珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

かつてエロゲはいい意味で純文学だった~響のマニアックな感想文を添えて~

若者の本離れが言われて久しい。

 

テレビ、SNS、ソシャゲ等々、かつてはとは違い娯楽の種類も多様化してきており、暇つぶしの手法として、わざわざ本を選ぶ必然性がどんどん下がってきてしまっている。

 

読書は確かにある程度敷居が高い趣味であるという事は事実だけど、昨今の出版不況はそういうものとは別の場所にあるんじゃないかとも思っている。響を読んでその意を新たにした。

 

 

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

 

 

 

純文学とは何か

響の一大テーマは純文学にあるという事は読み進めれば誰しもが気がつく。じゃあ純文学の定義ってなんだろう?

 

モブキャラの1人が「純文学の定義って何?」と主人公に問うたところ、響は「三島由紀夫太宰治芥川龍之介村上春樹・・・」と作家の個人名をあげた。これは一見答えになっていないようで、実は純文学というものの存在をこれ以上なく上手く言い表している。

 

人が小説を読む為の理由は色々あるけども、大体の人は読書中に浸れる世界観に一番の魅力を置くだろう。戦国武将になって天下を統一したり、甘酸っぱい恋愛を楽しんだり、はたまた異世界を旅行したり。

 

小説において作家が提供しているのは「作家が魅せたい世界観」に他ならない。そしてその提供する世界観がある一定以上優れていると、僕たちは特定の作家の虜となりファンとなる。

 

じゃあ逆にみていくとだ。小説≒作家の演出する世界観というものは、突き詰めて言えば作家自身のものの見方であり、作家自身のエゴであり、作家自身そのものとなる。じゃあ文学をどんどん純化していくと、結局小説というのはその作家を本という形で提供しているものに他ならなくなる。

 

 となると「純文学って何ですか?」という問いに対する最短解は響の言うところである「作家の個人名」が端的な回答とだとなる。

 

文学がマーケティング的な最適解を突き詰めていくほど、純文学の定義からかけ離れていく

しかし純文学もある程度の既得権が形成されていくと、どうしても文豪という界隈の付き合いに引っ張られていき、だんだん「文芸としてこうあるべき」姿というものができてくる。

 

熱心な読者ほど、そういう「俺の考えた純文学の定義」から外れた作品について厳しい意見をつけるようになる。そうすると、出版社にいる編集者は「熱心な読者の所望する文芸作品」から乖離した作品にNOを突き付け始める。

 

作家もまた、ファンを裏切る行為はできなくなっていく。結果、作品がどんどん似たような「マーケットありき」の「本来の文学」からかけ離れたものになっていく。

 

そういう作品は果たして本当に純文学なのかというと、全然そうじゃない。響の主人公がいうところの純文学は「三島由紀夫であり太宰治であり、芥川龍之介であり村上春樹」になる。だけど、これらの作者が「読者が欲する物語」を「売れるから」という理由で出せば出すほど、それは響の定義するところの「純文学≒作者自身」からかけ離れていってしまう(作品≒読者の望む既存の世界観、となる)

 

もちろんというか、そういう作品はある程度売れる。だけどそこにあるのは既にあったものの模造品でしか無い。僕は出版不況の最大の問題点はここにあると思う。ようは「売れるかどうかわからない、いいもの」が出せないのが現状の文芸界の最大の問題点なのである。

 

そういう「ありきたりな世界観」に飽きたからこそ、僕たちはエロゲにはまった

クラナドは人生、フェイトは文学」という有名なネットスラングがある。

 

2000年前後、エロゲ業界はまさにそういう文学作品があふれていた。出版会社が怖くて手を出せない異質の才能の持ち主たちが「文字が好きに書ける」という理由で、自分のエゴを文章に表出していたのがあの時代のエロゲだ。

 

日本の「かくあるべし論」にとらわれていた古臭い日本文学と、マーケット的に最適とされた有象無象のタケノコのような文章に飽き飽きしていた僕たちオタクは、作者のエゴの塊でできた文章に飢えていた。荒野で何日も食べ物にありつけなかった飢餓状態の我々にエロゲはとてつもない清涼水を与えたくれた。

 

エロゲにあるのは、まさしく「よかった頃の日本の純文学」にあった作者のエゴだった。既存の概念にとらわれず、愛も勇気も冒険もエロもグロもなんでもありの世界観だった。

 

結局、エロゲもいろいろあって駄目になってしまったのだけど。

 

響はエロゲ業界から生まれた正統的な純文学作品である

響の作者の第一作目において、作者は自分がエロゲが大好きである事を公然と宣言している。

 

たぶん、筆者は今の出版業界のあり方にとてつもない不満があるのだと思う。僕もかつてのエロゲに熱狂したもののひとりとして、その気持は痛いほどによくわかる。

 

実際、響において主人公が褒める作品は読んで面白いか否かではなく「作品中にエゴをちゃんと出しているか」否かである。一番初めにであった女性作家に響は全くケチを付けず褒め倒しているのに対して、売れっ子作家であれ友達であれ読者とか市場になびいてしまった作者には容赦のない暴力を奮っている。

 

この響の姿に、かつてエロゲに熱狂したものの1人として、とてつもなく深い感動を感じてしまうのは僕だけではないだろう。

 

こういう作品が読みたかったんだ。そういう「まだ見たこともない新たな世界線」を見せてくれる作者は本当にめっきりと数を減らしてしまった。

 

創作活動をする人、創作を愛する人はすべからく全て響を読んで欲しい。そして、この素晴らしいまだエゴのある若々しい作者の感性に圧倒されて欲しい。

 

こんな素晴らしい漫画、そうそうないですよ。