珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

元少年Aによる「絶歌」は、正しい保健体育の教科書である~子供がオカシクなるとき~

批判を承知で言うが、「絶歌」は可能な限り避けて通らずに読むべき本である。平和な家庭にモンスターが生まれ落ちる過程がこれ以上なくわかりやすく書かれている。

 

 

絶歌

絶歌

 

 

「自分が少年Aという怪物にならなかったのは運が良かったからに他ならない」

 

これがこの本を読み終えての率直な僕の感想である。以下多少の内容解説を加えつつその事について記載する。

 

快楽の探求に熱心な子供

本書によると、元少年Aは様々な偶然が重なり「生物の死」と「マスターベーション」を組み合わせてしまった過去がある。「マスターベーション」により得られる快感をどんどんエスカレートさせていった結果があの事件に繋がったのだ。

 

人は自らの性器への刺激だけでは絶頂にたどり着く事はできない。自分の性器への刺激に加えて「何からのイメージ」を抱くことがイく為には必要だ。殆どの人はそれがエッチな妄想である事が多いけど、人がオナニー中に想像するオカズを細かく調べれば、エッチな妄想以外にもかなりの多くの種類が存在する事は想像に難くない。元少年Aの場合、オカズがたまたま「生き物の死」になってしまったというだけなのだ。

 

自分が性的な快楽を得るために必要なイメージが、何と結びつくかなんて完全に運でしかないし、エッチな妄想以外で性的絶頂に達する事を「病気」だと判断するのは「自称正常」な人達のエゴだ。そういう無条件に多数派が正しいと思っている大衆は、例外に対する寛容性がないだけでしかない。マイノリティだって生きる権利はある。ただし、周りに迷惑をかけなければという但し書きがつくけども。

 

自分自身もそうだったからよくわかるのだけど、一部の子供は性的快楽の探求に非常に貪欲だ。一日に何回マスターベーションができるかとか、どうやれば一番気持ちよくなれるかだとか、それこそ快楽のために追求すべき事など沢山ある。そしてその快楽を享受するための「目的と手段」がどこに結びつくかが極めて大切である。

 

自分の場合、運が凄くよかったな、と思うのはこの結びつく先が二次元だった事だ。正直ブログでこんな事をぶちまけるのもなんだけど、若い頃の僕は異常に性欲が強かった。そのはけ口が二次元キャラという「誰も傷つかない」架空の対象だった故に、僕は偶然にも誰も傷つけることなく若い頃の異様な性欲を数年間の歳月をかけてゆっくりと落ち着ける事ができた。それ故に僕は今でもお天道様の元をニコニコ笑って歩くことができる。

 

だけどこの性欲がひょんな事から「誰かを傷つける」ものと結びついていたら、僕と僕の周りの人は随分悲惨な事になっていただろう事は想像に難くない。「生き物の死」は極端かもしれないけど、例えばこれが「心を病んだ同級生」とかだったらどうだっただろう。たぶん僕は性欲に勝てずに随分と酷い事をして、多くの人を傷つけた事だろう。繰り返すが、自分が誰も傷つけずに性的衝動を落ち着かせる事ができたのは、運がよかったからに他ならない。

 

乙武さんの例を出すまでもなく、ある種の男の子という生き物は「性的快楽」に脳が支配されている。大切なことだから繰り返すが、その「性的快楽」を得るためのイメージがなにと結びつくかは完全に運なのだ。元少年Aのようなケースはもちろん数は少ないとは思うけど、「生物の死」と「性的快楽」が結びつく可能性については子供を持つ親は必ず知っておく必要がある。もしあなたの子供がその組み合わせを選択してしまったら、それを一番初めに察知できるのは親である可能性が最も高いからだ(そして、もしそれを見つけてしまったら、たぶん親の力ではどうする事もできないので恐れずに専門施設につれていくべきである)

 

もちろん世の中にはこんなに性欲が強い子供ばかりではないだろうし、エッチがしたくても童貞な男子が世の中に溢れているように、殆どの人は「性的快楽」を得たい形で得るための行動力がそもそも備わっていない。

 

いくら人間を殺してマスターベーションをしたくても、それが実行できる計画力がなければ精々スナッフビデオを見ながらオナニーするのが関の山だ。元少年Aの事件は、本人に類まれなる卓越した知性が備わっていた事も一つの不幸である。馬鹿とハサミは使いようじゃないけど、能力がありすぎるというのも時に人を不幸にする。

 

元少年Aのもう一つの不幸は、あまりにも人が良い両親のものに生まれた事もあるだろう。子供を信頼する事は、子供を疑わない事ではない。愛あるゆえに人は自分の子供を適切なタイミングで疑わなくてはいけない時もあるのだ。子供は純真であるが故に残酷な存在であり、それ故にモンスター化する可能性を誰でも有している。「我が子に限って」と思う気持ちはよくわかる。ただ怪物が育つ場所は、修羅の国だけではなく、自然淘汰のない温室だって事もありえるというだけだ。

 

 人として真摯に生きるという事

僕が「絶歌」を正しい保健体育の教科書であると思う理由は、この本が子供の性が人を傷つける暴力性を持つ可能性について、これ以上無くわかりやすく書かれていると思うからだ。男女の体の仕組みとか、避妊の仕方とかもそりゃ大切だけど、一番大切な性の知識は「一生付き合っていかなければいけない自分の性衝動を、出来る限り他人を傷つけない形で消費する事」だろう。

 

人を傷つける事に真摯に向き合わない性衝動の発散を続けている人は、本人がその行為に無自覚であるが故に極めてタチが悪い。例えばヤリチンは、自分の性衝動を最も気持ちよく消費するために女の子の体を消費する事を厭わない。恋愛工学の鉄のマントラが「男に女を傷つける事などできない」なのはこの事を実によく言い表している。

 

その他、不倫などの人から後ろ指をさされる系の性的快楽の実現が何故こうも議論を醸し出すのかといえば、それはすべからく全て「他人を深く傷つける」要素を有しているからだ。

 

もちろん生きていくにあたって、人を傷つけない事など不可能以外の何物でもない。愉快犯が如く、己の欲望の実現の為に相手を消費対象にする事は唾棄すべき行為だが、真の心から生まれし行為により人を傷つけてしまう事だってある。その時に大切なのは「自分が人を傷つけたという事実にしっかりと向き合う」という事だ。

 

結局、大切なのはあなたがその行為について責任を持てるか否かである。本気で恋愛して最後までいければハッピーエンドだけど、うまくいかない事だって多々ある。その時に、あなたは真剣に恋した人を傷つけたという事実に向き合う覚悟があるだろうか。

 

これは何も性的快楽だとかに限った話ではない。例えばブログだって、承認欲求の実現の為に行われている自分のエゴの塊のような行為である。自分が書いた文章に人を傷つける意図がなくたって、人を傷つけてしまったのならそれは貴方の責任だし、その事実にはしっかりと向き合わなくてはいけない。それができないのならブログなんて書くべきではない。自分の人生に責任を持つという事は、総じて言えばそういう事なのである。

 

なぜ人を殺してはいけないのか

この本はもう一つ、大きなテーマがある。「なぜ豚や牛は殺してもいいのに、人を殺してはいけないのですか」という問いだ。元少年Aはこれを学校の教師に言った所、教師は絶句して議論すらおきなかったという。仮にだけど、この問いにキチンと周りの大人が当時の少年Aと共に向き合っていたら、違う未来もあったのかもしれない。

 

ネタバレになってしまうのだが、本の最後の方でこの問いに対する元少年Aの回答はこうだ。

 

「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」

 

僕はこの最後の「あなた自身が苦しむ」という言葉が、元少年Aが行ってしまった殺人について、本人が真摯に向き合ったが故に生まれた言葉なのではないか、と思う。

 

この本が世に誕生したという事実が許せない人が沢山いるのはよくわかる。僕はその感情を否定しないし、仮に僕が遺族だったら理屈抜きに元少年Aの行為を批判するだろう。元少年Aの行為は個人が一生をかけても償いきれない大罪だし、本人と遺族の間でのみ本来は交わされるべき問題だ。他人がズケズケ入り込んでいい問題ではない。

 

だけど僕は同時に、この元少年Aが今後60年間程度かけて真摯にこの大罪に向き合った時に発せられる言葉が、人類にある種の何かをもたらすのではないかという希望を捨て去ることができない。

 

こういう事を言うこと自体が不謹慎なのかもしれないけど、元少年Aはこの問題にちゃんと向き合うと決めたからには最後までやりきって欲しいな、と思う。人が生きるって、そういう事でしょう?

 

<参考文献>

 批判としっかり向き合う事について書かれた僕が知ってる唯一の本(おまけに200円と異様に安い)。批判にちゃんと向き合うようにしないとイケダハヤトみたいな無責任な炎上芸人にしかなれないぞ!

ブログにためになることなんて書かなくていい (impress QuickBooks)

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