僕の理想は『ありがとう・ごめんなさい・おはようございます』が必要ない社会
僕は海外一人旅が好きなのだけど、異国の地を一人で旅していると必然的に使用回数が増える言葉がある。『Thank you, Excuse me, Good morning.』の3つだ。
これらは中学生でも知ってる単語である。日本語の概念になおせば『感謝、謝罪、あいさつ』に相当するだろうか。
外国では多用するこれらの言葉だが、日本に帰ってくると使用頻度はガクッと落ちる。下手すると一日に一回も使わないかもしれない。
こんな事を書くと『もっとキチンとした声で”ありがとう”や”ごめんなさい”をいいましょう。それと挨拶は生活の基本です』みたいなどこかの道徳の教科書に書いてありそうな事をいう人がいる。
本エントリはそういう趣旨とは真逆のものだ。僕はこれら三要素が持つ恐ろしい力に気が付いてしまった。端的にいえば今現在の日本におけるアリガトウやスミマセンは社会的弱者を対象とした貧困ビジネスなのである。今日はその事を書こうと思う。
経営者が書く本に書いてある気持ち悪いエピソード
『わたしは毎日○○ストアを利用するのですが、店に入るたびに聞こえる”おはようございます”の声を聞くと、今日も一日頑張ろうと思います。あなたのお店はマナー研修が行き届いていて素晴らしいです』
”お客様”からのこの手のエピソードを”美談”として紹介する経営者の本は後を絶たない。お客様は神様ですというキチガイワードを創造したのは松下幸之助(現・パナソニックの創始者)だ。
これが発端かはわからないが、日本はお客様≒神様という図式を元に、従業員(奴隷)が神様に向かって『感謝・謝罪・挨拶』を自主的に行うように徹底的に叩き込むマナー研修という恐ろしい制度がまかり通っている。
『感謝・謝罪・挨拶』はいずれも生活の潤滑油になりうる。これらを使う事によって、気持ちよく日々を過ごせる・・・という風に道徳の先生やマナー講師は言う。
けどそれを要求する人は基本的にはどうしようもない人ばかりだという事実を、僕たちはどう判断すればいいのだろう。
感謝も謝罪もあいさつも、本来は必要ない言葉である
僕は冒頭で海外一人旅で『Thank you, Excuse me, Good morning.』といった『感謝、謝罪、あいさつ』の言葉の使用頻度が増えると書いた。
何故これらの発言数が増えるかというと、僕がその地では異邦人でしかなく異国の地にお邪魔させてもらっている存在でしかないからだ。
だから必要以上にかの地では気を使い、これら潤滑油としての言葉を使うことで心地よい居場所を手にいれやすくしている。
だけどちょっと考えればわかるけど、これらは普通の状態ではない。というか通常ではないからこそ、これらの言葉をたくさん使うのだし、だからこそ異邦の地の人々も僕を客として扱ってくれる。
つまり『感謝、謝罪、あいさつ』が必要な社会というのは、通常の状態ではないのだ。僕は日本ではこれらの単語を一言もしゃべらないで生活することも多々あるし、むしろどちらかといえばそういう時の方が気を遣わずに心健やかに過ごしている。
今度は逆に『感謝、軽めの謝罪、あいさつ』を使う場面を考えてみよう。仕事だったり、ちょっと緊張する人との食事だったり。そういう時にこれら三要素の使用頻度がずいぶん増える。やっぱりこれらは居心地が悪い場所で、できる限り快適に過ごす為の魔法のワードなのだ。
そして大切なことだけど、これらの三要素は自発的に言うからこそアリなのだ。強制的に言わされたらパワハラも甚だしい。もし仮にあなたが『ありがとうって言いなさい』だとか『ここはすみませんという場面だろう』だとか『お前は挨拶もできないのか』と言われたら、イラッとこないだろうか。
『感謝、謝罪、あいさつ』は本来ならば、自分の意志で使うものだ。だけど世の中にはそれを強制的に言わせる恐ろしい場所が存在している。
コンビニや格安飲食店でありがとうございましたと言われる不思議
『いらっしゃいませー』〚もうしわけございません〛『ありがとうごさいましたー』
コンビニや格安飲食店で日々言われる言葉である。僕はこれが正直いえば気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がなかった。僕がコンビニやこれら格安飲食店を訪れるのは『自分がそこに行きたかった』からであり、むしろお礼を言わなくてはいけないのはどう考えても自分の方だ。
『こんな場所でこの時間まで営業してくれてありがとう。おかげでお茶が買えたよ』とか『こんな中途半端な時間にご飯作ってくれてありがとう』が本来なら”筋”のはずだ。
そしてこれらが最もグロテスクなのは、”マナー研修”や”企業研修”という形で従業員が客に無理やりそれらの言葉を言わされているという事だ。
先ほどもいったが、『感謝、謝罪、あいさつ』は本来ならば、自分の意志で使うものだ。だけどこれら接客業では”教育”の結果、それらを給料を払う事で”無理やり”言わせている。
だけど、この『感謝、謝罪、あいさつ』は恐ろしいくらい出回っているし日本社会において定着している。こんなグロテスクな仕組みが根付いているという事は、それに需要があるのである。
その需要とは何なのか。実はそれは承認欲求に他ならない。
ヤンキーや民度の低い人ほどマナーにうるさい
21世紀のインターネット承認欲求が過度に肥大した社会だと言われている。
だけどちょっと待ってほしい。確かに僕を含めてインターネットには承認欲求ジャンキーが徘徊しているけど、普通の人だって当然というか承認欲求が無い筈がない。
じゃあ普通の人はどこで承認欲求を補填しているのだろう、と思ったときに僕はようやく気が付いたのだ。ああ、彼らはコンビニや格安飲食店といったサービス業で『感謝、謝罪、あいさつ』を受け取る事で自分の承認欲求を満たしているのだ、と。
体育会系やヤンキー社会に所属した事がある人はわかると思うけど、彼・彼女らは『ありがとうございます!すみません!おはようございます!』に異様に厳しい。なんでそんな事をしているのか長年疑問だったのだけど、あれはそれらの社会に所属して地位を高めた結果得られる、承認欲求の一つの形なのだ。
だから体育会系ではこれらを徹底できない人に異様に厳しく当たる。だってそれが自分が承認されている事の証明なのだから。それができない人に対して寛容になれるという事は、それすなわち自分は”承認されなくてもいい”と言っている事とほぼ同義なのだ(逆に文化系ではそれ以外に作品という形で承認をえる方法があるので、必ずしもマナーは徹底されない)
よく民度が低い人ほどコンビニや格安飲食店でマナーにうるさいという。僕も前から高々数百円の時給の人になんでそんなにあの人達が厳しくあたるのか不思議でしょうがなかったのだけど、あの人達はそこに『感謝、謝罪、あいさつ』を得る為に出かけているのだ。
それが徹底されていない場面に遭遇した際に、民度が低い人たちが何故優しくなれないかというと、それすなわち自分は”承認されなくてもいい”と言っている事とほぼ同義なのである(逆にそれ以外の形で社会的に承認をえる手段がある社会的上層は、多少マナーがおかしかろうが基本的には優しい)
実は最近のネット民だけではなく、もう結構昔から人は承認欲求ジャンキーだったのだ。
僕はもっと楽な社会に生きたい
お客様は神様です。経営者はこの魔法の言葉で従業員を洗脳し、神様に『感謝、謝罪、あいさつ』を与える事を当然という風に刷り込む。だけどやっぱりこれらの言葉を金の力で無理やり言わせるのは、有り体に言ってもかなりグロテスクじゃないだろうか。
繰り返すけど、『ありがとうって言いなさい』だとか『ここはすみませんという場面だろう』だとか『お前は挨拶もできないのか』っていわれるのはやっぱり嫌だ。少なくとも僕は反吐がでる。
だけどこれが仕事という事になると、普通の事として扱われる。そしてそれが言えない奴が『マナーがなってない奴』だという烙印を押されている。
批判を承知で言うが、僕が理想とする社会は『ありがとう・ごめんなさい・おはようございます』を強要される事がない社会だ。
だからこそ、僕たちは格安で従業員を働かせて『感謝・謝罪・あいさつ』の大バーゲンセールを行っている企業を断固として拒否していかなくてはいけない。そういう場所にいって『サービスが素晴らしいからここを選んだ』なんていう奴は社会をもっと生きにくい場所へと先導しているといわれても否定できない。自分が人にさせられて嫌な事は、人にもやらせてはいけないのだ。
その事の方が感謝しましょうだとか挨拶しましょうなんて事よりも、よっぽど道徳の教科書のトップページに載るべき事なのにね。
<追記>
この記事書いてて思い出したのが、3/11の時にTVのCMになったこれ。こうしてみると広告業界も『感謝、謝罪、あいさつ』は燃えないし不謹慎じゃないって事を理解しているのだろうな。
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<参考文献>
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