珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

自己啓発本の本質は新興宗教と同じだという話

日本人は宗教に忌避感を容易に示すくせに、何故か自己啓発は大好きだ。基本的にはその中身は殆ど同質だというのに。

あなたは幸福追求権というものを知っているだろうか。どういうものかというと、本質的に個人はその人の理想とする幸福であることを望む権利があるというもので、これは人権について学ぶ時に一番初めに教わるものの一つだ。

例えば毎朝、神に向かってありがとうと言う事を習慣としている人がいたとする。これれを国家並びにその他の勢力が制限することは、その人についての幸福追求権を侵害することとなるので、キチンとした国ではそういう権利は保証されている。あるいは毎朝、自分の着た服を食べる事が幸福に繋がると信じている人がいる。この人の行為はちょっと変だけど、別に誰からも咎められない。あくまで他人に迷惑をかけないかぎりは。

幸福追求権は基本的に他人の幸福と衝突しない限りは保証されてしかるべきものだ。相手の奥さんを寝とる事が幸福に繋がっている人がいたとすると、この人の幸福は他の人(旦那)の幸福と衝突するので、この場合は基本的にはこの寝とり男の幸福追求権は著しく制限されてしかるべきである。全員が自分の欲望を満たそうとする社会は絶望的に野蛮だけど、個人が他人に迷惑にならない範囲の限界まで自由を許されるというのが現代社会における幸福のコンセンサスなのだ。

さて表題に戻るけども、自己啓発というものの本質は「どうしょうもなく駄目な自分でも、これをきっかけに凄い人間に生まれ変われる」というレッドブルである。あいつらのタイトルを読んでみるとまるで目がランランと輝くばかりである。

・マンション大家になってサラリーマンからリタイアする

・株で一億円儲ける

・嫌いな人と上手くやる

・人の心を読む

・大好きな彼を振り向かせる

・出世する

・仕事ができるようになる

・集中できるようになる

もう十分だろう。そんな方法本当にあるんなら、何故、義務教育で導入しないのかというレベルの人間の欲望を全面に売り出すものばかりだ。

これらを読み、そして自分の人生の中に組み込むことは先に上げた幸福追求権からも別に全然問題がない。だけど大体において、自己啓発にハマった人間は、何故か急に脳味噌が湧いて全知全能の神になったかのような多幸感に身がつつまれて、自己啓発本の示す「こうである姿」を他人に押し付けたり、自己啓発の理想の形を選択しない他人の事を急に見下したりしはじめる。

これって何かに似てないだろうか。そう、宗教の中でラリってる人達である。

大学に入って居場所がないときに、可愛い女の子から勧誘された場所で居場所を見つけられた童貞A君は心の底からウンニャラ教を信じ、その素晴らしさを他人に説く。前半までは、童貞A君の行動は許される。それは彼の幸福追求権に合致するからだ。でも後半は全然許されない。他人の幸福追求権を侵害するからだ。

童貞Aくんは確かに救われたのかもしれない。でもそれを押し売りするのは全然お門違いだ。これを凄く嫌うのを皮膚感覚で理解する日本人が、自己啓発本を嬉々として読みふけったりするのは物凄く不思議な現象である。

宗教も、自己啓発も、どちらも共通していることは弱いあなたの心につけいるという事だ。どちらも参考になる点は多数ある。ただ、決してあなたの人生の幸せはそこにはない。あなたは自己啓発本の為に生きているのだろうか。違うでしょう?新興宗教を馬鹿にして斜に構えてる人も、何故かこれを混同しがちなのだけど、ここまで述べたように変なレッテルが貼り付けられていない分、ああいうのは危ないのだ(ネズミ講、マルチと言われると顔をしかめる人が、最新のネットワークビジネスと言葉を変えられるだけで簡単に罠に陥るのと同じ事だ)

こういう恐ろしいものからキチンと身を守るためにも、キチンとそういうものの恐ろしさについて学んで欲しい。興味ある人は「自己啓発」は私を啓発しない を強くオススメする。無茶苦茶に面白いし、類著が他にないという点でも革新的だ。

あなたが馬鹿にしているものも、本質を見極めると実はあなたの大好きなものと同じこ事はよくある。認めることは過去の自分を否定する事で辛いかもしれない。でも、それが自分と向き合うということでもあるのだ。その事を、よく心にとどめておいて欲しい。

ハイスペック女子がよい結婚を遂行する手段を女医という題材を元に考える

女医はモてない。大切なことだからもう一度言おう。女医はモてない。これはマジだ。

 

これは経済学的な知識を元に考えても全然不思議でもなんでもない。セックスと恋愛の経済学―超名門ブリティッシュ・コロンビア大学講師の人気授業 にも書いてあるけど、基本的にモテるかどうかは男女比によって規定される。

 

ちょっと考えて欲しいのだけど、男女比が1:1に限りなく近かった小中高時代でも実際問題付き合ってる人なんて極わずかでなかっただろうか。

 

基本的に無茶苦茶に可愛いかったり性格が無茶苦茶にいい女子を除けば、殆どの場合において同一コミュニティ内で恋愛の関係にいける人は数少ない(可愛かったり性格がいい案件はプレミアムが高いので、閉鎖市場においては骨肉の争いで素早く買われていく)

 

大体の医学部は男女比が7:3~6:4程度なので、小学校~大学まで大体において同じような閉鎖空間内での市場原理が働く。

 

しかしこれが働き出すと状況は一変する。多数の検査技師、薬剤師、看護師、リハビリといった女性が閉鎖的な恋愛市場に参入する結果、職場内にて女医の結婚相手として唯一釣り合う存在である男性医師のプレミアム的価値は無茶苦茶に向上する。

 

結果、学生時代は屁でもないような奴らが無茶苦茶にモテたりする(多くの場合男性医師は人としてモテてるわけではないし恋愛に不慣れな事が多いので、そのまま結婚したりするとお互いにとって不幸な結果になる)はっきり言おう。女医が閉鎖的な市場内においてモテる最後の機会は学生時代だけなのだ。

 

一部の女医はどこにいってもモテるけど、それはそもそも元々の戦闘力が高いからモテているわけで、普通の女医には何の慰めにもならない。

 

働き出して後に出会うコメディカルにも数多くの男性はいるけども、悲しいことにそもそも多くの女医さんはそんなの結婚相手として全然みていない。僕はコメディカルと結婚した女医なんて数えるぐらいしか知らない(幸せな結婚生活を送っているとなると更に数は減る)

 

これだけ書いてブログを終わると一部の人に地獄の底まで追い詰められそうだから、実体験、経済学的知識、その他もろもろを駆使して女医がよい結婚をする方法を分析していこう。

 

そもそも男性が結婚に求める事は何だろう?多くの実例を分析した結果、大体以下の4つに帰着される。

 

①それなりに頭が良くて、そこそこ話があう

 

②家柄や社会的地位がそれなりに釣り合う

 

③働いていてくれた方が嬉しいけど、ちょっとでもいいから自分よりも年収が下(これ大事)

 

④いざ議論になったら自分が勝てるor最後は自分を立ててくれる

 

おいなんだよ。そんな全部満たす女なんていねーよ。ふざけんなこの夢見がちな童貞め。そう言いたくなる気持ちは痛いほどにわかる。極論すれば、男はいつだってセックスさせてくれる聖母ような存在を求めているのだ。

 

多くのプライドの高い女医はそんな男の慰み者みたいな存在に成り下がるのなんて、死んでも嫌だろう。僕だって逆の立場になったらそう思う。

 

じゃあどうすればいいのかだけど、女医が幸せな結婚をする、唯一の方法は、その閉鎖的市場を飛び出してグローバルな恋愛市場に参入することだけなのだ。

 

僕の知ってる女医で幸せな結婚をしている人の殆どの旦那は「愛すべきコミュ障な理系の研究職、もしくはそれに類似する男女比が極端に男性側に偏っている職業の人」だ。これはお互いにとって非常に合理的な組み合わせなのだ。

 

理系の研究職は、ビックリするぐらい出会いがない。地方勤務になるとなおさらだ。ほんとビックリするぐらいの条件のいい人が、ゴロゴロ転がっている。下手すると男性なのにハイスペ女子にとっての上記①~④の条件を保持している相手に出会える事すらある。彼らは多くの場合、閉鎖的市場で飼い殺しにされている隠れた優良案件だ。こいつらを探し出すしかない。

 

問題は、それをどうやって探し出すかということになるけど、これはもう高校生までの友人を駆使するのが一番だ。それが無理なら近所のお見合いオバサンに頼み込むか、インターネットで出会った知的レベルが同一の人に土下座して頼み込むのが一番いい。

 

人は、自分の事になると全然冷静になれない。意外と他人のほうが冷静に良い人を紹介できるものだ。最近は全然主流じゃないけども、お見合い結婚は多くの場合においてよい結果を残す。どういう形でもいいから、その閉鎖的な市場から抜けだしてグローバルな市場に飛び込み、そこでよいアドバイサーを見つけて全面的に信用してしまおう。

 

いつだって、お買い得な物件はどこかに隠れているのだ。焦らず、しかし着実に行動しよう。いつだって未来は合理的に行動する人の味方なのだ。

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何で贅沢してないのに全くお金が貯まらない、それどころか生活がカツカツだという人が沢山いるのかの秘密

小さい頃に「ああ、日本国民全員が毎年一円づつお金をくれれば1億ぐらいの年収になるのに」なんて考えたことはないだろうか。後に記述するけどそういう組織は実は結構存在している。

あなたは橘玲氏がお金持ちになれる黄金の羽根の拾い方で提唱している、財産を築く公式というものを知っているだろうか?

【資産形成=(収入-支出)+(資産×運用利回り)】という式である。

この公式は別にお金儲けをしようと思っていない人にも必須の素晴らしい知恵だ。例えば個人の生活コストに置き換えてみよう。

左側の(収入ー支出)というのは簡単だ。一ヶ月単位で考えれば収入はそのまま給料であり支出は一ヶ月で使ったお金だ。右側の資産というのはちょっと複雑だ。この公式だと【+(資産×運用利回り)】と書いてあるから、いかにもお金を産んでくれるものだと思いがちだけど、資産というものは大体において金食い虫なのだ。実は僕達が貧乏な秘密はここに隠されている。

資産について最も上手く説明しているのはかつて大ヒットした金持ち父さん貧乏父さんだ。

かんぽの宿投げ売り問題というものを覚えている人はいるだろうか?これは国が約2,400億円かけて作ったものを、オリックスに約100億円億円で譲渡されるという案件だったのだけど、これは当時の鳩山首相も巻き込んでの大論争に発展した。懐かしいと思う人もいるだろう。

感情的に単純に考えるとオリックスが2300億円まるまる儲けているようにみえてしまうけど、実はかんぽの宿は毎年40億円の赤字を垂れ流す不良債権であり、ようはこの図式は言い換えれば「毎年40億円の赤字を垂れ流すものを、100億円で買い取る」という、ある意味では結構男気のある決断なのだ(もちろんオリックスかんぽの宿を利益をあげさせられるように再生する自信があったのだろう。しかしそれにしても結構なリスクある選択肢である事は疑いようもない。あなたは毎年40億の赤字を産むものを100億で買うだろうか?僕なら絶対に買わない)

このように、一部には所有するだけでお金をどんどん吸い取られるというものが存在する。これを金持ち父さん貧乏父さんでは「正の資産とは、あなたのポケットにお金を入れてくれるもの」であり、「負の資産とは、あなたのポケットからお金を奪っていくもの」と言い表している。実は殆どの個人は正の資産なんかより負の資産の方が全然多い。

例えば車を考えてみよう。およそ100万円出して買った車は、買った次の日からガソリン代や車検費などの負の利益を産む存在へとなってしまう。車を所有するということは、金持ち父さん貧乏父さんの言うところの負の資産を所有することと同義なのだ。

こんなもので日常生活にたくさん溢れている。生命保険だってそうだし、テレビだってそうだ(NHKの受信料)。世の中は圧倒的に、負の資産で溢れかえっている。

さらに応用範囲を広げれば、これは個人の生活習慣にまで及ぶ。例えばインターネットという習慣は毎月の固定回線5000円分の負の資産だし、スマートフォンを所有するという習慣も、毎月5000円程度の負の資産だ。他にも毎朝喫茶店でコーヒーを買って飲むという習慣も単純計算で「200円×30日=6000円」という負の資産だ。他にもタバコ、お酒、飲み会、負の資産となる習慣の具体例には枚挙にいとまがない。よく一旦上がってしまった生活コストは容易には下げられないなんていう人がいるけども、それは今まで築き上げてきた生活習慣がそのまま強大な負の資産に繋がっているからなのだ。

金持ちというのは例外なく、この負の資産を産むものから距離をおいている。金持ちはお金を稼ぐから金持ちなのではない。奴らは簡単に言えば、無茶苦茶にケチなのだ。

前にも上げたけど【財産を築く公式】=【資産形成=(収入-支出)+(資産×運用利回り)】なのだ。資産を築くのに最も賢い選択は支出を極限まで減らし、負の資産を所有しない事だ。かの世界一の金持ちであるウォーレン・バフェットだって食事はマックのハンバーガーだし、乗ってる車はフェラーリではなく、スバルのアウトバックだ。

ところで僕らにとっての負の資産を生み出している側が、どんだけ裕福かをみなさんは御存知だろうか?宗教団体はお布施という形で毎月会員費を取ってる。その成果があの豪華絢爛な建物だ。保険会社の本社ビルをみたことがある人はいるだろうか?一説によると東京海上日動の社員の年収は2000万円にも及ぶそうだ。自動車業界だって本社職員の給料は凄いものがある。アラブの石油王なんていうまでもないだろう。このように、実は手っ取り早くお金持ちになるのには、流行り廃りなく持続的に収入をあげられるスキームを構築するのが最適なのだ。

負の資産を作り出す側の手口はいつだって巧妙だ。宗教は精神の不安を煽り、生命保険レディは生活の不安を煽る。自動車業界は格好良さや生活の便利さを煽る。

僕ら凡人は、そもそも正の資産を持つことは困難なのだ。株やマンション経営で儲けようなどという邪な考えを捨て去り、シンプルに生きようではないか。【資産形成=(収入-支出)+(資産×運用利回り)】という公式の右側を、極限まで消し去って生活費=収入-支出の世界に生きよう。命の次に大切なお金を吸い取っていく存在をどんどん消し去る。それが残酷なこの世の中で平和に生きる、唯一の方法なのだ。

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日本という国は誰のものなのかをISIS(イスラム国)と対比させて考える

日本は誰のものか?と現代人に聞くと多分「日本人のものです」という答えが返ってくる事が多いのではないかと思う。しかしその発想は実は限りなく最近になってうまれたものだという事を知らない人が多い。

 

もともと税を搾取されるだけの農民には主権という概念がなかった。日本だって貴族、武士、農民という構造が成立していた時の権力者は貴族だ。あくまで武士は傭兵隊みたいなものだし、農民は立ち上がって彼らを脅かすような存在ではない。

 

その後、権力は貴族から武士へと移るけど、庶民へと連なるのはもっともっと後のことだ。日本は誰のものかとこの時代の人に聞けば、国民のものなんてとても答えなかっただろう。

 

諸外国でもだいたい同じようなもので、農民を兵士にするという発想がうまれたのが文字でみられるのは君主論マキャベリの時代ぐらいからだ。

 

当時、マキャベリのいたフィレンツェ共和国という弱小組織では初めは兵力を外部の傭兵部隊に委託していたのだけど、結局金で動く連中は命をかけて行動しないので自国内の農民を教育して自警団を組織したという時代背景がある。

 

この自警団だが金よりもフィレンツェへの忠誠心で働いたので、非常に強力な存在となった。こんなの現代の徴兵制を考えると大した事がないように思えるが、この当時の常識感からすると支配される側である農民に武力を与えるという発想は結構斬新なものだったのだ。

 

もともと武力を下層民である農耕民族へ持たせることは、国内統治という観点に立てば物凄くリスクの高い選択肢だ。

 

刀狩りの例を持ち出すまでもなく日本において武士という傭兵団体が国を統治していた頃は、農耕民族は搾取される為だけの存在だ。生かさず殺さず程度に働いてくれればそれで十分。

 

ただそれが諸外国への対抗という話になってくると話は全く変わってくる。フィレンツェ共和国の存在していた時代は元々イタリアが内部分裂していた時期だし、そのすぐ上にはフランスという強大な国家があった。

 

傭兵団といった限りある武力資源を強力国家が占有しているのなら、どこかからそれを創りださなくてはいけない。マキャベリ君主論は今みても実は物凄くイノベーティブだ。

 

さて我が国に話をもどそう。日本の統治権が武士から庶民へと移ったのは言うまでもなく黒船襲来がターニングポイントだ。その後紆余曲折はへるものの天皇はあくまで象徴としての国の代表となり、実権は政治家を中心に国民へと移っていくこととなる。

 

当時、突然グローバル化せざるを得なかった日本の諸外国との国力差に悩まされているという実感は、天皇を中心として国家国民が団結するという日本人の共通理念の形成へと上手く働き日本国内での日本国民の団結力を高め、結果として農民レベルに武力を与えつつも権力が転覆されないという奇跡のようなバランスの徴兵制度が成立するようになる。

 

これはたぶん色々な人が思っているよりも本当に凄いことで、その成果は日清戦争日露戦争で諸外国を驚かせるほどに発揮される事になる。極東の島国が大国を次々と打ち倒せるまでにもなったのだ。

 

こんな例は実は日本に限ったものでもなく第一次世界大戦で無茶苦茶に負けたドイツは極限まで追い詰められたものの、ファシズムを駆使してアーリア民族という理念を元に国民が一致団結した。その後のドイツの躍進劇はいうまでもない。

 

アメリカだってそうだ。United states of Americaという50にも及ぶ州が統一されているという恐るべきあの国は、現代に至るまで世界最強の国家たり得ている。オバマ大統領は勝利宣言にてしれっと「若い人とお年寄り、金持ちと貧しい人、民主党員と共和党員、黒人、白人、ヒスパニック、アジアン、ネイティブアメリカン、ゲイとストレート、障害者と非障害者。みんなアメリカ人なんだよっ☆」なんて言ってのけている.

 

他にもその影響はEU(Europian union)にも見られるし、恐らく中国が躍起になってチベットやモンゴルを支配したがっているのも日本の大成功例やアメリカという巨大国家への対抗策としての手段だろう。

 

人が一つの理念のもとに繋がると非常に強力な力を発揮できる。実は日本は日本国民のものであるという発想が自然にできている今現在の日本の常識は、凄い力の元になっているのだ。

 

さてISISだけども、そもそも何であんな過激な集団が存在しえるのだろう。実は統治のとれていない北斗の拳のヒャッハーな世界では、ホッブスのいうところの万人の万人に対する闘争状態に陥ってしまう。

 

当然弱い人はヒャッハー側にボコボコされちゃうわけなのだが、そういう状況になると必ず生まれるのが弱いものを守る武力集団なのだ。彼らは昔でいうところの日本国内の武士、現代でいうところのイかしたヤクザとかマフィアみたいなものなので、当然というか守られる側の民衆からの指示はとても強い。

 

当たり前だけど、そもそも生存権が脅かされるような状態にいる個人は、わけのわからない形だけの党首なんかより、そういった格好いいあんちゃんに付き従う。それに元はといえばこんな無茶苦茶な状態にしたのは誰がどうみたって欧米諸国の連中なんだから、どっちを土着民が支持するかなんていうまでもない。

 

簡単にISISをテロ組織だとかいって二元論な善悪の世界へと落としこむのはもの凄い馬鹿げた事で、それはあくまでこちら側の世界からみたからそうなのであり、逆側であるイラク・シリアからみればある日突然家族を全員殺されて悲惨な孤児院へ送られたどこかの可哀想な少年少女みたいな状況なのだ。

 

ISISも組織名(Islamic State in Iraq and al-Sham)から考えれば自明だけど、おそらく統治している側は、上手くイスラム(ここでいうイスラムは必ずしもイスラム教とは限らない)という強大な理念の元にイラクとシリアの民族の一致団結が図れれば強大な力につながると確信している。だからあの大嫌いなはずのアメリカの名前(United states of America)を冠してるのだろう。

 

仮にイラクとシリアの国民が世界観を共有して一つにまとまったら、恐らくナチス・ドイツとか皇国日本と同じような大躍進を遂げる可能性を否定出来ない。

 

今現在は統治が取られておらず内部でも様々な亀裂が生じている状態であるけども、今後は日本が黒船後に巨大国家になりえたように彼の国が巨大な力を持つという世界線に移る可能性もあるかもしれない。

 

このように国民が国家は自分のものだと思える国民国家思想はもの凄く巨大なエネルギーがあるのだ。最近の日本は段々と国よりも個人が大切であり、国に縛られるのは馬鹿らしいといった思考にシフトしつつあるけども、ここまで見てきた流れから言っても個人的にはそういう国体を弱める発想は非常に危険だと思う。

 

天皇を通じて高天原という日本固有の神の国を元に全ての国民が繋がっているという日本本来の神話思想を取り戻して、イスラム思想やアメリカ哲学へと対抗できる国力を保持することが大切だ。

 

ユダヤ人を例にあげるまでもなく、国のない民族は悲惨だ。日本がそういう道を辿らないことを心の底から願っている。

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参考文献(あくまで読みやすいもののみあげます。僕はこれらの本の原典も少しは読んでいるのですが、それは普通の人には大変かと思うので余力がある人のみ挑戦してみてください)

池上彰の講義の時間 高校生からわかるイスラム世界

池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

世界を変えた10冊の本

歴史とはなにか (文春新書)

世界史の誕生 ――モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)

遊牧民から見た世界史 増補版 (日経ビジネス人文庫)

日本国家の神髄 (扶桑社新書)

ちょっと本気な千夜千冊虎の巻―読書術免許皆伝

日本人とアイデンティティ―心理療法家の着想 (講談社プラスアルファ文庫)

太平記(一) (岩波文庫)

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なぜ僕が食事に興味があるのかをつらつらと考える

僕の食事への興味は間違いなく父親からの影響だ。

・聚寳園の蟹あんかけチャーハンと卵のチリソース(残念なことに移転後にクオリティーが非常に劣化してしまい、今はあまり美味しくない)

・丸長の醤油ラーメン(その日のスープの出来で美味しさが180度変わるので注意。ここはつけ麺が有名だけど個人的にはラーメンが好き)

・瑛舎夢のナンとエビカレー(残念ながら閉店してしまった・・・)

幼き頃よりこんな感じで色々と美味しいものを食べされてもらった僕は、何らかの機会があり家族以外と外で食事をする度に「なんでこんなに美味しくもないものにお金を払わなくてはいけないのだろう」なんて思うようになっていた(実に嫌なガキである)

高校生まではできなかったけど、大学生になって時間と金が手に入るようになってから食べ歩きに目覚めた。お金が無かったこともありB級グルメを中心に随分色々な所に行ったな。時間だけはあったから並ぶのも苦でなかったし。夜行バスで行った大阪や香川で食べたうどん。青春18切符で行った北海道の海産物。美味しかったな。こういう贅沢な時間の使い方はもうできないだろう。本当にやっておいてよかった。

働きだしてからは多少裕福になったのと他にお金がかかる趣味がないってものあって、念願のフレンチ、イタリアン、割烹、鮨にも手を出せるようになった。大学生時代はランチに3000円とか出すの信じられなかったけど、今じゃ全然普通だ。慣れって恐ろしい・・・(B級グルメはひと通り大学生時代に食べ尽くしてしまった事もあり興味が失せてしまい、今は全然食べてない)

何でここまで美味しいものに執着するのか。それは何事でもそうだけど、果ての果ての世界を見てみたいという根源的な欲求があるからだろう。

・息を呑むような絶景。

・のたうちまわるような美味。

・難しいプロジェクトを成し遂げた時に脳内をほとばしる快感。

こういうものを知らずに死ねるか!って感じである。まあ単に快楽主義者な事は否定しない。

そんなわけで今日もいそいそと僕は食べ歩きにいくのである。いつの日か、味覚の特異点へ到達できる日を夢見つつ。

観光地にいる女の子は何故可愛いのか~リア充の法則~

三鷹の森ジブリ美術館に行ったんですけど、まあそこで見る女の子の可愛いこと可愛いこと。僕はとなりに嫁がいようがいまいが可愛い女の子をみると「あの子可愛いね」っていっちゃう極悪非道の人間なんですけど、今日はたまたま「なんで東京スカイツリーとか、こういう観光地にいる女の子って可愛んだろね」とつぶやいたところ嫁が「それはリア充の法則だよ」と返答しまして。その全然論理的回答になってないけど妙にしっくりくる言葉のパワーに圧感されました。「リア充の法則!」なんだそれよくわからないけど凄え納得する!

まあ確かにデートコースになりうる観光地なんて、そもそも訪れる女の子はセレクションがかけられた人が集中するわけで可愛くなる傾向がある程度あることはわかりますわな。でも問題は女の子同士できている人ですら可愛い事が多いんですよね。こりゃどういうことなんでしょう。そもそもあれなのか?デートコースに女の子同士で来るような階層は、やっぱりキャッキャウフフのリア充なのか?それとも百合なのか?むっちゃ気になる・・・

というわけでこのリア充の法則についてのみなさんの分析を是非ご拝聴させていただきたい。しかしほんとこの語感、好きだなあ・・・

日本のイタリアンはフレンチ・イタリアンは本物じゃない・・・という発言について

日本のフレンチやイタリアンは偽物。本当を食べたことがない人は可哀想。よくこんな言説を垂れている方がいらっしゃいます。さてこの言葉は本当でしょうか?

意味するところとしては恐らく2つあり

①日本にあるのはサイゼリヤなどの格安のフレンチやイタリアンだけで、本物の重厚な高級でクラシックな調理のものではないという意味での発言

②いわゆる郷土食あふれる地元に根づいた本物のフレンチやイタリアンは日本になく、日本風にアレンジされた店しかないという意味での発言。

恐らくこの両方の要素を含んだ上での発言でしょう。ただ日本では本場の味が経験できないというのはどう考えても言い過ぎで、それは自分の日本における食歴の浅さを示しているだけです。

僕は上記を確かめるために、欧州へ出かけ現地の地元の方がいく軽食堂から地元の予約が取れないレストラン、超高額店と色々なジャンルの名店に行きました。まず断言できることの一つとして、味それだけを取って言うとTop中のTopは別なのかもしれませんが、基本的には日本のレストランの方が安くて美味しいです。例えばフランスの三つ星は一人あたり五万円ぐらいしますが、日本なら同レベルの食材・調理で三万円ぐらいですみます(ランチならさらに格安です)中級クラスでいうと更にコストパフォーマンスは日本では際立ちます。フレンチ、イタリアンの美味しいコース料理が5000円程度で食べれてしまう国は恐らく日本をおいて他にはないでしょう(本場なら二品程度で5000円は取られますし、それに加えて席代・水代が1000円程度かかります)

日本人の食に対する執念はすざまじく、現地のミシュラン三ツ星クラスの店に行けばわかりますが、ほぼ間違いなく日本人シェフが一人はいます。そういう本場最高峰のレストランの調理内容ですら、そこから技術を盗んで日本で開業するルートが継続的に開かれているのです。こんな国は他にはありません。

下手すると本場より美味しい日本のフレンチやイタリアンのハイレベルさに圧倒された僕は、本場での修行を行う必要すらないんじゃないかと思い、大好きなフレンチの料理長に「本場へ行く意味はもうないのではないか?」と聞いた所、彼はこう返しました。

「日本で技術的に学べないものはほぼないと思います。でも仮に外国で美味しい和食を食べて、もしその板前さんが外人で一度も日本で学んだことがないと聞いたらどう思いますか?留学は技術的な面だけではなく、文化を学ぶために必要だと思います」もう日本のフレンチはその段階まで来ていしまっているのです。

今後日本にて全世界の最高峰の食事を網羅し、かつ独自の路線を歩んでいく可能性はかなり大きいと僕は期待しています。京都等の観光資源という点でも日本は素晴らしいですが今後、真に環境客を呼び寄せられるのは美食でしょう。ほんと間違いなく空前絶後、歴史上、今の日本の食文化はダントツです。本当に声を大きくしていいたいのですけど、日本を観光国にしたいのなら豊富な食文化をもっと政府は大々的に打ち出すべきです。これぞ真のクールジャパンでしょう。

一番じゃなきゃ駄目なんですか?という台詞が昔流行りました。出身高校のテストを考えてもらえばわかりますが、一番を取るのは本来どこでも凄く難しいのです。その取るのが無茶苦茶に難しいはずである一番を活用しないだなんて本当にもう、なんていう無駄なんでしょう。まあお陰様で僕が美味しいものを食べられるのですけどね。