珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

自己啓発本の本質は新興宗教と同じだという話

日本人は宗教に忌避感を容易に示すくせに、何故か自己啓発は大好きだ。基本的にはその中身は殆ど同質だというのに。

あなたは幸福追求権というものを知っているだろうか。どういうものかというと、本質的に個人はその人の理想とする幸福であることを望む権利があるというもので、これは人権について学ぶ時に一番初めに教わるものの一つだ。

例えば毎朝、神に向かってありがとうと言う事を習慣としている人がいたとする。これれを国家並びにその他の勢力が制限することは、その人についての幸福追求権を侵害することとなるので、キチンとした国ではそういう権利は保証されている。あるいは毎朝、自分の着た服を食べる事が幸福に繋がると信じている人がいる。この人の行為はちょっと変だけど、別に誰からも咎められない。あくまで他人に迷惑をかけないかぎりは。

幸福追求権は基本的に他人の幸福と衝突しない限りは保証されてしかるべきものだ。相手の奥さんを寝とる事が幸福に繋がっている人がいたとすると、この人の幸福は他の人(旦那)の幸福と衝突するので、この場合は基本的にはこの寝とり男の幸福追求権は著しく制限されてしかるべきである。全員が自分の欲望を満たそうとする社会は絶望的に野蛮だけど、個人が他人に迷惑にならない範囲の限界まで自由を許されるというのが現代社会における幸福のコンセンサスなのだ。

さて表題に戻るけども、自己啓発というものの本質は「どうしょうもなく駄目な自分でも、これをきっかけに凄い人間に生まれ変われる」というレッドブルである。あいつらのタイトルを読んでみるとまるで目がランランと輝くばかりである。

・マンション大家になってサラリーマンからリタイアする

・株で一億円儲ける

・嫌いな人と上手くやる

・人の心を読む

・大好きな彼を振り向かせる

・出世する

・仕事ができるようになる

・集中できるようになる

もう十分だろう。そんな方法本当にあるんなら、何故、義務教育で導入しないのかというレベルの人間の欲望を全面に売り出すものばかりだ。

これらを読み、そして自分の人生の中に組み込むことは先に上げた幸福追求権からも別に全然問題がない。だけど大体において、自己啓発にハマった人間は、何故か急に脳味噌が湧いて全知全能の神になったかのような多幸感に身がつつまれて、自己啓発本の示す「こうである姿」を他人に押し付けたり、自己啓発の理想の形を選択しない他人の事を急に見下したりしはじめる。

これって何かに似てないだろうか。そう、宗教の中でラリってる人達である。

大学に入って居場所がないときに、可愛い女の子から勧誘された場所で居場所を見つけられた童貞A君は心の底からウンニャラ教を信じ、その素晴らしさを他人に説く。前半までは、童貞A君の行動は許される。それは彼の幸福追求権に合致するからだ。でも後半は全然許されない。他人の幸福追求権を侵害するからだ。

童貞Aくんは確かに救われたのかもしれない。でもそれを押し売りするのは全然お門違いだ。これを凄く嫌うのを皮膚感覚で理解する日本人が、自己啓発本を嬉々として読みふけったりするのは物凄く不思議な現象である。

宗教も、自己啓発も、どちらも共通していることは弱いあなたの心につけいるという事だ。どちらも参考になる点は多数ある。ただ、決してあなたの人生の幸せはそこにはない。あなたは自己啓発本の為に生きているのだろうか。違うでしょう?新興宗教を馬鹿にして斜に構えてる人も、何故かこれを混同しがちなのだけど、ここまで述べたように変なレッテルが貼り付けられていない分、ああいうのは危ないのだ(ネズミ講、マルチと言われると顔をしかめる人が、最新のネットワークビジネスと言葉を変えられるだけで簡単に罠に陥るのと同じ事だ)

こういう恐ろしいものからキチンと身を守るためにも、キチンとそういうものの恐ろしさについて学んで欲しい。興味ある人は「自己啓発」は私を啓発しない を強くオススメする。無茶苦茶に面白いし、類著が他にないという点でも革新的だ。

あなたが馬鹿にしているものも、本質を見極めると実はあなたの大好きなものと同じこ事はよくある。認めることは過去の自分を否定する事で辛いかもしれない。でも、それが自分と向き合うということでもあるのだ。その事を、よく心にとどめておいて欲しい。