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アツアツだよ(´・ω・`)

映画・ひるね姫が何を描きたかったのかについて考察する

神山健治監督のひるね姫を見てきた。正直言うと、映画としてはちょっと退屈かな、とは思った。まあこの人の作品から自分が受ける感想はだいたいそういうものが多いというのは事実なのだけど。

 

ただあれこれ考えていくと、結構良い仕込みがなされた映画だな、とやや考えが変わってきた。以下あの物語を通じて神山健治監督が何を描きたかったのかについて考察を加えていくこととする。

 

車:人

この物語は自動車の自動運転システムが大きく取り上げられている。

 

車は人間が運転するものだ。けど近年のテクノロジーの進歩により、徐々に自動運転についての可能性が掘り進められつつある。

 

車自体には意識はない。けどソフトウェアを導入することで、まるで自分に意識があるかのように”自動”で運転ができるようになる。本作では夢の世界においてエンシェンが何度か魔法を入れ込む事で、機械に意思が生まれる様子が描かれている。

 

さてこの物語の題名は”ひるね”姫である。その通り、主人公であるココネは劇中で何度も何度も”眠り”につく。なぜ”眠り”がここまで劇中で強調されるのだろうか?それは機械に”意識”を入れ込む事の対比として、人間に”無意識”を使わせている事の二項対立に他ならない。

 

ただの機械である車に、プログラムを入れることでまるで人のような”意思(主導権)”を持たせる事ができるという事が劇中で何度も何度も描かれているけど、じゃあ逆に意思をもつ人間からなんらかの手法を使って”意思(主導権)”を取り除くと何ができるのか?たぶん神山健治監督の今作品の着想の元はそこにある。

 

この作品は3/11の後に作られた神山健治監督の初めての作品だ。彼はインタビューで前作である009の撮影中に3/11が起きたことにより「それまで考えてきたことと、どこかで“齟齬が出た”感じがした」と語っている。そしてそれから4年たった今作が初めての新作だという事を考えると、どう考えても物語に3/11の要素が隠れていると考えるのが妥当だろう。

 

cinema.pia.co.jp

 

繰り返しになるが、彼は機械(車)にプログラムを入れることでまるで人間のような意思を持つ存在へと作り上げられるような描写を劇中で描いている。けど、どんなにプログラムを精密に組み上げても、3/11のような災害を回避することはできない(だからココネの母は無くなってしまったのだ)

 

自分が最も深く愛する”妻”を亡くしたココネの父は間違いなくこう思ったはずだ。

 

「いくら緻密なプログラムを書き上げて機械を完全にコントロールしても、理不尽な災害からは逃れる事ができない」

 

じゃあどうすれば理不尽な現実を私たちは避けることができるのか。科学者なら当然そう考えるはずだ。恐らくその時、人間にプログラムを仕込む事で、深層心理の世界に入り込ませ、神話的な世界観を作り出し、その中で現実に直接的に作用させる事ができるのではないか、という考えに至ったんじゃないかというのが僕の予想だ(現にココネの夢の世界は微妙に現実とリンクしている。そして夢の世界はモモタロウ伝説がモチーフになっている)

 

ココネは劇中でかつては父親はたくさんお話をしてくれたのに、最近は全く喋る事なくスマホでメッセージのやりとりしか行わなくなってしまったとボヤいていた。なぜだろうか?それは恐らく、父親はココネに仕組み終わったプログラムが壊れる事を恐れたからだ(現に全てが終わった後はモモタロウは普通にココネに喋るかけるようになっている)

 

この物語が機械と人の対立構造で描かれている点に着目すればその事はよくわかる。劇中でエンシェンが機械に自由意志を送り込む際には必ずといっていいほど、タブレットでメッセージを送り込んでいた。彼女の構築した呪文により、機械は自由意志を手に入れる事ができるようになった。

 

機械にはプログラム(魔法)を入れる事で自由意志を持たせる事ができるこの劇中の描写を対称的に考えれば、人間に”言葉”を入れ込むことで”無意識の世界”に干渉する事ができるのではないかという発想は極めてリアルだ。

 

この物語では社長の座を狙う渡辺一郎が悪役のように描かれているけど、当然ながら彼はただの小手先でしかなく、本当の”敵”は彼では無い。真に打ち倒すべき相手は夢の世界で現れる”鬼”である。

 

では鬼の現実社会での対比対象は何か?それはもうここまでの議論を読んだ人ならば間違いなく”災害”だという結論に至るはずだ。恐らくだけど、東京オリンピックが行われる2020年に災害が起きる”はず”だったのだ。それをココネを通じて”回避”させる事が父親であるモモタロウの狙いだったのだろう。

 

なんで影の首謀者が父親だと僕が思うのかといえば、夢の世界の終わり方が極めて不思議な形で〆られているからに他ならない。この作品、夢の世界のラストに”鬼”を打ち倒すのは父親であるモモタロウの操縦するロボットである。けどちょっと考えて欲しい。なんで彼が最後にケリをつけるのだろうか?

 

普通に考えて、本来ならばラスボスにトドメをさすのは主人公の役割に決まっている。エンシェンが魔法を唱えてロボットに意思を与えて”鬼”を打ち倒すのが筋ってものである。

 

けどそうではない。なぜか?それは神山健治監督の意図として、影の主人公はココネではなく父親であるモモタロウだからに他ならない。あの物語は徹頭徹尾、最愛の妻を失った男による”厄災”へのアンチテーゼなのである。

 

劇中の夢の世界では、”鬼”を打ち倒したモモタロウはそのあと地球を飛び出して厄災である鬼を身にまとう形で自力では脱出不可能となってしまった。古来より”厄災”を回避するためには生贄が必要だ。夢ではその対象としてモモタロウが選ばれている(だから彼は宇宙空間で鬼とともに地球に戻れなくなった。地球に戻れない≒死のモチーフである)

 

恐らくだけど、現実世界ではその生贄の対象はココネだったのだ。父親が仕込んだ言霊により無意識へ干渉を行い、現実世界での”鬼”(厄災)を払拭する事に成功した彼女だけど、なんの犠牲もなしに天災を回避できるほど世の中は甘くはない。当然のごとく命を落とす”はず”だった。それがなんで回避できたかというと、これはもう母親の霊がかのバイクに乗り移ったからに他ならないだろう。

 

最後の最後にビルの中にバイクが突っ込んできてココネの落下を阻止したけど、あれは自動運転とかそういうレベルを越えた動作である。というか本来ならば、プログラム通りにあのバイクは岡山に戻っていた”はず”なのだ。けどそうならなかったのが何でかというと、もう母親の霊以外に説明がつけられない。

 

というわけでこの映画はゴリゴリにテクノロジー推しをしながら、人間と無意識と霊についてをいい感じに書いた作品だなっていうのが僕の雑感です。世の中は”目には見えない何か”が”ある”、という事が上手く描かれてたと思います。

 

おしまい