珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

成長が終わった国家、日本の平均年収が300万という現実について

平均年収300万といわれている現代。ほんとこれはギリギリ人間を踏みとどまれる最高のラインで実にうまくできていると思う。

 

年収300万というと、一か月あたりの手取りはだいたい15万程度だ。家も車も買わず、子供も持たずにいれば、まあ生きる事は可能ではある。

 

家賃に10万。光熱費水道ガス代ネットが月に2万ぐらいかかるとして、自炊で一食250円×20日≒5000円。その他で酒を飲むなり外食を楽しむなり漫画を買うなりして、月のお小遣いに2万円ぐらいは使うとしようか。

 

この時点での累計金額は145000円。残り5000円しかないので貯金はあんまりできないけど、まあ生活できない事はない。

 

国が成長していた頃は、全体的に余裕があったからいいものの、ある程度成熟して人に余裕が生まれなくなった現代日本の平均年収が300万ってのは、ほんとうまくでき過ぎてて笑いが起きるレベルである。

 

平均年収が300万ってのは、結局のところ成長していた頃はパイが大きかったからよかったけど、成熟したらギリギリ生きれるレベルで収入が平均化せざるをえなかったというだけの話なのだ。

 

こういう現実に直面した国民が、どういう生き残り戦略を選択するのかについては非常に興味がつきないところではある。日本は今まで成長する事しかしらなかったけど、今後は成長する場所がないとすると、三丁目の夕日の頃とは違って夢も希望もあったもんじゃない。

 

どんなに貧しくても、追いつく先があった頃はよかった。脱亜入欧を叫んで清貧を良しとした頃の日本には夢があった。

 

それがどうだろう。もう現代日本には成長という二文字が期待できる場所がほとんど残されていない。グローバル化は富める者をますます金持ちにし、貧しいものを全世界でほぼ共通して同一労働同一賃金へと押しやった。

 

どうにかしたいとは思うものの、この残酷な現実を前に私達は何をするべきなんだろうという事についての解決策は正直全く思い浮かばない。能力がある個人が金を稼ぐ方法はある程度思い浮かぶけど、能力がない人間にも余裕ある生活を提供できるような現実が、まったく思い浮かばない。

 

ほんとどうすればいいんだろうね・・・

 

<続き>

takasuka-toki.hatenablog.com

ガチのグルメが死ぬほどうまい香川うどんを食べさせてくれる店を紹介するよ

『うどんなんてどこで食べても同じでしょ?っていうかソバの方が美味しくない?』

 

断言しよう。あなたはマジで旨いうどんを食べたことがない。

 

県の名前すらうどんに変えてしまった愛すべきキチガイ国家香川。なんと県内だけで700件近くにも及ぶうどん屋があるという。おまけにその殆どは車でないと行けないような郊外にあったりと、正直うどん県の人達もう少し中央集権化しようよと言いたくなるぐらいに不便。極めつけは何故かはわからないが、駅近くにあるうどん屋はあまり美味しくないという事で、んーうどん県、そういうツンデレっぽいところ俺嫌いじゃないよ?

 

前置きが長くなった。本当は俺とマジで旨いうどんの出会いについてのエピソードを筆圧たっぷりと書き上げていきたいところなのだけど、断腸の思いでそれを切り上げてオススメ店リストを上げていく事にする。

 

1.出汁系

上原屋 本店

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な、なんじゃこの旨すぎる出汁は~( ゚Д゚)

 

香川うどんが他のうどんと比べて極めて特異的なのは、出汁に上質なイリコをふんだんに使用している事があげられる。

 

関東暮らしが長かった僕は、それまで出汁のうどんというとカツオもしくは昆布から取られた出汁でうどんを食べる事が多く、食べるたびに『いや、太い麺に淡白なカツオと昆布の出汁って合わないよね?』と思っていた。それが香川で初めてイリコ出汁を味わい、文字通り震え上がるほどの感動を覚えた。い、イリコ・・・てめえなかなかやるじゃねえか。

 

しょぱなから取り上げる上原屋総本店は、基本的には平凡なレベルの店しかない香川の中央地区に位置する店だ(香川の名店は基本的には車でないといけない郊外にしかない)。しかしその出汁のうまさは唯一無二といっても過言ではない。

 

香川うどんの面白い機材の一つに、各自が蛇口をひねって器に出汁をジョボジョボ入れるための道具がある。どういうものか思い浮かべられない人は、ビールサーバーみたいなものを思いうがべてもらえば大体は合ってる。香川のビールサーバーは捻ると出汁が出てくるのだ。それも一流料亭顔負けの極上のが、だ。

 

僕は香川に出かけると、まずは一杯のかけうどんを食べる。どんぶりイッパイに出汁を入れ、ズズっと口の中に澄んだそれをほおばった瞬間といったら。なんか変な薬でも入ってんじゃねえかと言いたくなるぐらいに旨い。いや本当に。

 

出汁系ならば他には松岡も素晴らしい。麺と出汁の調和という意味では、香川でも随一の店といえる。

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他に上戸もオススメ。ちょっと中央から遠いのが難点だけど、車を飛ばして行く価値は十分にある。

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2.麺系

なかむら

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ゆで上げられたはずのこの麺の不思議なコシ。誤解を恐れずに言えばグミそのものである。

 

なかむらはかの村上春樹が有名にした店である。当初は地元のタクシードライバーですら『こんなところにうどん屋があるだなんて知らなかったよ』と言っていた店で、文字通り畑の真ん中にポツンと立っていたという店だ(余談だが香川には今でもそんな店が結構ある。そしてそういう店に限って何故か美味しい)

 

かつてのなかむらを有名にした伝説のエピソードがある。ある日、客がネギがなくなった事を店員に伝えると

 

『その辺の畑に生えてる奴を勝手に抜いてきてくれ』

 

と言われたという。なんだその超・自遊空間。その面白エピソードが村上春樹に紹介された事から、なかむらは香川うどんで一躍スターダムに押し込まれた。

 

さてそんな一見イロモノのなかむらだが、変な場所にあるだとか村上春樹が取り上げただとか、そういいう話抜きに香川でも極めてユニークな一軒である。

 

何が凄いって?麺がグミなのだ。ためしに口に含んで少し引っ張ってみるといい。グーンと伸びるから。

 

蕎麦のシャキッとしたコシと似たような触感のうどんを出す店は香川にも結構ある。水でしっかりと〆られたうどんは、駅構内にあるスタンド蕎麦屋で出されるうどんとは一線を画した旨さがある。稲庭うどんなんかもその系統だし、大阪のうどんも基本的にはこの系統だ。これはこれでマジで旨い。

 

ただなかむらの麺はそういうものともまた違う。誤解を恐れずに言えば、なんか変なのだ。基本的にはうどんは暖かくするとコシが消えるのだけど、なかむらの麺は水で〆ようがお湯で温めなおそうが、いつも変わらずグミである。僕は結構うどんを食べ歩いてきた方だけど、未だになかむらのような麺を出す店を知らない。

 

なかむらは出汁も旨いのでかけうどんも捨てがたいのだけど、麺のうまみを味わうという意味でもざるか醤油うどんでぜひ食べてみて欲しい。かまたまにするのも悪くない。つけあわせにちくわの天ぷらでも合わせて食べれば申し分ないだろう。

 

難点は超超行列に並ばないと食べられない事だろうか。GWなどの繁忙期は2時間待ちは覚悟しなくてはいけない。とはいえその価値はあると断言しよう。

 

その他の麺系の美味しいお店だが、基本的に麺系の美味しいお店は有名店に集中してしまうのである程度の行列は覚悟して欲しい。

 

まずは日の出製麺所を外す事はできないだろう。一日1時間しか営業しないというこの店は、製麺所が経営する店だけあって麺の旨さは極め付けだ。ぶっかけや冷やかけがオススメ。ちなみにネギは机の上にゴムで縛っておいてあり、これを各自ハサミで切って取るという方式を採用している。

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これまた有名店で恐縮なのだが、谷川米穀店も麺の旨さでは卓越した一店だ。

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店は山の奥にあり、味付けは醤油しかないという、どう考えても流行る要素のない店だが、全国のうどん好きがその麺を味わいに続々と訪れるという奇跡のような店である。

 

おかわりシステムという香川でも極めてユニークなシステムを採用しており、一杯食べ終わってまた食べたくなったら行列に並びなおさずに店員にもう一杯欲しい旨を伝えれば、麺をまたどんぶりに入れてくれる。僕の知り合いの猛者は7回おかわりしたらしい

(-_-;)

 

メニューは冷たい麺か暖かい麺かの二つの選択肢しかない。おかわり可能なので両方とも食べてもらいたいが、オススメは暖かい方である。あつあつの麺に醤油を垂らして食べると、小麦の香ばしさが醤油で際立ち芳醇な旨みが口の中を駆け巡る。しばらくしたら卓上にある唐辛子の佃煮を入れて食べると、またキリッとした味わいがして一興だ。

 

3.釜揚げうどん

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こ、こいつはヤバすぎるぅぅぅぅ( ;∀;)

かつて香川には『西の長田うどん、東のわら屋』という伝承があった。香川には釜揚げうどんというジャンルがあり(平たく言えば暖かいざる蕎麦、つけ麺のあつ盛りのようなもの)、その二大巨頭が長田うどんとわら屋という店だった。

 

そのうち長田うどんはお家騒動でひと悶着あり分裂。近くに長田in香の香という喧嘩別れ当然の形で出店した店にボコボコに打ち負かされ、長い間『最近あそこ不味くなったよね』という評価を甘んじて受け入れていた。

 

しかし近年では心を入れ替えたからかその味は著しく向上。素晴らしき名店の一つとして再びその地位を取り戻すことに成功した。

 

釜揚げうどんとは、暖かく茹でられた麺をざる蕎麦のツユのようなものに浸して食べるものなのだが、特徴的なのはその深いイリコの出汁である。醤油とみりんで濃く味付けがなされたそれは、それ単体で飲んでも酒のつまみになるほどの強烈な旨みを有しており、正直これが東京にまだ持ち込まれないのは日本の国益を著しく棄損しているとすら思っている。それぐらいは旨い。

 

真の釜揚げうどんを出す店は本場香川といえど数少ないのだが、その数少ない店が長田うどんと長田in香の香である。

 

ただ長田in香の香は食べログ評価が香川で1位で、そのせいか恐ろしく並ばないと食べられないのが難点であった。

 

その点、長田うどんはかつての評判が尾を引いているのか、それなりに容易に食べられるのがありがたい。その出汁のあまりの旨さに高須賀もおもわず首ったけである。

 

4. カレーうどん

五右衛門

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くっ・・・悔しい・・・か、カレーうどんでこんなに感じちゃうだなんて。

 

カレーうどん、それは一晩たったカレーを食べた後で余ったルーを食べるための方法であり、まあ美味しいっちゃ美味しいけど所詮外道だよね。

 

そう思っていた。少なくともグルメな一品ではないと思っていた。五右衛門に行く前までは。

 

香川のうどん屋は基本的には昼のみの営業であり、夜やっている店はほとんどない。少なくとも有名店で深夜営業しているような店は一軒もない。しかし何故か面白いことに、高松市内ではカレーうどんの店が複数夜に営業しているのである。

 

僕は正直、初めは食指が動かなかった。どうせ昼営業して勝てないから夜にカレーで売ってるんでしょ?そう思っていた。ただ食べないまま批判するのも何だから、食べてから批判してやろう。そう思い五右衛門のドアを開いた先で高須賀はうどんの新境地をみた。

 

 ( ゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒゴッ!!!ゴホッ!ゴホッオエェェェー!!!

 

か、カレーうどん旨っ

 

認めたくないものだな・・・若さゆえの過ちというものは・・・

 

さてそんな人類の新天地を作り出している五右衛門だが、和風カレーと洋風カレーの二種類のうどんを提供している。正直かなり甲乙つけがたいのだが、強いて言えば和風がオススメだ。昼間に散々うどんを食べ飽きてきたあなたも『うどん( ゚Д゚)オイチイ』となるのは必至である。

 

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いかがだっただろうか。これを読んだあなた。特にうどんが美味しくないと思っているあなた。つべこべいわずに香川へGoである。

 

食わずに死ねるか!そう言いたくなる何かが香川にはある。

 

うどん県と名乗る覚悟は伊達じゃねえ。

日本を観光大国として復興するために必要な手法をグルメという視点から分析してみた

デーヴィット・アトキンスはその著書・新観光論でこう述べた。

 

 

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経済発展に必要なのは人口増加である。国内の人口増加が見込めない国は、移民によりこれを解決しなくてはいけない。

 

では日本のように移民を受け入れられない国が繁栄する為にはどうすればいいか?観光客という”短期移民”を多量に流入させ、金を落とすように仕向ければいい。

 

では観光客がバカンスを楽しむ先として、選ぶ基準点は何か。それは「気候」「自然」「文化」「食事」4つの要因である。これらが優れている事が観光大国になるための必要条件だ。

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詳しい内容は本書を読んでいただくとして、今回は『食事』にのみ論点を絞って書いていく事にする。

 

日本の外食の安さは先進国としては異常

ヨーロッパでもアメリカでもどこでもいいのだけど、先進国を旅した事がある人は現地のレストランの値段の高さに驚いたはずだ。町中のカフェに入ってコーヒーとサンドイッチを頼んだら平気で1500円ぐらいかかる。

 

レストランなんてもっと凄い。軽く食事をしただけで平気で3000円を超える。上級ラインはもっと凄く、3-5万なんて金額は当たり前のように請求される。

 

日本の食事事情は先進国としては異常だ。立ち食い蕎麦は200円もあれば食べられるし、大衆食堂は1000円もしない。3000~5000円も出せば随分立派なものが食べられるし、一万も出せばかつては貴族しか利用できなかったような高級レストランにだっていく事が可能だ。

 

おまけに美味しい。諸外国のレストランは現在でも死ぬほど不味いところがそこそこあるのに対し、日本では不味いレストランを探す方が困難だ。はっきりいうが、こんな国は他にはない。

 

安くてうまい。日本は食事という点では、十分観光大国になりうる潜在能力を有している。ミシュランの星も世界で一番多いこともそのことを十分に裏付けている。

 

だけどこれだけでは食の観光大国になるにはまだ不十分なのである。

 

同じフランス料理なら日本よりもフランスで食べたいよね

当たり前だけど、人は本物を愛する。どんなに上手くできた贋作も、本物にはかなわない。

 

もし仮に、あなたが”おいしいフランス料理”を食べるために旅行の計画を練ったとしよう。その時にフランス以外の国が選択肢に入ることはまずないはずだ。

 

はっきり断言するけど、日本のレストランのレベルは諸外国の本場の味と比較してもまったく遜色がない。いやそれどころかもっと美味しいかもしれない。

 

だけど外国人が”わざわざ”日本にフランス料理を食べに来るだろうか?日本のフレンチは本場と比べて半額程度で同じクオリティのものが出てくるけど、高い航空券と移動のためにかかる時間というコストは、数千円程度食事が安い事とは全くつり合いが取れていない。

 

もちろん『食事』以外の目的で日本を訪れた人からすれば、結果として日本の安くておいしい食事はありがたいものになるだろう。けどそれはあくまで副次的なものであって、食事で観光客を呼んでいるわけではない。

 

あなたはマチュピチュ遺跡やウユニ湖を見に行きたいと思ったときに、食事の美味しさがそこに行くかどうかの要因になるだろうか?正直メシがどんなに不味かろうが”そこ”に行きたいと思えるのなら行くはずだ。残念ながら安くて美味しいだけでは観光客を呼べないのだ。

 

日本が食事大国となり観光客を誘致するためにはどうすればいいか?

先もいったが観光客はオリジナルを愛する。どんなに優れた偽物も、本物には勝てない。

 

じゃあどうすればいいかなんて簡単だ。まず一つ目は、日本固有のものを売り出せばいい。

 

元からある日本料理や寿司、天ぷらなどといったものはそれだけで十分資産価値がある。ただ残念かな。私たち日本人は実は自国の料理についてほとんど詳しくない。日本料理の歴史、寿司の歴史、天ぷらの歴史。その素晴らしき魅力を語るための言葉を有していないのだ。

 

諸外国の人々が喜ぶような魅力をプレゼンテーションできずに、門戸を閉ざしてわかる人だけがわかればいいなんていう時代は終わった。人が物事にあこがれるキッカケは一つでも多い方がいい。もしあなたが外国人と話した際に”日本のいいところを教えて下さい”と言われたら何が言えるだろう?

 

寿司が美味しい?天ぷらが美味しい?そんなちゃちなほめ言葉では人は動かない。待ってましたといわんばかりに脳内で構築したストーリーを展開し、相手の心に憧れを刻み込む必要がある。

 

当然というか現場の人も全員が全員、この手の知識に明るいわけではない。我々庶民に加えて、すべての人が日本という国の食文化の教養を高める必要がある。観光PRをするのは観光庁だけの仕事ではない。私たち一人一人が教養を高めていく必要がある。

 

その他ジャンルの料理人はどうればいいのか

では今度は日本以外の料理はどうすればよいのかについてみていこう。残念ながら、フレンチもイタリアンも中華も日本の料理ではない。どんなに優れていても、本物ではないのだ。

 

じゃあどうすればいいのか?結論は一つしかない。元のジャンルを超えて、オリジナルになればいい。そうして他のどこにもない、日本初の全く新しい料理を作り出せばいい。

 

かつてスペインにエル・ブジというレストランがあった。分子ガストロノミーという手法により作られるその料理は、数々の美食家に驚きを与え瞬く間に世界一のレストランの階段を駆け上った。

 

エルブジの取った手法はゼロから生まれたわけではない。フレンチやイタリアンの技法を根底に、人口イクラや液体窒素といった科学的な手法を取り入れて、まったく新しい料理のスタイルを築き上げた。

 

この事から我々が学べるのは、本場を踏襲して作られたコピー料理も複数組み込んでオリジナリティを生み出してしまえば本物を超えるという事だ。じゃあどうすればいいか。そのために日本固有の料理以外の料理を作る料理人も、他分野のジャンルの教養を深く取り入れる必要がある。

 

フランス料理人ならまずはフランス料理の歴史を深く学びなおし、そこから自分なりのフランス料理哲学をくみ取る。そしてその抽出された哲学を自分なりに再解釈する。そしてそれを他分野でも行う。

 

武道には『守・破・離』という言葉がある。人はゼロからは何も生み出せない。まずは先人が残した遺産である基本の型を高速で身につける事で初めて人類が辿ってきたルートを身につける事ができる。

 

学問に王道はないというけども、それは習得するための手法の話であってある段階までの結論は一様だ。どんなに頑張ったって物理はニュートン力学相対性理論に行き着く。ならばそこまではテキストを用いて高速で学んだ方がはるかに効率が良い。

 

そうして最先端を身に着けたら、今度はそれまで身に着けた知恵や技術を用いてそれまでの常識という殻を破る必要がある。そうして自分で自在に新しい何かを生み出せるようになった時、初めて人はそれまで学んだものから自由になる事ができる。それははたから見ればまったく新しい何かだけど、キチンとそれまでの古典を踏襲したものなのである。

 

イノベーションはいつだって古典を踏襲した他分野の新規参入者によりもたらされる。スティーブジョブスは禅だとかカリグラフィーだとかの美意識という文化をシリコンバレーというIT文化に持ち込んだが故に、一見武骨でオタクなコンピューター業界に洗練されたカッコよさを導入する事に成功した。その結果、iMacMacBook Air、そしてiPhoneが生まれる事となった。

 

ワトソンとクリックも生物学を物理学的に解析するという手法を用いたが故に、それまで誰も解明できなかったDNAのらせん配列を見つける事ができた。その結果、従来の生物学とは異なる分子生物学が派生した。

 

他にもウォール街に物理学者が参戦したことでクオンツという新しい職種が生まれるなど、このような例は枚挙にいとまがない。

 

日本は美食大国だ。本場以上に本場の味を、より美味しく提供する事ができる稀有な国民性を有している。もう武道で言うところの『守』の段階は余裕で習得しているといっていいだろう。

 

だけどいまだに『壊』『離』が生まれない。なぜだろう。それは他分野の知識の習得がおろそかだからに他ならない。

 

今後日本が美食大国になるにあたって、他分野の教養を身につける事は必要十分条件なのだ。フランス料理人は天ぷらの歴史を勉強する必要があるし、イタリア料理人も寿司の歴史を学ぶ必要がある。

 

こうして高度な技術と幅広い教養を備える事に成功したとき、恐らく誰も見たことがない新たな美食が生まれる。そうして生まれた料理を美食家は大きな拍手をもって迎え入れるだろう。

 

そして日本は他のどの国も真似できない超ハイレベルな美食輸出国になる。そして外貨が多量に落とされるようになるだろう。そしてそのとき初めて、食の観光大国を胸を張って宣言できるのだ。その日を一メシ狂いとして楽しみにしている。

 

最後に手前味噌で大変恐縮だが、一般人向けに書いたイタリアン・フレンチ・日本料理・寿司・天ぷらといった美食のオールジャンルの入門書を最近ようやく書き終える事ができた。近々発表できると思うので、楽しみにしてください(できれば紙で出したいので興味ある出版関係の人は連絡ください。全部で13万文字ぐらいはあります)

僕の理想は『ありがとう・ごめんなさい・おはようございます』が必要ない社会

僕は海外一人旅が好きなのだけど、異国の地を一人で旅していると必然的に使用回数が増える言葉がある。『Thank you, Excuse me, Good morning.』の3つだ。

 

これらは中学生でも知ってる単語である。日本語の概念になおせば『感謝、謝罪、あいさつ』に相当するだろうか。

 

外国では多用するこれらの言葉だが、日本に帰ってくると使用頻度はガクッと落ちる。下手すると一日に一回も使わないかもしれない。

 

こんな事を書くと『もっとキチンとした声で”ありがとう”や”ごめんなさい”をいいましょう。それと挨拶は生活の基本です』みたいなどこかの道徳の教科書に書いてありそうな事をいう人がいる。

 

本エントリはそういう趣旨とは真逆のものだ。僕はこれら三要素が持つ恐ろしい力に気が付いてしまった。端的にいえば今現在の日本におけるアリガトウやスミマセンは社会的弱者を対象とした貧困ビジネスなのである。今日はその事を書こうと思う。

 

経営者が書く本に書いてある気持ち悪いエピソード

『わたしは毎日○○ストアを利用するのですが、店に入るたびに聞こえる”おはようございます”の声を聞くと、今日も一日頑張ろうと思います。あなたのお店はマナー研修が行き届いていて素晴らしいです』

 

”お客様”からのこの手のエピソードを”美談”として紹介する経営者の本は後を絶たない。お客様は神様ですというキチガイワードを創造したのは松下幸之助(現・パナソニックの創始者)だ。

 

これが発端かはわからないが、日本はお客様≒神様という図式を元に、従業員(奴隷)が神様に向かって『感謝・謝罪・挨拶』を自主的に行うように徹底的に叩き込むマナー研修という恐ろしい制度がまかり通っている。

 

『感謝・謝罪・挨拶』はいずれも生活の潤滑油になりうる。これらを使う事によって、気持ちよく日々を過ごせる・・・という風に道徳の先生やマナー講師は言う。

 

けどそれを要求する人は基本的にはどうしようもない人ばかりだという事実を、僕たちはどう判断すればいいのだろう。

 

感謝も謝罪もあいさつも、本来は必要ない言葉である

僕は冒頭で海外一人旅で『Thank you, Excuse me, Good morning.』といった『感謝、謝罪、あいさつ』の言葉の使用頻度が増えると書いた。

 

何故これらの発言数が増えるかというと、僕がその地では異邦人でしかなく異国の地にお邪魔させてもらっている存在でしかないからだ。

 

だから必要以上にかの地では気を使い、これら潤滑油としての言葉を使うことで心地よい居場所を手にいれやすくしている。

 

だけどちょっと考えればわかるけど、これらは普通の状態ではない。というか通常ではないからこそ、これらの言葉をたくさん使うのだし、だからこそ異邦の地の人々も僕を客として扱ってくれる。

 

つまり『感謝、謝罪、あいさつ』が必要な社会というのは、通常の状態ではないのだ。僕は日本ではこれらの単語を一言もしゃべらないで生活することも多々あるし、むしろどちらかといえばそういう時の方が気を遣わずに心健やかに過ごしている。

 

今度は逆に『感謝、軽めの謝罪、あいさつ』を使う場面を考えてみよう。仕事だったり、ちょっと緊張する人との食事だったり。そういう時にこれら三要素の使用頻度がずいぶん増える。やっぱりこれらは居心地が悪い場所で、できる限り快適に過ごす為の魔法のワードなのだ。

 

そして大切なことだけど、これらの三要素は自発的に言うからこそアリなのだ。強制的に言わされたらパワハラも甚だしい。もし仮にあなたが『ありがとうって言いなさい』だとか『ここはすみませんという場面だろう』だとか『お前は挨拶もできないのか』と言われたら、イラッとこないだろうか。

 

『感謝、謝罪、あいさつ』は本来ならば、自分の意志で使うものだ。だけど世の中にはそれを強制的に言わせる恐ろしい場所が存在している。

 

コンビニや格安飲食店でありがとうございましたと言われる不思議

『いらっしゃいませー』〚もうしわけございません〛『ありがとうごさいましたー』

 

コンビニや格安飲食店で日々言われる言葉である。僕はこれが正直いえば気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなかった。僕がコンビニやこれら格安飲食店を訪れるのは『自分がそこに行きたかった』からであり、むしろお礼を言わなくてはいけないのはどう考えても自分の方だ。

 

『こんな場所でこの時間まで営業してくれてありがとう。おかげでお茶が買えたよ』とか『こんな中途半端な時間にご飯作ってくれてありがとう』が本来なら”筋”のはずだ。

 

そしてこれらが最もグロテスクなのは、”マナー研修”や”企業研修”という形で従業員が客に無理やりそれらの言葉を言わされているという事だ。

 

先ほどもいったが、『感謝、謝罪、あいさつ』は本来ならば、自分の意志で使うものだ。だけどこれら接客業では”教育”の結果、それらを給料を払う事で”無理やり”言わせている。

 

だけど、この『感謝、謝罪、あいさつ』は恐ろしいくらい出回っているし日本社会において定着している。こんなグロテスクな仕組みが根付いているという事は、それに需要があるのである。

 

その需要とは何なのか。実はそれは承認欲求に他ならない。

 

ヤンキーや民度の低い人ほどマナーにうるさい

21世紀のインターネット承認欲求が過度に肥大した社会だと言われている。

 

だけどちょっと待ってほしい。確かに僕を含めてインターネットには承認欲求ジャンキーが徘徊しているけど、普通の人だって当然というか承認欲求が無い筈がない。

 

じゃあ普通の人はどこで承認欲求を補填しているのだろう、と思ったときに僕はようやく気が付いたのだ。ああ、彼らはコンビニや格安飲食店といったサービス業で『感謝、謝罪、あいさつ』を受け取る事で自分の承認欲求を満たしているのだ、と。

 

体育会系やヤンキー社会に所属した事がある人はわかると思うけど、彼・彼女らは『ありがとうございます!すみません!おはようございます!』に異様に厳しい。なんでそんな事をしているのか長年疑問だったのだけど、あれはそれらの社会に所属して地位を高めた結果得られる、承認欲求の一つの形なのだ。

 

だから体育会系ではこれらを徹底できない人に異様に厳しく当たる。だってそれが自分が承認されている事の証明なのだから。それができない人に対して寛容になれるという事は、それすなわち自分は”承認されなくてもいい”と言っている事とほぼ同義なのだ(逆に文化系ではそれ以外に作品という形で承認をえる方法があるので、必ずしもマナーは徹底されない)

 

よく民度が低い人ほどコンビニや格安飲食店でマナーにうるさいという。僕も前から高々数百円の時給の人になんでそんなにあの人達が厳しくあたるのか不思議でしょうがなかったのだけど、あの人達はそこに『感謝、謝罪、あいさつ』を得る為に出かけているのだ。

 

それが徹底されていない場面に遭遇した際に、民度が低い人たちが何故優しくなれないかというと、それすなわち自分は”承認されなくてもいい”と言っている事とほぼ同義なのである(逆にそれ以外の形で社会的に承認をえる手段がある社会的上層は、多少マナーがおかしかろうが基本的には優しい)

 

実は最近のネット民だけではなく、もう結構昔から人は承認欲求ジャンキーだったのだ。

 

僕はもっと楽な社会に生きたい

お客様は神様です。経営者はこの魔法の言葉で従業員を洗脳し、神様に『感謝、謝罪、あいさつ』を与える事を当然という風に刷り込む。だけどやっぱりこれらの言葉を金の力で無理やり言わせるのは、有り体に言ってもかなりグロテスクじゃないだろうか。

 

繰り返すけど、『ありがとうって言いなさい』だとか『ここはすみませんという場面だろう』だとか『お前は挨拶もできないのか』っていわれるのはやっぱり嫌だ。少なくとも僕は反吐がでる。

 

だけどこれが仕事という事になると、普通の事として扱われる。そしてそれが言えない奴が『マナーがなってない奴』だという烙印を押されている。

 

批判を承知で言うが、僕が理想とする社会は『ありがとう・ごめんなさい・おはようございます』を強要される事がない社会だ。

 

だからこそ、僕たちは格安で従業員を働かせて『感謝・謝罪・あいさつ』の大バーゲンセールを行っている企業を断固として拒否していかなくてはいけない。そういう場所にいって『サービスが素晴らしいからここを選んだ』なんていう奴は社会をもっと生きにくい場所へと先導しているといわれても否定できない。自分が人にさせられて嫌な事は、人にもやらせてはいけないのだ。

 

その事の方が感謝しましょうだとか挨拶しましょうなんて事よりも、よっぽど道徳の教科書のトップページに載るべき事なのにね。

 

<追記>

この記事書いてて思い出したのが、3/11の時にTVのCMになったこれ。こうしてみると広告業界も『感謝、謝罪、あいさつ』は燃えないし不謹慎じゃないって事を理解しているのだろうな。


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 <参考文献>

超面白いからオススメ

 

 

元少年Aによる「絶歌」は、正しい保健体育の教科書である~子供がオカシクなるとき~

批判を承知で言うが、「絶歌」は可能な限り避けて通らずに読むべき本である。平和な家庭にモンスターが生まれ落ちる過程がこれ以上なくわかりやすく書かれている。

 

 

絶歌

絶歌

 

 

「自分が少年Aという怪物にならなかったのは運が良かったからに他ならない」

 

これがこの本を読み終えての率直な僕の感想である。以下多少の内容解説を加えつつその事について記載する。

 

快楽の探求に熱心な子供

本書によると、元少年Aは様々な偶然が重なり「生物の死」と「マスターベーション」を組み合わせてしまった過去がある。「マスターベーション」により得られる快感をどんどんエスカレートさせていった結果があの事件に繋がったのだ。

 

人は自らの性器への刺激だけでは絶頂にたどり着く事はできない。自分の性器への刺激に加えて「何からのイメージ」を抱くことがイく為には必要だ。殆どの人はそれがエッチな妄想である事が多いけど、人がオナニー中に想像するオカズを細かく調べれば、エッチな妄想以外にもかなりの多くの種類が存在する事は想像に難くない。元少年Aの場合、オカズがたまたま「生き物の死」になってしまったというだけなのだ。

 

自分が性的な快楽を得るために必要なイメージが、何と結びつくかなんて完全に運でしかないし、エッチな妄想以外で性的絶頂に達する事を「病気」だと判断するのは「自称正常」な人達のエゴだ。そういう無条件に多数派が正しいと思っている大衆は、例外に対する寛容性がないだけでしかない。マイノリティだって生きる権利はある。ただし、周りに迷惑をかけなければという但し書きがつくけども。

 

自分自身もそうだったからよくわかるのだけど、一部の子供は性的快楽の探求に非常に貪欲だ。一日に何回マスターベーションができるかとか、どうやれば一番気持ちよくなれるかだとか、それこそ快楽のために追求すべき事など沢山ある。そしてその快楽を享受するための「目的と手段」がどこに結びつくかが極めて大切である。

 

自分の場合、運が凄くよかったな、と思うのはこの結びつく先が二次元だった事だ。正直ブログでこんな事をぶちまけるのもなんだけど、若い頃の僕は異常に性欲が強かった。そのはけ口が二次元キャラという「誰も傷つかない」架空の対象だった故に、僕は偶然にも誰も傷つけることなく若い頃の異様な性欲を数年間の歳月をかけてゆっくりと落ち着ける事ができた。それ故に僕は今でもお天道様の元をニコニコ笑って歩くことができる。

 

だけどこの性欲がひょんな事から「誰かを傷つける」ものと結びついていたら、僕と僕の周りの人は随分悲惨な事になっていただろう事は想像に難くない。「生き物の死」は極端かもしれないけど、例えばこれが「心を病んだ同級生」とかだったらどうだっただろう。たぶん僕は性欲に勝てずに随分と酷い事をして、多くの人を傷つけた事だろう。繰り返すが、自分が誰も傷つけずに性的衝動を落ち着かせる事ができたのは、運がよかったからに他ならない。

 

乙武さんの例を出すまでもなく、ある種の男の子という生き物は「性的快楽」に脳が支配されている。大切なことだから繰り返すが、その「性的快楽」を得るためのイメージがなにと結びつくかは完全に運なのだ。元少年Aのようなケースはもちろん数は少ないとは思うけど、「生物の死」と「性的快楽」が結びつく可能性については子供を持つ親は必ず知っておく必要がある。もしあなたの子供がその組み合わせを選択してしまったら、それを一番初めに察知できるのは親である可能性が最も高いからだ(そして、もしそれを見つけてしまったら、たぶん親の力ではどうする事もできないので恐れずに専門施設につれていくべきである)

 

もちろん世の中にはこんなに性欲が強い子供ばかりではないだろうし、エッチがしたくても童貞な男子が世の中に溢れているように、殆どの人は「性的快楽」を得たい形で得るための行動力がそもそも備わっていない。

 

いくら人間を殺してマスターベーションをしたくても、それが実行できる計画力がなければ精々スナッフビデオを見ながらオナニーするのが関の山だ。元少年Aの事件は、本人に類まれなる卓越した知性が備わっていた事も一つの不幸である。馬鹿とハサミは使いようじゃないけど、能力がありすぎるというのも時に人を不幸にする。

 

元少年Aのもう一つの不幸は、あまりにも人が良い両親のものに生まれた事もあるだろう。子供を信頼する事は、子供を疑わない事ではない。愛あるゆえに人は自分の子供を適切なタイミングで疑わなくてはいけない時もあるのだ。子供は純真であるが故に残酷な存在であり、それ故にモンスター化する可能性を誰でも有している。「我が子に限って」と思う気持ちはよくわかる。ただ怪物が育つ場所は、修羅の国だけではなく、自然淘汰のない温室だって事もありえるというだけだ。

 

 人として真摯に生きるという事

僕が「絶歌」を正しい保健体育の教科書であると思う理由は、この本が子供の性が人を傷つける暴力性を持つ可能性について、これ以上無くわかりやすく書かれていると思うからだ。男女の体の仕組みとか、避妊の仕方とかもそりゃ大切だけど、一番大切な性の知識は「一生付き合っていかなければいけない自分の性衝動を、出来る限り他人を傷つけない形で消費する事」だろう。

 

人を傷つける事に真摯に向き合わない性衝動の発散を続けている人は、本人がその行為に無自覚であるが故に極めてタチが悪い。例えばヤリチンは、自分の性衝動を最も気持ちよく消費するために女の子の体を消費する事を厭わない。恋愛工学の鉄のマントラが「男に女を傷つける事などできない」なのはこの事を実によく言い表している。

 

その他、不倫などの人から後ろ指をさされる系の性的快楽の実現が何故こうも議論を醸し出すのかといえば、それはすべからく全て「他人を深く傷つける」要素を有しているからだ。

 

もちろん生きていくにあたって、人を傷つけない事など不可能以外の何物でもない。愉快犯が如く、己の欲望の実現の為に相手を消費対象にする事は唾棄すべき行為だが、真の心から生まれし行為により人を傷つけてしまう事だってある。その時に大切なのは「自分が人を傷つけたという事実にしっかりと向き合う」という事だ。

 

結局、大切なのはあなたがその行為について責任を持てるか否かである。本気で恋愛して最後までいければハッピーエンドだけど、うまくいかない事だって多々ある。その時に、あなたは真剣に恋した人を傷つけたという事実に向き合う覚悟があるだろうか。

 

これは何も性的快楽だとかに限った話ではない。例えばブログだって、承認欲求の実現の為に行われている自分のエゴの塊のような行為である。自分が書いた文章に人を傷つける意図がなくたって、人を傷つけてしまったのならそれは貴方の責任だし、その事実にはしっかりと向き合わなくてはいけない。それができないのならブログなんて書くべきではない。自分の人生に責任を持つという事は、総じて言えばそういう事なのである。

 

なぜ人を殺してはいけないのか

この本はもう一つ、大きなテーマがある。「なぜ豚や牛は殺してもいいのに、人を殺してはいけないのですか」という問いだ。元少年Aはこれを学校の教師に言った所、教師は絶句して議論すらおきなかったという。仮にだけど、この問いにキチンと周りの大人が当時の少年Aと共に向き合っていたら、違う未来もあったのかもしれない。

 

ネタバレになってしまうのだが、本の最後の方でこの問いに対する元少年Aの回答はこうだ。

 

「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

 

僕はこの最後の「あなた自身が苦しむ」という言葉が、元少年Aが行ってしまった殺人について、本人が真摯に向き合ったが故に生まれた言葉なのではないか、と思う。

 

この本が世に誕生したという事実が許せない人が沢山いるのはよくわかる。僕はその感情を否定しないし、仮に僕が遺族だったら理屈抜きに元少年Aの行為を批判するだろう。元少年Aの行為は個人が一生をかけても償いきれない大罪だし、本人と遺族の間でのみ本来は交わされるべき問題だ。他人がズケズケ入り込んでいい問題ではない。

 

だけど僕は同時に、この元少年Aが今後60年間程度かけて真摯にこの大罪に向き合った時に発せられる言葉が、人類にある種の何かをもたらすのではないかという希望を捨て去ることができない。

 

こういう事を言うこと自体が不謹慎なのかもしれないけど、元少年Aはこの問題にちゃんと向き合うと決めたからには最後までやりきって欲しいな、と思う。人が生きるって、そういう事でしょう?

 

<参考文献>

 批判としっかり向き合う事について書かれた僕が知ってる唯一の本(おまけに200円と異様に安い)。批判にちゃんと向き合うようにしないとイケダハヤトみたいな無責任な炎上芸人にしかなれないぞ!

ブログにためになることなんて書かなくていい (impress QuickBooks)

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北条かやさんの「日曜のお医者さん、咳止めとビタミン剤で7000円とるってどやねん」発言についての雑感

北条かやさんの発言が医療クラスタに大変ひんしゅくを買っている。

 

 

 

正直な事を言えば、これは風邪で医者に行く意味がないという事を啓蒙していない僕ら医療従業側にも責任はあると思う。ただまあ正直なところ、そういう事を説明しても普通の人は何一つ理解してくれない事はこの数年間の医者生活でよくわかったので、今日はそもそも医療って何なのって切り口から話をする事にする。

 

なぜ人は風邪で病院を受診するのか

人は様々な理由で病院を受診する。「風邪をこじらせて肺炎になったら行けないと思って早期受診しました」のような早く医療機関にかかれば早く病気が治ると思っている人もいれば、「いつまでたっても熱が下がらないので病院に来ました」という人もいる。

 

ちなみに風邪をこじらせても肺炎には普通はならないし、風邪で熱がなかなか引かない時に病院を受診しても残念ながら普通は熱は下がらない。ただそういう風に医療従業者が説明して、病院を受診しないで済ませられるような人なんてほとんどいない。

 

健康な人が風邪などで医療機関を受診する理由の99%は、自分や家族の体調不良に対して「素人判断による判断ミス選択した」という事実から逃げるためだ。

 

とりあえず病院にいって医者から薬をもらったという事実は、思いのほか精神的な支えとして強力に働く。ほとんどの医療従業者は勘違いしているが、僕らの仕事は病気を治す事だけではなく、病院にくる人の精神的な支えをするという役割も大変大きい。

 

だから風邪みたいな医療従業者からみてしょうもないプロブレムで病院を受診する人を、医療従業者が叩くのはお門違いでもあるのだ。僕もどちらかというとカウンセリング的な医療業務が嫌いな方の人間なので、ギャーギャー言いたくなる医療従業者の気持ちはよくわかるのだけど。

 

ただ強く強調しておきたいのだけど、医者は万能ではない。病院に来たからといって風邪を一瞬で治せはしないし、全ての病気を治せるわけではない。まして患者を不老不死にする事なんて絶対にできない。

 

医者にできる事、できない事

「人間の死亡率は100%です」

 

これはバカの壁で有名になった養老孟司先生が講演会でよく出す決め台詞である。

 

2016年現在、残念ながら人の命は有限だ。健康に生まれた人でも、ほとんどの人は80歳前後にはこの世を旅去る。

 

人の命は有限だ。それゆえに大切なのは「有限な命の中で何をしたいか」である。だけど医療機関を受診する人をみていて問題だなと思うのは、ほとんどの人の求めているものが「死にたくない」というアリエナイ理想である事が非常に多いという事である。残念ながらその注文には医者はまだ応えることができない。

 

僕は実はF1が凄く好きなのだけど、医者の仕事はF1の車の整備にとてもよく似ているなと思う。マシーン整備の人は、F1レーサーが気持よくサーキットを走りきる為に、機体を事細かに整備する。これにより、F1レーサーのレース中の快適度は桁違いに上がっている事だろう。

 

だけどマシーン整備の人は、F1カーを燃料無しに永遠に走り続けるようにはできないし、壁に激突しても絶対に人が死なない車も作ることができない。

 

僕は医療機関をおとずれるモンスタークレーマーを見るたびに「この人は医者をマッドサイエンティストか何かと勘違いしているんじゃないか」と思うのだけど、たぶんあの人達は人の命は永遠であるという前提でモノを話しているのだ。ゆえにそれを理解していない医者としばしば衝突する。

 

だから僕ら医者は、こう啓蒙する必要があるのだ。「あなたは100%死ぬ。私達にできるのは、せいぜいあなたが気持ちよく人生というサーキットを完走するお手伝いでしかありません。永遠に20代の体でいられるようにはできませんよ」と。

 

結論

初めの問いに戻るが、正直風邪で7000円が高いかどうかというのは、あなたが人生というサーキットを高速で駆け抜けるためのメンテナンス費用がどこまで出せますか?という事に行き着く。

 

ちょっとぐらい周回遅れしてもいいかなって思えるのなら、7000円を払う価値など無いし、逆に最速で駆け抜けたいのなら7000円は妥当な金額だろう。

 

結局のところ、あなたが人生に何を求めるかなのだ。それ以上でも以下でもない。

 

 最も大切なのは、あなたが人生において何を一番大切にしており、何を成し遂げたいかである。それがハッキリしていれば、僕たち医療従業者は現在における最先端を提供することは可能だ。だけど現在の科学技術を超えたものは提供する事は出来ない。それだけは最低限理解して欲しいな、と思う。

バカの壁 (新潮新書)

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ウンコ味のカレーを食べてきた話(閲覧注意)

人よりほんの少しだけ食事が好きな高須賀です。美味しいものは好きですが、愛ある食べ物はもっと好き。そんなわけで昨年末に期間限定でやってたウンコ味のカレーを食べさせてくれた”カレーショップ志み津”に行ってきた話を書くとしましょう。

 

ちなみに残念ながらもう既に閉店しているので、ウンコ味のカレーは食べられません。残念だったな(´・ω・`)*1

 

さっそくだがこれがウンコ味のカレーの外観だっ!以下グロ画像注意。

 

 

 

 

 

 

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想像以上にきっつー(´・ω・`)

 

 

ていうか便器型のヘリにこびりつけるように盛るのとか、色々よくわかっててすぎてブチ切れそうですよ。

 

このカレー屋の何が凄いって店の扉をあけた瞬間、マジのウンコ臭がプーンと漂うんですよ。よくもまあ近隣住民から苦情が来なかったもんだ。

 

でも原材料見せてもらいましたけど、当然の如くカレーは全てスーパーで売ってる食べ物で作られていたんですよね。いやー、確かにウンコも元をたどればただの食べ物ですけど、ここまで臭いが再現できるって衝撃以外の何物でもありません。

 

で、肝心のお味ですけど、これが臭いと比べると普通に食べ物の味なんですよ。サンマの肝の苦味と食物の繊維質とひき肉の味がする、スパイスが効いたカレー。正直な事を言えば美味しくはないけど、不味くはない。というか普通にひき肉の味。

 

ただまあ食糞経験者に言わせればウンコってこんな味なんだそうで(苦味+食べ物の味)。僕はウンコを食べたことはありませんが、先入観を取っ払えば意外と普通に食べられる性質のモノなのかもしれません(この辺り、はてなだと斎藤さんとかが詳しいのでしょうね)

 

と、いうわけで特段苦労もせずに普通に完食。食べきった証として、カードをもらいました。

 

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正直ウンコ味のカレーをまた食べたいとは思いませんが、貴重な体験ではありました。総じて言えば自分の今までの食事経験を試されているみたいな感じがして、なんつーかカレーを食べているのかカレーに食べられてるのかよくわからない不思議な感情に包まれました。偉大なワインは飲み手を選ぶといいますが、ウンコ味のカレーもまた食べ手を選ぶのかもしれません。

 

一回の食事でこんなに人生哲学できるだなんて。いやー、メシって本当に素晴らしいですね(´・ω・`)

 

・・・・・・とこんなわけで僕の初めての体験は、クソミソな結果に終わったのでした・・・

*1:イベントで時々出品される事はあるようです