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アツアツだよ(´・ω・`)

新海誠が本当に書きたかった「君の名は」は本来はこういうストーリーだったんじゃないかという考察

今更だが「君の名は」をみてきた。初めのうちはシンカイマコトという単語にアレルギー反応を示していたので絶対に見るものかと思っていたのだけど、あまりにも評判がいいので期待値50%ぐらいでみにいったらメチャクチャ面白かった。これはシンゴジラと比較してもわかりやすくヒットしやすい映画だと思う。まだみてない人は是非とも映画館にいってみるべきだ。

 

だがこの作品、見終わってからずっともやもやしていた事がある。たぶんみんなも同じ思いをあるシーンで感じていたんじゃないかという風に考えている。そしてそれを考えれば考える程、ひょっとして新海誠はこの作品を本当に作りたかった形で作れなかったのかもしれないという思いが段々とでてきた。以下ものすごいネタバレ含む考察なので、繰り返しになるけどまだ映画をみていない人は絶対に絶対に映画館にいってから読んで欲しい。たぶんこれを読んでから映画を見ちゃうと面白さが半減するだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題のシーンは主人公である瀧くんが三葉の口噛み酒を飲んで、彗星が落下する災害から糸森町の住民を救出しようするシーンだ。瀧くんは三葉の体を借り、仲間の力も合わせて何とか住民を彗星による災害から救おうと奮闘するものの、どうにもこうにも上手く行かずに失敗してしまう。土建屋の息子は父親に犯行がばれ、放送部の女の子は放送室からつまみ出され、瀧くんの演じる三葉は父親を説得できない。

 

結局3人の努力はむなしく糸森町の人達は全く安全地帯に避難する事はかなわず、再度、彗星の被害にあってしまう。少なくとも劇中ではそういう風に描かれている。だけど、次のシーンでは一転して「町長の類まれなる統率力で何とか住民は全員助かりました」と出てくる。

 

この映画は全体的に物凄く丁寧に作りこまれているのに、このシーンは物凄く違和感がある。当然というか、もっとスッキリとした形でも映画は作れたはずなのに。なのに新海誠はこの映画でこのシーンを使用する事を採択した。それならばこのシーンにも当然必然性があるはずだ?なんだろう?僕は実は本当だったらこの後、もう一回ループがあったのではないかと予想している。

 

基本的に、映画監督は絶対に無駄なシーンは劇中に入れない。ただでさえ上映時間が決められているのに、無駄なシーンをいれる意味など全く無いからだ。そういう視点でこの映画を見返してみると、物凄く無駄な要素がたくさんある。まず父親が町長である事が全くいかされていない。そして親子の間にあった確執が、全く解消される事なしに有耶無耶なまま終わっている。

 

そして最も無駄に終わっている最たるものが、妹の存在ならびに妹の口噛み酒だ。まずこの物語は、あのストーリー展開ならば妹がいてもいなくても全く話はかわらない。また口噛み酒が一回しか使われないでいいのならば、妹が巫女衣装をまとって口噛み酒を作るシーンを描く必然性も全く無い。それなのにこの物語ではそれが描かれている。何故か?僕が思うに、これらは本当は使われるはずだったのだ。

 

「君の名前は」の劇中で三葉は「宮水の血は、今日この日の災害から街を救うために、この不思議な能力をゆうしていたのかもしれない」というような事をいうシーンがある。となるとだ。母親も、宮水の血を引いていたのならば、その不思議な能力を、街を救うために使ったという算段があったのではないかという事が推察される。

 

恐らくだけど、三葉の母親と父親も、三葉と瀧くんと同じように不思議な力を通じて出会ったのだ。そして三葉の母は、数年後にこの街に彗星が落ちることを不思議な力を通じて予見しており、そのことをパートナーである父に伝える。そしてその代償に母親は死んでしまい、父親は母親の残った意思だけを引き継ぎ、町長という街全体を指揮する立場を決死の努力により上りつめる(災害の日に、町の人を事故から避難させる為にだ)。

 

だけど残念な事に、瀧と三葉が不思議な力を通じて得た知識がしばらくすると曖昧になったのと同様、三葉の父もかつてあったはずの”三葉の母”を通じて得た町長になるという本来の動機を忘れ、結果残された”街を率いる存在になる”という思いだけが残る事になった。それ故に生まれてしまったのが、あの家族の不和なのである。

 

さて一回目のループで大失敗した瀧くんは、またあの宮水の聖地に巻き戻る事となる。このままではどうやら糸森町は救えないらしい。熟考に熟考を重ねたうえで、瀧くんは”この難題を解決するのに三葉の力が必要”だという回答にたどり着く。そのためにはどうすればいいか。そう、妹の口噛み酒を飲み、妹に乗り移ればいいのだ。

 

そうしてもう一回、あの大災害の日に舞い戻った瀧くんは、三葉に”君でなければ父親を説得できない”事を告げる。そして瀧くんは前回と同じく、土建屋の息子と放送部の女の子を動員し、糸森町の人々が避難できるように手はずを整える。

 

そして三葉は父親と対峙する。初めは娘のいうことを全く聞かない父親だったが、娘からの突然の告白により、忘れていた母との思い出を思い出す。その流れは多分こんな感じだ。

 

父「頭がおかしいんじゃないか?病院にいけ」

 

三葉「・・・あのね、お父さん。私、好きな人がいるんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「瀧くんっていうの。東京の高校生。私達、不思議な事に、時々体が入れ替わったりしていたの。初めは夢かなって思ってたんだけど、だんだんそれが現実だっていう事に気がついた。それでね、まあ色々あって好きになったんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「ひょっとして、お父さんとお母さんもこういう風にして出会ったんじゃないかなって最近、思うようになったの。ねえ違う?」

 

父親「(衝撃を受けた顔、そして忘れていた母との思い出を懐かしみ、涙目になる)」

 

三葉「私ね、宮水のこの不思議な力って、今日この日の災害から逃れる為にあったんじゃないかって思うんだ。お父さんが本当は好きでもない政治の世界に身を置くようになったのも、お母さんとの間で”今日この日におきる大災害から街のみんなを避難させられるようになる”、そういう事ができるようになろうっていう、やり取りがあったんじゃないかなって今では思っている。

 

父「・・・」

 

三葉「だからお父さん、私の話を信じて!」

 

父親「・・・三葉・・・いままで苦労をかけてすまなかった(そして絶大なる統率力を発揮し、町の人全員を避難所に逃れさせる為に尽力する)」

 

とまあ多分二回目のループはこんな感じで行われるはずなのだ。これならば、

 

1、宮水の家族全員に役割の必然性ができる。妹の口噛み酒が存在する理由もわかる

2、父親との確執が解消されるというカタルシスができあがる

3、この流れならば、彗星からの大災害を乗り越えた後のマスコミの報道と、内容がほぼ一致する

 

とまあ以上三点で、物凄く物語に整合性ができる。どうだい、すっごいスッキリしないだろうか?

 

とまあこういう形で何とか危機を脱した瀧くんと三葉だけど、たぶん本来のエンディングはもう少し物哀しいものだったんじゃないかな、と僕は推測している。

 

この物語はいわゆるループものの構図をしている。主人公である瀧くんが、この世ならざる宮水の聖地の中で、三葉の半身である口噛み酒を飲むことで、本来ならありえないはずの”過去”に到達し、未来を変える。

 

当然というか、いい方向に未来を変えたんだから、それなりの代償が必要だというのが物語のルールだ。たぶんだけど「君の名は」の本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか(本来の新海誠の作風から考えると、こういうエンディングのほうが物凄くしっくりくる)

 

だけど今回、この作品は最後は最大のハッピーエンドで終わる。たぶんだけど、はじめにこのエンディングをみた配給元が、この物哀しいエンディングにNGを出したのだ。「それじゃあ観客は満足しねえよ。ハッピーエンドに作り変えないと、配信は認めない」と。

 

結局、今回の大チャンスと作りたいものを作るという思いの間の中で苦悩した新海誠は、苦渋の決断の上で「君の名は」をハッピーエンドに作り変える。だけどこのままやられっぱなしは癪なので、良識ある視聴者にむけて残したのが、あの彗星による大災害事件の不自然さなんじゃないかと僕は思うのだ。

 

まあこれは僕の考察でしか無いのだけど、たぶんそんなに間違っていないんじゃないかな、と思っている。一度この映画を見た人も、そうしう視点でこの映画を見なおしてみると、より面白いものの見方ができるかもしれないね。