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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

日本が貧しくなっていったら、僕たちは核家族を捨ててムラ社会の頃の共同体に戻るのかもしれない

日々徒然

これから書くことは相当悲観的に日本の未来を予想したものだ。現実はもっとうまくいくかもしれないし、ひょっとしたら想像以上に悲惨な事になるかもしれない。

 

まあ戯言程度として付き合ってほしい。

 

家族という概念の変遷

核家族という概念がある。まあ簡単にいえばクレヨンしんちゃんの野原家を思い浮かべてもらえばいい。夫婦+子供だけの形、それが核家族

 

この概念が比較的普遍的なものとなったのは日本では1920年頃だとされている。その後経済成長や人口増大もあって、1960年代頃にはこのモデルがいわゆる普通の家族の形として定着していった。

 

核家族化が進んでいった理由としては色々考えられるだろうけど、一つにはこれが最もストレスなく過ごせる家族モデルだって事が考えられるだろう。サザエさんのような複数世帯が同居するような家族モデルは、嫁・姑問題のみならず様々な人間関係の嫌な部分が生じてくる。

 

例えばサザエさんではカツオはニコニコしているけど、あんなに頻繁に波平にカミナリを落とされたら普通はグレるだろう。結局核家族っていうのは面倒くさい人間関係を極限までそぎ落とした結果の一つなのだと思う。

 

それなりに年収が高く、また平均寿命が短かった頃は、この家族形態はキチンと成立していた。祖父祖母の世代は介護が必要になる前にサクッと人生を終えてたし、子育ても妻が専業主婦になれるのならば、周りから助けを借りなくても何とかなった。だけどそれは経済成長と医学が必要以上に進歩してこなかった事の恩恵だったのである。

 

キチンと経済成長していた頃の日本

クレヨンしんちゃんの野原ひろしの設定は35歳で年収650万だ。これならば埼玉県春日部市に一軒家を構えて美しい妻を娶い、子供二人を男で一人で育てる事ができた。

 

このモデルはあの漫画が出た時の普通の家族をモデルにしたものだ。野原ひろしは全くハイスペックではなかった。

 

給料は究極的な事を言えば”生産人口が生み出す富の総和”から”非生産人口を支えるにかかる経費”を引いたものを生産人口で割ったものに平均化される。クレヨンしんちゃんが書かれたのは1990年だけど、この頃の日本は”それなりに”まだお金があって、”それなりに”支えるべき非生産人口の数が少なかった。すると普通の家庭でも平均年収650万ぐらいは手に入れる事ができた。

 

結局その後、かつてほどには成長できなくなった日本の若者の年収は半分くらいの300万程度まで下がった。”生産人口が生み出す富の総和”があまり増えず、”非生産人口を支えるにかかる経費”が増大した結果が、年収300万だ。するとどうなっただろう。

 

現在の日本

さっきも言ったけど、核家族という形態は面倒ごとを避けてきた僕たちが手に入れられたギリギリのラインだ。僕たちはサザエさんちびまる子ちゃんの頃の家族の形にはできる限り戻りたくない。できる事なら、クレヨンしんちゃんが理想だ。

 

デマこいのid:Rootportさんはその著書である『失敗したら即終了!日本の若者がとるべき生存戦略』でデータを駆使して”子供を産むか産まないかの分水嶺世帯年収500万円”だと述べた。

失敗すれば即終了! 日本の若者がとるべき生存戦略

失敗すれば即終了! 日本の若者がとるべき生存戦略

 

 

 

トイアンナさんはそのブログで最近の若者は結婚に焦っており、かつてのような結婚せずにまだまだ遊びたいという価値観は既に崩壊しつつあると分析した。

toianna.hatenablog.com

 

この二つの分析から考えると、今の日本の若者は”世帯年収500万”という”核家族をギリギリのラインで保てる”状況をなんとか保とうとしているんじゃないかという風に見えてくる。

 

クレヨンしんちゃんの野原ひろしの時代なら、普通に生きてて35歳で平均年収が650万だ。それなら30代ぐらいまで遊びたいという欲求と、核家族という社会形態を維持するという理想は両立可能だ。

 

だけど残念ながらそういう人生設計モデルは成長が乏しい今の日本では結構悲観的だ。そうなると若者は核家族というモデルと保つ為に、20代から生存戦略として結婚に焦らなくてはいけない。

 

若者一人当たりの年収が300万の今現在なら、夫婦で共働きすれば世帯年収はなんとか野原ひろし家ぐらいには到達できる。扶養排斥が受けられないし、介護費用もかかるし、保育園代もかかるしで現実はもうちょっと貧しくなるけど。まあ車も一軒家も諦めれば、なんとかギリギリ家族として生活はできるだろう。

 

けどこの家族モデルが成立しなくなったら僕たちはどうなってしまうのだろう?

 

日本の成長が鈍化してったら、家族の概念が再度変わるかもしれない

この社会形態のまま、日本がキチンと成長していって”生産人口が生み出す富の総和”がどんどん増えていくならば、たぶん僕たちは今のちょっと苦しい時代を何とか乗り越えていけるだろう。

 

だけど仮に日本があまり成長せずに、”非生産人口を支えるにかかる経費”ばかりがどんどん増大していったとしたら、世帯収入は普通に500万は割り込んでいくだろう。

 

で、どうなるか。日本は滅亡するのか。僕の予想はこうだ。たぶん家族という概念が変わる。より詳しく言えば、核家族というスタイルは一部の金持ちのものとなり、かつてのように共同体としてのムラ社会が新しい家族の形になる。

 

実は共同体としてのムラ社会の萌芽はいたるところで見られる。地方ではマイルドヤンキー的な生活スタイルが採択されているという分析はよく見かけるし、都会でもシェアハウスが一つのブームになりつつある。

 

僕たちはサザエさんの頃のように、親親戚と共同生活をおくる事は嫌だけど、友達とならなんとか共同生活ができる。それが今の若者の選択なのである。

 

新しい家族という社会形態では結婚の価値観も変わるかもしれない

若者一人当たりの収入がガンガン下がっていって300万を平気で割り込むようになったら、身を寄せ合うしかない。かつて田中ロミオは『家族計画』で全く血縁のないもの達が集い、家族を形成するという物語を描いた。あの物語は様々な問題ある人間が集まって、生存の為に『家族』を形成していた。

 

結局正規ルートではその後、主人公と一人のヒロインが結びついて子供を設け、家族を形成する事となったけど、当然というか選択肢の選びようで主人公は様々なヒロインとくっついていた。人間が集まれば、基本的には問題は複雑化する。みんなそんなに清廉潔白じゃない。

 

めぞん一刻の世界観では誰もヒロインである響子に手を出さず、五代と響子は周りの住民に囲まれつつ幸せな家族を形成する事ができた。でも現実はたぶん全ての共同体がそんなに清廉潔白にはいかないだろう。

 

五代君はいろんな女の子に手を出して、響子さんもいろんな男と関係を持つかもしれない。こういう時に結婚制度は形としては残るかもしれないけど、子供が誰の子かなのかは必要以上に求められないのかもしれない。

 

かつて遠い昔の江戸時代の頃には夜這いという文化があったというけど、割とマジな話、生き残るために共同体を形成しなくてはいけなくなったら、今のような結婚制度ならびに核家族というスタイルは機能しなくなり、まったく新しい共同体としての家族概念が形成されるかもしれない。

 

日本が今後、ガンガン成長しさえすればこんな下らない予想は永遠に訪れないだろう。けど成長できなかったら・・・僕たちはまた江戸時代の頃に逆戻りするのかもしれない。

 

今から江戸時代のムラ文化を予習しておくのも生存戦略としてはアリなのかもね。