よいモノというのは、ある種の鏡のような性質を含有している
<この記事の編集後記みたいな話になります。単独で呼んでも読めるような形にはしていますが、合わせて読むともっと面白いかもしれません>
この記事を出した後に、増田で強烈なのがあげられた。読んでて思わず大笑いしてしまった。
リンク先の文章は、ミクロに教科書の記述を比較していろいろ検討してあり、ああそういう風にも読めるんだな、と学びが多かった。
個人的には総体として教科書を読んだときの読後感についての記述を行ったつもりだったので、こういう形での反論?は想定しておらず「そうかこういうのも需要あるんだな」と非常に新鮮だった。
まあそれは置いておくとして、本題はここからである。
この記事のブックマークコメントに
あの記事は「修学旅行で中学の時行った奈良京都はつまらなかったけど大人になって行ったら超面白かった!」といっているのとほとんど一緒ですよ。
というのがあった。これはまさに僕がいいたかった事を上手く表現している。
大人になると、様々な情報が自分の中に蓄積されていく。
教科書もまっさらな状態で読むのと、様々な情報を持って読むのとではみえる風景が異なるように、京都や奈良といった古都を歩くのも、まっさらな状態で行くのと色々な情報を身に着けた後に歩くのでは、感じ方が全く違う。
最近になって、このような年齢の違いで感じ方が完全に変わるタイプのものこそが、本当に価値のあるものだよな、と思うようになってきた。
名作とか古典とかそういう風にいわれるものは、いずれも全てそういう性質を含有している。
「なんでこれがこんなに名著って誉れ高いのか全然わからん。ドラゴンボールの方が100倍面白いじゃん」
なんて思ったのだけど、最近になって読み返してみると、10代の頃に読んだ時に受けた印象と150度ぐらい違う感情がフツフツと湧いてきて
「あれ?こんな本だったっけ?」
と妙に心に沁みてしまったのだ。
よいモノというのは、ある種の鏡のような性質を含有している。
京都や奈良は、年を取れば取るほど、見え方が変わっていく。
山川の日本史の教科書も、人生経験の違いで異なる場所に行間がみえるようになっていく。
これが成長なのか、それとも余分なものを抱えてしまった事を単純に示しているのかはわからない。
ただ、そういうある種のノスタルジーを楽しめるようになってきて、年をとるのも悪いもんじゃないな、と思えるようになってきたのである。
この次の10年後に、僕は京都・奈良、山川の日本史、人間失格をどういう風に楽しめるのだろうか。そう考えるだけで、なんていうかもう凄く心がわくわくしてしまうのである。
人生とは、実に味わい深い。