珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

社会的マイノリティを記事に扱う時に僕が今後気をつける事

つい先日だけど、「毒親育ちや激務上がり等の抑圧された環境にいた人」にハイスペが多い理由について、というエントリーを投稿した。この記事は結構いろんな人に面白がられ、感動した、素晴らしい、お前の認識は間違っている、等々のいろんな意見を頂くこととなった。

 

初めの方は面白かったとか感動したみたいなポジティブな意見とか、史実の解釈についての指摘が多かったので、著者としてははまあみなさん喧々諤々いろいろと茶飲み話してくださいよって感じであった。


ところがあるタイミングからどうやらあの記事でひどく心を痛めている人がいるようだと気がついた。僕は嫉妬だとか事実の解釈の問題に対するdisは比較的仕方がない事ともう腹をくくって記事を書いているのだけど、どうも本気で怒り悲しんでいるらしい。正直、日常生活で相手に対して差別の態度を表に出してはいけない職種についている身として、これはあんましよろしくない結果である。僕は実は差別主義者だったのだろうか。

 

そういった人々の僕に出された意見はだいたい全部読みつくしたんだけど、どうも傷つけられた人達の声は周りのいろんな声と複合してさらに言えば僕へ対する人格批判とかも混在した意見を発しているため、どうにもこうにも何が悪いのか正直よくわからなかった。ただ一番心を痛めている人が、あの記事に対して賛同とか感動したって言ってる人が多いことに落胆しているという事はなんとなくわかった。

 

というわけで以前自分が得た知識から、こういった種類の問題の類型を探し出して自分の行為の何がいけなかったのかを検証しようという事にした。ここで初めに思いついたのが、ステラ・ヤング氏の提唱している感動ポルノだった。

 

彼は「障害者」が「健常者」に感動コンテンツを提供するためのモノ扱いされており、同じ人間として人として対等の立場として扱われていない事の問題を提唱し、障害者がモノではなく、普通の人として扱われる世界の到来を望んだ。

 

僕は初め「この人達が怒り悲しんでるのは、自分の職業・属性を総称してモノ扱いされている事なのだろうか」という仮説をたて、「とはいえ社会的立場が違えど、人は状況次第ではお互いをモノ扱いする場面が多々あるし、これは仕方がないんじゃないだろうか。これを否定するとしたら、もう人を使った物語を作ること自体が不可能になる。その先の世界はノー感動、ノー物語世界じゃないか。個人的には感動とか物語のない世界は百も御免である。これはもう、お互いがお互いの消費者である事を許容しないといけないんじゃない?」といった趣旨の事を記事に書いた。

 

これはある人から「あんたの態度は自分が悪いという姿勢を全く感じない。ようは開き直りじゃないか」という風なご指摘いただいた。ただ正直感動ポルノという形式からこの問題を読み解くと、これ以上の解釈の余地が僕には難しかった。個人的には不快にさせた事についてはもちろん謝罪するのだが、自分で何が悪かったのかを考えてみて、その結果よくわからないのに不十分に謝罪を重ねるのはあまり真摯な態度ではないな、と思ったのだ。だからあの記事を公開してその是非を問いたかった(自分が合ってるかどうかは自分にはわからないので)


正直もうここで思考をおしまいにしてもよかったんだけど、仮にこの結論が間違ってたらこの先も間違い続けることになる。かなり迷ったんだけど、あの記事で一番心を痛めたであろう人に勇気を出して意見を伺ってみることにした。正直、自分の書いた当たってるかどうかもわからない文章を他人に送るつけるなんて正気の沙汰じゃない。なにそれ自意識過剰な中学生のラブレターかよ!!!認めよう。僕は痛い奴だ。

 

で、結果なんだけど思いの他その方は冷静にきちんと僕の意見について返事をしてくれた。そしてその意見を聞くと、どうもそもそもその方の職業をコンテンツ化して感動ものを作る事の是非みたいな事自体は正直どうでもよさそうだった(望ましいとまでは言わない)。そして意見を聞くにつれ、ようやく先の行動の何が問題だったのかが氷解してきた。

 

その方はまず「職種を総称して人を一括りに話すのは失礼である」という趣旨の事をいった。実は僕ら医師は結構人をレッテル張りしやすい環境にいる。出身高校であの人のキャラクターは○○だとか、この職業の人はこの病気になりやすい、この病気を持っている人はこういう性格が多い等(そしてそれは多くの場合、よく当たる。少なくとも血液型占いよりは)。正直、初めはこの言葉の意味を結構理解に苦しんだのだけど、これはこの方が「差別と崇拝」が紙一重だという事に誰よりも理解しやすい立場にいるから出る言葉なのかもしれないと思った。そう考えると、確かになんとなくこの行為が差別の温床になりそうだな、という事はよくわかった。確かにいつだって差別や抑圧は立場や状況が変わったら、それがそのまま逆方面にひっくり返りやすい。簡単な賛美が差別の温床になるという風な事をこの方はおっしゃっていたのかな、と思った。

 

それに加えて詳細は省くけど、その方の職種は比較的ネガティブな態度を受けやすい立場にある。そしてその職種であることを他者に告白することで場合によっては不利益を被ったり、傷ついたりすることがあるという事をおっしゃっていた。そしてこの方の望む理想は、「こういう職種についている」という事を相手に告白した時に「相手の態度がそれを告白する前と後で変わることがないという事」だった。そうなると、確かに職種でどうこうというレッテルを張られる事自体が、その人がたとえどうであれ、こういう人である、と決めつけられる事に繋がり、その結果それが態度にでようものなら随分と傷つく事は多々あるだろうという事はあまり想像に難しくなかった。正直書いててまだ理解が間違ってるかもしれないので何とも言えないんだけど、ここにきて、ああ職業やら属性を一色単に解釈することでこんな不利益を被る人がいるんだな、という事が初めて理解できた。

 

さらにいうと、あの記事を読んで、感動したとか賛同していた人達を見てみると、比較的そういう問題から卒業し、今現在では平和に暮らしている人がとても多かった。彼彼女らは、ああいう辛かった過去があった事、そこから復帰できた自分についての共感を示してくれることについて、感謝している事が多かった。僕も、どちらかというと書いているときはそういうスタンスで書いていた(なので相手を攻撃する意図は全くなかった。ほんとだよ)

 

けれどもあの記事で僕が見落としていた事は、こういう環境にいまだにあり続けなくてはいけない人達のことだったのだ。今現在、どういった状況にしろ困難な状況にいるこれらの属性・職業人の方々は、自分について一括りにされたわかりやすいレッテル張りを極度に恐れている。何故か?それはその意見を人々が持つだけで「こういう属性・職種についている」から「相手に普通のそこらへんにいる普通の人間」ではない、と思われ、良くも悪くも特別扱いされるケースが想定されるからだ。(そしてそれを契機に差別や抑圧が始まる可能性がある)。多分、こういう趣旨の事が今回の問題だったのかな、と今のところ僕は理解している。

 

まあ間違った事をしてしまった事について、自分を正当化しても仕方がない。人を傷つけてしまった事は事実だ。そのことについては関係者各位には平身低頭謝罪しようと思う。


そして今後だけど、これからはこういった社会的に傷つきやすい立場にある方々を記事にするときは、できる限り一括りで囲って語ることはやめようと思う。仮にそういう人についてどうしても語りたい欲求が生まれたときは、想像や憶測でものを書くことはやめて、書籍やインタビューなどから得られる、そういう環境の人、その人個人のデータについての事実を言おうと思う。そしてそういうものについて語る時でも、極力そういった属性、職種についての何らかのイメージが貼り付けられそうな意見は抑えようと思う。

 

とりあえず改善策としては以上です。最後になりますが、あの記事を読んで不快に思った皆様に謝罪します。