珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

テロ当日から一週間パリを旅行して感じた違和感

11/15 朝、眠たい眼をこすりながら羽田国際空港に向かう僕の目に「パリでテロ。100人以上が死傷」というニュースが飛び込んできた。

 

その日は別に狙ったわけでも何でもなく、僕の人生初のフランス旅行であった。ニュースでみたパリはどこから見ても危険地帯そのものであり、当然というか「こんな危ない所に今から行くのか」という感想を抱いた。

 

正直この時点で、ひょっとして飛行機飛ばないんじゃないかと思っていたのだけど、幸いというか飛行機は普通に飛んだし普通に空港についた。到着後も電車やバスといった公共交通機関は一部を除いて普通に運行していた。

 

観光地はエッフェル塔や凱旋門は閉鎖していたけど、ルーブル美術館は普通営業していたし他も何一つ変わらず普通だった。総じてパリの市民は普通に生活していた。

 

メチャクチャな状態を予想していたのに、普通に観光できた。


そう。普通だったのである。拍子抜けするほどに。

 

初めて訪れたパリの街からは、テロがおきたばかりだというのに溢れんばかりの余裕が感じられた。


街のカフェではニコニコしながら皆がわいわいとお喋りを楽しんでいた。夜間外出禁止令が出ていたけども、街の人気レストランは普通にどこも満席だった。

 

その後もカフェやレストランで偶然隣り合った人たちにテロの話題を幾つか恐る恐る振ってみたけど、多くの人から「パリは安全な街だから大丈夫だよ」というような回答を頂いた。

 

勿論、旅行者の僕を慮ってくれたという意味合いや、小難しい話題を異邦人と英語でわざわざ議論したくなかったという意味合いもあったのだとは思う。


ただニュースでの街の声と、実際の街の雰囲気があまりにも違うので、何か変だなという思いが旅行中どことなくつきまとっていた。

 

同じような事が東京であったかを思い返してみると、例えば地下鉄サリン事件秋葉原の加藤さんの事故。あの時、日本人はというか僕たちはどうだっただろう?


たぶん、ニュースをみて「痛ましい」とか何とか色々言っていたとは思うのだけど、多分別に普通の顔して普通の平和を享受していたはずだ。

 

この余裕は何なんだろうか。どう考えても国のどこかがおかしいからこういう行為が起きるのである。


こういう問題に国民は真正面から対峙すべきはずなのに、どこかで「警察や政治家」たちが何とかしてくれるさ、という根拠のない自信があり、それが僕らの心に余裕をうむ。


その余裕があるから、僕たちは何か事件があっても当事者でない限り、普通の社会生活をおくることができる。

 

これは社会が成熟し、余裕あるというよい事の側面なのだろうけど、この余裕は同時に貧困層への無知や無関心という側面を含んでおり、正直とても根深い問題だと思う。


日本にも多くの可視化されない貧困層や虐げられる人がいる。だけど僕らはそういう人には何の救いの手も差し伸べず、そのくせフランスのテロをみてFacebook上でアイコンをフランス国旗のマークに変えて、pray for Parisと平和を祈る。

 

強者の祈るその平和は、一言でいえば「俺は今の世の中で結構楽しくやってるんだから、お前ら下々の者共はこっち側の邪魔をしないで勝手に野垂れ死ね」というものと大体同義だ。


僕らは痛ましそうな顔を平気で出し、口では虐げられる人の問題を難しそうな顔をして話題にする。だけどそこに当事者としての感覚はゼロだ。

 

現代のような成熟した社会では「国家単位でのマクロな問題」について「国民1人1人というミクロな存在」は、どこか他人事になる事ができる余裕がある。


僕はこの余裕はとても素晴らしいものだとも思うのだけど、同時に「余裕に浸ってばかりいて平和を享受する事に慣れ親しんだミクロ」で構成された「マクロな国家」がいつまでも存続するという気がどうしてもおきない。

 

ヴェルサイユ宮殿でかつての王族は貴族にばかり目をむけて優雅な生活を楽しんだ。彼らは「国家-貴族間」という「ミクロな視点」においては、尽力を尽くしたのだとは思う。だけど、「虐げらた民」を含めた「マクロな国家単位」での認識力は薄かった。故に王政は転覆し、市民が市井を勝ち取った。

 

たぶんだけど、余裕にもたれかかって生活している僕たちは、どこかでいつか大きなミクロに殺される。そして未来の人たちにこう言われるのだ。

 

「なんで昔の人達は、こんな簡単な事もわからなかったのだろう。馬鹿な事ばっかして、問題を放置し続けてたんだから滅亡して当然だよ」と。

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