クリエイターなどの物事を表現する側に立つ人が、覚悟しなくてはいけないことについて
例えばここに、白血病を題材にした純愛の物語があったとする。
ストーリーはよく錬られていて、多くの人を感動の渦に巻き込み国民的名作として崇められる事となった。世間的には興行成績、話題性、キャッチーさも伴い、著者が伝えたかった事を超えて、その他もろもろのよい側面をうみだすこととなった。その題材に憧れて医者を目指す人間が増えたり、「感動しました。救われました」という人も沢山あらわれるなど、社会的にはそれなりにポジティブな意見がたくさん集まった。
まあここまではいい。よくある事だ。
けれども、多分その作品に対してはこういう意見も絶対に出てくる。
「私達難病の人達を題材にして、感動ポルノを生み出さないでください。私たちだって人間なんです。そんなわかりやすい存在でもないし、当事者じゃない人がそんなわかったかのような言葉で共感を生む作品を作り出すことで、傷つく人がいるって事に気がつかないんですか。」
「体験してもいない、わかってもいない話題を使って物事を語る資格はあなたにはありません。専門書を沢山読んだりそういう人達からの声を沢山きいた上で、出直してきてください。それもできないあなたにこれについて語る資格はありません」
こういう意見を出す人は必然的というか、どうしようもなく出てくると僕は思う。まあこれもあくまでも僕の想像だ。現実的には誰も傷つけない、完全無欠の作品もありえるのかもしれない。というかクリエイターとしては、そういう作品を目指すべきだと思うし、その可能性を最初から否定するのはあまりいい選択肢ではないとは思う。しかしだからといって、物事について、
じゃあ素人や当事者でない人、不勉強な人(まあその勉強の度合を決定する人を誰が成すかという問題はあるけど、とりあえずそれは置いておくこととしよう)がその業界について何も言ってはいけないのか。口をつぐむしかないのか。
結局のところどうすればいいのか。
もちろん、そういう話題を出す自分の選択はどうしようもなかったんだ、仕方がなかったんだ、と初めから開き直るのはよいことではないし、出来ることならばそのクリエイターは、これからは感動ポルノとかキャッチーな話題以外の選択肢を使って今後よい物語を作っていきたい気持ちがあることが望ましいとは思う。けど、残念ながらそのクリエイターの現段階の実力と知名度で、そういう物語を作ったとして見てもらえるだろうか。多分だけど残念ながらそれは、凄く凄く難しい事だったんだと思う。もし仮に、それが出来るのならば、そういった選択を選ぶメリットはそこにはないから選ばなかったと思うから。
個人的な結論だけども、ある人にとってのデリケートな物事を、
これはフィクションの世界の話だけど、結局それ以外の選択肢がありえるのだろうか。語りえぬものについては沈黙しなくてはいけないれど、
ふざけるな!私は世界を変えたいわけじゃない、
でも仮にだけど、多分そのクリエイターがその発言を堺にその人の考えが変わったとしても、
何の選択肢を選ぶにしても、人を傷つけない努力は必要だと思う。とはいえ、人が生きていく上で動植物を食べない選択肢がないのと同様、ある場面で人を傷つけてしまうのは、やっぱり仕方がないんじゃないだろうか。
意見を発する人は、今後も多分、人を意図するにしろしないにしろ殴りつけて、ある一定数の人を傷つける。ただ僕は、そういう時、素直に不快にさせた事について謝罪し、頭から痛みや怒りが抜けた後に対話する以外の選択肢があるとは思えないのだ(それ以外の選択肢はあるのなら教えてほしい)人は完全な存在じゃない(この言葉が最大限の逃げ言葉であるという事は認める)。
もちろんなんらかの行動を通して人を傷つけた後に謝罪した人を、全面的に許せなんて言うつもりはない。だけども僕は、何かを表現するというという事は、そういうスタンス以外に取りうる選択肢がないんじゃないかと思うのだ。
こういった道を選ぶということは、修羅の道だ。だけれども、ある一定数以上の人がいる現実というフィールドに立って何かを表現するという事は、そういう覚悟がないとやっていけない世界の出来事だとも思う。
まあそういう世界に生きるのに疲れたら、料理の写真をあげたり、ディズニーランド楽しい~だとか、嫁が僕の誕生日を祝ってくれました。最高の日!みたいな事だけ書く世界線に移る事も選択肢として持つのはいいことだとも思うけどもね(今日はじめて知ったんだけど、こういう行為を美味しい、楽しい、嬉しい、何も産まない人達と名づけて批判する人がいるらしい。やれやれ、生きるってのは、本当に難しいものだね)
最後に、僕の好きな小説から一文を引用して終わることとします。
「ねえ、知ってる?ひとは、自分が見たいものを見るんだよ」