンですごく不思議なのが、なんでお互いの姿が途中まで見えなかったのかである。演出の1つだといわれればそれまでだけど、かなり丁寧に作られたこの映画なのだから、僕はここに何らかの意味があるに違いないと考えていたのだけど、これはきっと「死者≒三葉」の存在に、ループ中の瀧くんが限りなく死者に近づいたからこそ、ああして出会うことができたのではないか、と考えると非常に納得ができた。

 

そして出会った2人だけど、その後瀧くんはなぜ三葉の前から消えてしまったのだろうか?これはループ中の瀧くんはあくまでも生者であり、ループ中に死んだからといって、所詮本当に死ぬわけではなく、本来の世界線≒生者へと魂が戻った≒生者の世界に戻ったと考えると、凄く納得がいく。

 

あとは前の考察にも書いたとおり、妹の口噛み酒を使って再度ループに突入し、全員の力を合わせて糸森町を彗星の危機から救いだした、と考えるのが僕は妥当な展開だと思う。

 

最後がハッピーエンドに終わったのは、対称性のもつれの暗示なのかもしれない

僕は前の考察では

 

”本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか”

 

と考えた。なんでそう思ったのかというと、そうじゃないと瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった事の暗示で”涙を流すシーン”を用いた理由がイマイチはっきりわからなかったからだ(終盤で、涙を使って永遠の別れを言葉少なく暗示するんじゃいかと想定していた)(あと四葉の口噛み酒を酒を使ったペナルティとして、やっぱり離別がしっくり来るんじゃないかなと考えたのもある)

 

実は上のシンメトリーの項目にはあえて書かなかったのだけど、この物語は初めに強力な対称性がかけられている。それが”愛しあう男女の死別の定め”である。

 

三葉の母は死んでおり、瀧くんの母親も(書かれてないけど)たぶん死んでいる。そして何より、糸森町を襲った大災害により、”三葉”が”瀧くん”と死別している。

 

この物語の最大のシンメトリーは、愛しあう男女の死別なのである。

 

それがこの物語では街が災害から救われてからちょっと流れがおかしい。まず土建屋の息子と放送部が結婚しているし、先輩も結婚している。どうも”大災害から逃れることができた世界線”では、愛しあう男女は死別の苦しみから逃れられるようになったといわんばかりの展開である。

 

そう考えると、実はこの物語がハッピーエンドで終わっているのは、ひょっとして”対称性のくずれ”という新しい世界の始まりの暗喩なんじゃないかという気もしないでもなくなってきた。そう考えると、あのラストも割と納得がいく。まあ新海誠が、そういう”お約束からの開放”という手法を物語に取り入れられるようになったのは喜ぶべきことなのかもしれない。

 

とまあこれで僕の「君の名は。」の考察はひとまずおしまいだ。これから小説版とアフターでも読んで、この物語との長い付き合いも終わりにしようと思う。

 

長々と二記事も読んで頂き、ありがとうございました。

 

takasuka-toki.hatenablog.com

 

新海誠が本当に書きたかった「君の名は」は本来はこういうストーリーだったんじゃないかという考察

今更だが「君の名は」をみてきた。初めのうちはシンカイマコトという単語にアレルギー反応を示していたので絶対に見るものかと思っていたのだけど、あまりにも評判がいいので期待値50%ぐらいでみにいったらメチャクチャ面白かった。これはシンゴジラと比較してもわかりやすくヒットしやすい映画だと思う。まだみてない人は是非とも映画館にいってみるべきだ。

 

だがこの作品、見終わってからずっともやもやしていた事がある。たぶんみんなも同じ思いをあるシーンで感じていたんじゃないかという風に考えている。そしてそれを考えれば考える程、ひょっとして新海誠はこの作品を本当に作りたかった形で作れなかったのかもしれないという思いが段々とでてきた。以下ものすごいネタバレ含む考察なので、繰り返しになるけどまだ映画をみていない人は絶対に絶対に映画館にいってから読んで欲しい。たぶんこれを読んでから映画を見ちゃうと面白さが半減するだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題のシーンは主人公である瀧くんが三葉の口噛み酒を飲んで、彗星が落下する災害から糸森町の住民を救出しようするシーンだ。瀧くんは三葉の体を借り、仲間の力も合わせて何とか住民を彗星による災害から救おうと奮闘するものの、どうにもこうにも上手く行かずに失敗してしまう。土建屋の息子は父親に犯行がばれ、放送部の女の子は放送室からつまみ出され、瀧くんの演じる三葉は父親を説得できない。

 

結局3人の努力はむなしく糸森町の人達は全く安全地帯に避難する事はかなわず、再度、彗星の被害にあってしまう。少なくとも劇中ではそういう風に描かれている。だけど、次のシーンでは一転して「町長の類まれなる統率力で何とか住民は全員助かりました」と出てくる。

 

この映画は全体的に物凄く丁寧に作りこまれているのに、このシーンは物凄く違和感がある。当然というか、もっとスッキリとした形でも映画は作れたはずなのに。なのに新海誠はこの映画でこのシーンを使用する事を採択した。それならばこのシーンにも当然必然性があるはずだ?なんだろう?僕は実は本当だったらこの後、もう一回ループがあったのではないかと予想している。

 

基本的に、映画監督は絶対に無駄なシーンは劇中に入れない。ただでさえ上映時間が決められているのに、無駄なシーンをいれる意味など全く無いからだ。そういう視点でこの映画を見返してみると、物凄く無駄な要素がたくさんある。まず父親が町長である事が全くいかされていない。そして親子の間にあった確執が、全く解消される事なしに有耶無耶なまま終わっている。

 

そして最も無駄に終わっている最たるものが、妹の存在ならびに妹の口噛み酒だ。まずこの物語は、あのストーリー展開ならば妹がいてもいなくても全く話はかわらない。また口噛み酒が一回しか使われないでいいのならば、妹が巫女衣装をまとって口噛み酒を作るシーンを描く必然性も全く無い。それなのにこの物語ではそれが描かれている。何故か?僕が思うに、これらは本当は使われるはずだったのだ。

 

「君の名前は」の劇中で三葉は「宮水の血は、今日この日の災害から街を救うために、この不思議な能力をゆうしていたのかもしれない」というような事をいうシーンがある。となるとだ。母親も、宮水の血を引いていたのならば、その不思議な能力を、街を救うために使ったという算段があったのではないかという事が推察される。

 

恐らくだけど、三葉の母親と父親も、三葉と瀧くんと同じように不思議な力を通じて出会ったのだ。そして三葉の母は、数年後にこの街に彗星が落ちることを不思議な力を通じて予見しており、そのことをパートナーである父に伝える。そしてその代償に母親は死んでしまい、父親は母親の残った意思だけを引き継ぎ、町長という街全体を指揮する立場を決死の努力により上りつめる(災害の日に、町の人を事故から避難させる為にだ)。

 

だけど残念な事に、瀧と三葉が不思議な力を通じて得た知識がしばらくすると曖昧になったのと同様、三葉の父もかつてあったはずの”三葉の母”を通じて得た町長になるという本来の動機を忘れ、結果残された”街を率いる存在になる”という思いだけが残る事になった。それ故に生まれてしまったのが、あの家族の不和なのである。

 

さて一回目のループで大失敗した瀧くんは、またあの宮水の聖地に巻き戻る事となる。このままではどうやら糸森町は救えないらしい。熟考に熟考を重ねたうえで、瀧くんは”この難題を解決するのに三葉の力が必要”だという回答にたどり着く。そのためにはどうすればいいか。そう、妹の口噛み酒を飲み、妹に乗り移ればいいのだ。

 

そうしてもう一回、あの大災害の日に舞い戻った瀧くんは、三葉に”君でなければ父親を説得できない”事を告げる。そして瀧くんは前回と同じく、土建屋の息子と放送部の女の子を動員し、糸森町の人々が避難できるように手はずを整える。

 

そして三葉は父親と対峙する。初めは娘のいうことを全く聞かない父親だったが、娘からの突然の告白により、忘れていた母との思い出を思い出す。その流れは多分こんな感じだ。

 

父「頭がおかしいんじゃないか?病院にいけ」

 

三葉「・・・あのね、お父さん。私、好きな人がいるんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「瀧くんっていうの。東京の高校生。私達、不思議な事に、時々体が入れ替わったりしていたの。初めは夢かなって思ってたんだけど、だんだんそれが現実だっていう事に気がついた。それでね、まあ色々あって好きになったんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「ひょっとして、お父さんとお母さんもこういう風にして出会ったんじゃないかなって最近、思うようになったの。ねえ違う?」

 

父親「(衝撃を受けた顔、そして忘れていた母との思い出を懐かしみ、涙目になる)」

 

三葉「私ね、宮水のこの不思議な力って、今日この日の災害から逃れる為にあったんじゃないかって思うんだ。お父さんが本当は好きでもない政治の世界に身を置くようになったのも、お母さんとの間で”今日この日におきる大災害から街のみんなを避難させられるようになる”、そういう事ができるようになろうっていう、やり取りがあったんじゃないかなって今では思っている。

 

父「・・・」

 

三葉「だからお父さん、私の話を信じて!」

 

父親「・・・三葉・・・いままで苦労をかけてすまなかった(そして絶大なる統率力を発揮し、町の人全員を避難所に逃れさせる為に尽力する)」

 

とまあ多分二回目のループはこんな感じで行われるはずなのだ。これならば、

 

1、宮水の家族全員に役割の必然性ができる。妹の口噛み酒が存在する理由もわかる

2、父親との確執が解消されるというカタルシスができあがる

3、この流れならば、彗星からの大災害を乗り越えた後のマスコミの報道と、内容がほぼ一致する

 

とまあ以上三点で、物凄く物語に整合性ができる。どうだい、すっごいスッキリしないだろうか?

 

とまあこういう形で何とか危機を脱した瀧くんと三葉だけど、たぶん本来のエンディングはもう少し物哀しいものだったんじゃないかな、と僕は推測している。

 

この物語はいわゆるループものの構図をしている。主人公である瀧くんが、この世ならざる宮水の聖地の中で、三葉の半身である口噛み酒を飲むことで、本来ならありえないはずの”過去”に到達し、未来を変える。

 

当然というか、いい方向に未来を変えたんだから、それなりの代償が必要だというのが物語のルールだ。たぶんだけど「君の名は」の本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか(本来の新海誠の作風から考えると、こういうエンディングのほうが物凄くしっくりくる)

 

だけど今回、この作品は最後は最大のハッピーエンドで終わる。たぶんだけど、はじめにこのエンディングをみた配給元が、この物哀しいエンディングにNGを出したのだ。「それじゃあ観客は満足しねえよ。ハッピーエンドに作り変えないと、配信は認めない」と。

 

結局、今回の大チャンスと作りたいものを作るという思いの間の中で苦悩した新海誠は、苦渋の決断の上で「君の名は」をハッピーエンドに作り変える。だけどこのままやられっぱなしは癪なので、良識ある視聴者にむけて残したのが、あの彗星による大災害事件の不自然さなんじゃないかと僕は思うのだ。

 

まあこれは僕の考察でしか無いのだけど、たぶんそんなに間違っていないんじゃないかな、と思っている。一度この映画を見た人も、そうしう視点でこの映画を見なおしてみると、より面白いものの見方ができるかもしれないね。

かつてエロゲはいい意味で純文学だった~響のマニアックな感想文を添えて~

若者の本離れが言われて久しい。

 

テレビ、SNS、ソシャゲ等々、かつてはとは違い娯楽の種類も多様化してきており、暇つぶしの手法として、わざわざ本を選ぶ必然性がどんどん下がってきてしまっている。

 

読書は確かにある程度敷居が高い趣味であるという事は事実だけど、昨今の出版不況はそういうものとは別の場所にあるんじゃないかとも思っている。響を読んでその意を新たにした。

 

 

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

 

 

 

純文学とは何か

響の一大テーマは純文学にあるという事は読み進めれば誰しもが気がつく。じゃあ純文学の定義ってなんだろう?

 

モブキャラの1人が「純文学の定義って何?」と主人公に問うたところ、響は「三島由紀夫太宰治芥川龍之介村上春樹・・・」と作家の個人名をあげた。これは一見答えになっていないようで、実は純文学というものの存在をこれ以上なく上手く言い表している。

 

人が小説を読む為の理由は色々あるけども、大体の人は読書中に浸れる世界観に一番の魅力を置くだろう。戦国武将になって天下を統一したり、甘酸っぱい恋愛を楽しんだり、はたまた異世界を旅行したり。

 

小説において作家が提供しているのは「作家が魅せたい世界観」に他ならない。そしてその提供する世界観がある一定以上優れていると、僕たちは特定の作家の虜となりファンとなる。

 

じゃあ逆にみていくとだ。小説≒作家の演出する世界観というものは、突き詰めて言えば作家自身のものの見方であり、作家自身のエゴであり、作家自身そのものとなる。じゃあ文学をどんどん純化していくと、結局小説というのはその作家を本という形で提供しているものに他ならなくなる。

 

 となると「純文学って何ですか?」という問いに対する最短解は響の言うところである「作家の個人名」が端的な回答とだとなる。

 

文学がマーケティング的な最適解を突き詰めていくほど、純文学の定義からかけ離れていく

しかし純文学もある程度の既得権が形成されていくと、どうしても文豪という界隈の付き合いに引っ張られていき、だんだん「文芸としてこうあるべき」姿というものができてくる。

 

熱心な読者ほど、そういう「俺の考えた純文学の定義」から外れた作品について厳しい意見をつけるようになる。そうすると、出版社にいる編集者は「熱心な読者の所望する文芸作品」から乖離した作品にNOを突き付け始める。

 

作家もまた、ファンを裏切る行為はできなくなっていく。結果、作品がどんどん似たような「マーケットありき」の「本来の文学」からかけ離れたものになっていく。

 

そういう作品は果たして本当に純文学なのかというと、全然そうじゃない。響の主人公がいうところの純文学は「三島由紀夫であり太宰治であり、芥川龍之介であり村上春樹」になる。だけど、これらの作者が「読者が欲する物語」を「売れるから」という理由で出せば出すほど、それは響の定義するところの「純文学≒作者自身」からかけ離れていってしまう(作品≒読者の望む既存の世界観、となる)

 

もちろんというか、そういう作品はある程度売れる。だけどそこにあるのは既にあったものの模造品でしか無い。僕は出版不況の最大の問題点はここにあると思う。ようは「売れるかどうかわからない、いいもの」が出せないのが現状の文芸界の最大の問題点なのである。

 

そういう「ありきたりな世界観」に飽きたからこそ、僕たちはエロゲにはまった

クラナドは人生、フェイトは文学」という有名なネットスラングがある。

 

2000年前後、エロゲ業界はまさにそういう文学作品があふれていた。出版会社が怖くて手を出せない異質の才能の持ち主たちが「文字が好きに書ける」という理由で、自分のエゴを文章に表出していたのがあの時代のエロゲだ。

 

日本の「かくあるべし論」にとらわれていた古臭い日本文学と、マーケット的に最適とされた有象無象のタケノコのような文章に飽き飽きしていた僕たちオタクは、作者のエゴの塊でできた文章に飢えていた。荒野で何日も食べ物にありつけなかった飢餓状態の我々にエロゲはとてつもない清涼水を与えたくれた。

 

エロゲにあるのは、まさしく「よかった頃の日本の純文学」にあった作者のエゴだった。既存の概念にとらわれず、愛も勇気も冒険もエロもグロもなんでもありの世界観だった。

 

結局、エロゲもいろいろあって駄目になってしまったのだけど。

 

響はエロゲ業界から生まれた正統的な純文学作品である

響の作者の第一作目において、作者は自分がエロゲが大好きである事を公然と宣言している。

 

たぶん、筆者は今の出版業界のあり方にとてつもない不満があるのだと思う。僕もかつてのエロゲに熱狂したもののひとりとして、その気持は痛いほどによくわかる。

 

実際、響において主人公が褒める作品は読んで面白いか否かではなく「作品中にエゴをちゃんと出しているか」否かである。一番初めにであった女性作家に響は全くケチを付けず褒め倒しているのに対して、売れっ子作家であれ友達であれ読者とか市場になびいてしまった作者には容赦のない暴力を奮っている。

 

この響の姿に、かつてエロゲに熱狂したものの1人として、とてつもなく深い感動を感じてしまうのは僕だけではないだろう。

 

こういう作品が読みたかったんだ。そういう「まだ見たこともない新たな世界線」を見せてくれる作者は本当にめっきりと数を減らしてしまった。

 

創作活動をする人、創作を愛する人はすべからく全て響を読んで欲しい。そして、この素晴らしいまだエゴのある若々しい作者の感性に圧倒されて欲しい。

 

こんな素晴らしい漫画、そうそうないですよ。

この漫画が凄すぎて僕の目から汗が出る2016~響~小説家になる方法

久々にあまりにも凄すぎる作品に出会って放心状態なので勢いにまかせて筆を綴ることにする。

 

 

響~小説家になる方法、このタイトルからあなたは何を想像するだろうか。まあなんかつまらんハウツーものだったり、表紙の女の子の地味めな感じからクソつまらない文学話でも展開されるんじゃないかというのが関の山だろう。

 

断言しよう。あなたのそのイメージは読後180度コペルニクスを圧倒的に突き放して展開する。この作品は圧倒的であり、バイオレンスであり、背筋がゾクゾクする。

 

あなたは作家というとどういうタイプの人間を想像するだろうか?想像力豊かだったり、根暗で文学が好きだったり。そういう文学少年やら文学少女チックな何かを期待してしまうんじゃないだろうか。

 

本書はそういう作家に対する印象をバズーカ砲のような激烈なドライブ展開でぶち壊してくる。そもそもモノを書くという行為は物凄くエゴイスティックな行いだ。自分の考えた妄想話を本にして読めという行為はこれ以上なく利己的な方法であり、またそういう利己的な存在を使って成り立っている編集者という存在もまた、これ以上無くエゴイスティックな存在だ。

 

だけどそういう姿は本にはあまりうまく現れてこない。当たり前だけど、そういう押し付けがましい他人のエゴから正面切って付き合うほど、僕たちは聖人君子ではないからだ。

 

本書に登場する才能ある人物は、全員いい意味で狂っている。素直すぎる主人公を筆頭に、本書に登場する人物で”才能ある人”はほぼイコールで”何かが欠落している人”であり、”普通の人”はほぼイコールで”何も持たない人”である。

 

こう書くと”普通の人”は残念な存在にみえるかもしれない。だけどそう簡単じゃないというのが痛いほどに本書を読み進めるとよくわかる。

 

本書にはいたるところで”特別な存在にほんの少しだけなれた”人達が出てくる。彼・彼女らは良くも悪くも普通の人だ。だからどこかで自分の欠落(≒才能)を自分のやましい何かとして受け入れてしまっている。

 

このようような人間は、作者が描くこの作品上では普通の存在から逸脱できない。欠落を、欠落ではなくギフトであると受け入れられなければ、自分のエゴを他人に読ませるという極めて破廉恥な行為を行う存在である”純文学の作り手である”というサガを乗り越えられないというのが、作者の提唱している純文学作家の定義である。

 

この作品上で純文学の定義とは?という問いがあるのだけど、それについて主人公である響は回答として太宰治芥川龍之介村上春樹、といった作家の名前だけをあげている。だけど響が”つまらない”という風に人の作品を攻撃している時、響がケチョンケチョンにけなす作品はすべからず全て、自分のエゴを隠した作品に与えられている(逆にエゴをちゃんと出している作品は稚拙であれ、キチンと褒めている)このことから逆説的に、響の純文学の定義がよくわかり、また作者が最近の純文学がどうして面白く無いのかという事についての回答にもつながっている。

 

僕たちは所詮、弱い存在だから、響のように”自分のエゴを全面に主張して生きる”事ができない。だけどこの作品において、響はそれを最高に痛快にロックな形で僕達に”正しい事”だと主張し続ける。それが読者に本当に痛快な何かを与えてくれる。これが、本当に読んでいて気持ちいい。

 

まあ御託はいいからさっさと一巻を買って読むんだ。今ならまだ4巻までしか出てないから、すぐに追いつけるから。そして僕と一緒に、スペリオールの最新話を心待ちにまとうではないか。ほんとこんなに凄い作品を連載中に読める機会なんて、そうそうないですよ。