珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

暴力団をモデルにすれば国家の仕組みが驚くほどよくわかる。

少し前の話になりますが、生まれて初めて確定申告をやってきました。僕は今年が初めての確定申告だったので、自分が収めている税金を年単位でまとまった形でみる機会は初めてでした(そしてそのそう支払い金額をみて軽く絶望した)

 

これを読んでいる多くの人は、日本に住んでいることでしょう。けど日本という国に住んでいるという事がどういう事なのかをキチンと理解している人は驚くほど少ないのではないでしょうか。

 

今回は暴力団をモデルケースにして国家について簡単に説明していくことにします。

 

税金はショバ代

人には人権というものが備わっている(という事になっている)

 

人権とは簡単に言うと「自分がされて嫌な事は他人にするな」というルールである。例えば道を歩いている人から金品を強奪してはいけないし、他人を強姦してはいけない事になっている。

 

これを非常に当たり前の事だと思っているかもしれないけど、実はそう思える事自体が非常に近代的な事だ。

 

確かに普通の人は勿論他人から金品を強奪しないし、他人を強姦したりもしない。けどそういう行為をしてもペナルティがない社会に生きている人間は、本当にこれらの事をしないだろうか?

 

こうして人間社会では、自分がされて嫌な事をされないために、それをした人間にペナルティを課すようにした。これが現代で言うところの法律である。

 

法律を制定するのは基本的には国家である。僕達は、日本という国に住んで日本の法律を守って暮らしている。法律を守る限り、僕達の身柄は自由だ。

 

とはいえ法律を作ったところで、それを守らせる為には必然的に強い存在が必要となる。こうして法のもとに運営される国家は、それをキッチリ執行するために必然的に暴力的な組織を抱え込むことになる。これが現代でいうところの警察である。

 

こうしてルールを運営する国(とその国を動かす官僚)と、官僚に暴力的な力を備えるための警察ができあがる。ただ国も警察も無償でこれらの行為ができるわけではないので、国民に一定の税金を課す。

 

こうして国民は、税金を払う事で”人権”を安心して享受する事ができる。

 

こう書くと難しいと思ってしまう人がいるかもしれないけど、これらの仕組みは暴力団そのままである。以下のような話にすれば、上の話もすんなりと理解できるだろう。

 

”とある地方都市に、小さなレストランを営む善良な夫婦がいました。このレストランでは非常に良心的な価格で料理を出してまっとうな経営をしていたのですが、あるとき無銭飲食をし始める輩がだんだんと増えていくようになってしまいました。”

 

”善良な夫婦は、力がないので無銭飲食を繰り返す輩を追い出すことができません。仕方がないのでみかじめ料暴力団に支払って、無銭飲食を繰り返す輩をシメてもらう事にしました。”

 

”こうしてこのレストランは暴力団の傘下となり、ルールを守らない人間はこのレストランに寄りつくことはなくなりました。善良な夫婦は再び安心して営業を行えるようになりました。そしてその安心料として、毎月一定額のみかじめ料暴力団に献上することとなったのです。”

 

”こうして善良な夫婦は、ちょっとしたコストで日々の安全を手にすることができるようになりましたとさ。めでたし、めでたし。”

 

 その後のレストランの話

もちろん物語はこう簡単には終わらない。

 

”その後しばらくはレストランと暴力団の関係は良好でしたが、暴力団の構成員が段々と増えるにつれ従来のショバ代では組織を維持する事ができなくなってしまいました。”

 

”困った暴力団は、レストラン側にショバ代のつり上げを請求する事にしました。レストランは嫌で嫌で仕方がありませんでしたが、仕方がないので一旦受け入れることとしました。”

 

”そしてショバ代のつり上げは段々と繰り返されました。何度目かのやり取りの後に、ついに善良な夫婦はブチ切れました。”

 

”「もうお前らなんかに頼まん。うちは別の組織の傘下に入る」”

 

まあよくある話とも言えますけど、この陳腐なストーリーが水面下で進行しているのが現代日本だというと話が全く笑えなくなってくるんですよね。

 

ちなみに少し前まで消費税が2%上がるとかが議論されてましたけど、国家のショバ代は当然と言うか消費税以外にもいろいろあります。所得税社会保険料なんかがその主だったものですけど、この社会保障費、近年どれぐらい上がったかみなさんご存知でしょうか?

 

ちなみに正解ですけど、1990年代と比較して、現代の社会保障費はその当時のほぼ2倍になっています。

 

数値でいえば、200%です。消費税を2%上げるとかいう議論が、いかに馬鹿げた話かがよくわかるというものです。

 

ちなみにこれが何で全然話題にもならないかというと、社会保障費の引き上げは厚生労働省や自治体がある程度好き勝手に決められるからで、国会に議題として堂々とあげられないのがその背景にあるんですよね。

 

今現在はしぶしぶ税金を払っている日本国民ですが、あまりに重すぎる社会保障費の負担にブチ切れるのはそう遠い未来ではないかもしれません(´;ω;`)

まだAmazonが漫画の第一巻を10円ぐらいで投げ売りセールしているので買ったのを紹介する・その3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回のセールは堀がいがありますわー。

Amazonが漫画の第一巻を10円ぐらいで投げ売りセールしているので買ったのを紹介する・その2

続きです。一冊10円ぐらいだし、買えるうちに是非どうぞ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Amazonが漫画の第一巻を10円ぐらいで投げ売りセールしているので買ったのを紹介する

タイトル通り、なんかAmazonが凄いセールやりはじめたので買ったものを紹介していきます。なんか予定冊数に達したものから順にセール終了って噂なんで、気になるのあったら買ってみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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とりあえず買ったのはこんな感じ。アマゾンさん、ほんといい仕事してますね。

フリー・アクションゲームの地球の形見が面白すぎるのでみんな今すぐやった方がいい。

僕はアクションゲームが好きで好きで仕方がないのだけど、久々に超弩級の当たりを引いたので簡素に紹介する事にする。ゲームの名前は地球の形見。以下のサイトで無料でダウンロードできる。

 

www.freem.ne.jp

 

ゲームの説明自体は上記サイトでみてもらうとして、僕なりにこのゲームを言い表すと良質な死に覚えゲーだと思う。やりながら昔懐かしいロックマンの事を思い出した。

 

この歳になってくると、レベル上げが億劫になってくるのでアクションゲームのような操作性でなんとかできるタイプのゲームが好ましくなってくるのだけど、実際のところ良質なアクションゲームというものは本当に数が少ない。

 

自分自身も幼少期の頃は、8000円程度のお金を出してサクッと終わってしまうアクションは、面白くはあるもののコスパが悪いなぁとは思っていた。同じお金を出してRPGなら40~100時間は楽しめるのに対して、アクションだとかなりやりこんでも10時間もやれば殆ど遊び尽くす事ができてしまう。

 

マーケットも同じような事を思う人が多かったからかはわからないけど、アクションゲームは随分と根絶したような気がする。モンハンのような何百時間もやり込めるゲームは例外として、基本的にはロックマンのようなサクッと遊べるアクションは何か下火である。

 

やっぱりどこの会社のゲームも、RPGに予算がかなり落とされているな、とは感じるものである。ロックマンXの作者はカプコンを退社させられてしまったし、その他のアクションゲームの続編もイマイチぱっとしないものがある(例外はゼルダぐらいだろうか。まあ最近のゼルダはかなりやりこみ要素あるけど)

 

まあゲームをやるのが基本的にはお金のない子どもなので、こればかりは仕方がない部分もあるのだろうけど、大人は大人でやっぱり時間がないならないなりに楽しく自由空間に浸りたいのである。

 

さて前置きがながくなったが、本作地球の形見は雰囲気としてマザーシリーズのような不思議ワールドを探索する喜び+ロックマンの死に覚えでなんとか法則性を読んでクリアする、という要素が絶妙に組み込まれた素晴らしいゲームである。

 

個人的にはロックマンのクリアできなくもないけど、適当にやってたらクリアできない絶妙なバランスが凄く好きだったので、本作の簡単ではないけども頑張ってある程度法則をつかんだらクリアできるアクションゲームというのは本当に楽しかった。

 

同じくフリーのアクションゲームだと、洞窟物語よりかは幾分難しく(聖域は除く。聖域単体なら洞窟物語の方が遥かに鬼畜)、Hack 9よりかは全然簡単というぐらいだろうか(Hack 9は難しすぎ。ほとんどの人がクリアできない)

 

ゲームの喜びは、現実世界と違って自由な意思が反映される空間を楽しめる部分にあると思う。このゲームも基本的にはかなり自由だ。ストーリーもあるといえばあるが、押し付けがましさはほとんどない。つい先日リリースされたほたるのひかりも相当凄いゲームだったが、地球の形見もそれに負けないぐらい素晴らしいアクションゲームである。や、こんなゲームに出会えただなんて、わたしゃ幸せです。

 

作者の方がどういった経歴をお持ちなのか全くわからないけども、今後も是非同じようなゲームを(有料でも全然かまわないから)作り続けて欲しいな、と思う。機会あったらゲーム作りの苦労など、ぜひとも教えて欲しいものだ。

 

素晴らしいゲームがプレイできて何よりである。今後も世界に1つでも多くの良質なアクションゲームが増えていきますように。

リーダーシップを取る存在は、長時間働いてでも職場の流れを把握しておいたほうが後々の財産になる

たまたまホットエントリーをみたら連載している媒体でこんな記事が載っていた。

 

blog.tinect.jp

 

質の低さを量で補ってた自分としては、まあ確かになあとは思いつつ、自分の超長時間労働を行った研修病院のシステムに果たして意義があったのかどうかを振り返るようキッカケともなった。

 

何度か書いているが、自分は超ウルトラハイパー激務病院で初期研修を行った。朝の5時から22時までが通常業務。22時に定時の仕事が終わったら、終わらなかった仕事を寝ないで病院に残り、無理矢理次の日の朝が来るまでに仕上げていた。

 

この働き方が全員にオススメできるとは到底思えないし、はっきりいって普通に仕事ができるようになるという観点からすれば非効率的としかいいようがないシステムだったとは思う。こんな働き方をしなくても、普通に働くのには困らないぐらいの医者の技術は普通に身につく。これはもう、間違いない事実だ。

 

正直な事を言うと僕も少し前までは超ウルトラハイパー激務病院なんてマジで非効率この上ないシステムだと思ってた。あんなのはただの自己満足でしかなく、もっと意味のある技術を習得する時間を設けるべきだと研修期間中は思っていた。

 

ただ比較的まっとうな労働環境下にいる現在になって再び周りをみわたしてみると、不思議な事に激務病院出身者は他の普通の病院出身者と比較して、確かに仕事ができるのだ。診察・治療の能力はそこまで差があるわけではないのだけど、なんか彼らはマネジメントが凄く上手い。

 

これが一体何の違いに起因するのかなぁと思っていたのだけど、最近になってようやく疑念が氷解してきた。彼らは他部署の気持ちを汲み取るのが物凄くうまいのだ。

 

医者は診断や治療を行うものであると同時に、チームリーダーのような役割を与えられている。看護師や検査技師、薬剤師といったコメディカルはもとより、他科の医師とも適切にコミュニケーションをおこないつつ仕事を行うことを要求されている。

 

自分の出身病院もそうだったのだけど、激務病院はとにかく脚を動かすことをよしとする傾向がある。検体の提出をわざわざ自分の脚で検査センターへと提出させに行ったり、物凄く怖い外科の医師に、PHSではなくわざわざ対面でのコンサルテーションを行わせたり(まあこういう人はPHSより対面の方が優しかったりはするのだけど・・・)

 

正直働いている時は、こういう不毛な事をやってるから労働時間が長くなるのだと思っていたのだけど、今になってみると、ああやって脚を運んで他部署の人と直接コミュニケーションをとれた事は一生モノの財産だな、と思うのである。何度も何度も顔を見せることで、彼らが何を好んで何を嫌がるかといった、病院全体の仕事を円滑に勧めるためのコツのようなものが自分の中に凄く蓄積されていたなーと思うのだ。

 

こういう事は教科書では学べないし、実際問題医師として仕事を行うにおいて知らなくても全く問題はない。少なくとも実務的な意味で仕事ができるかという観点からみれば、不毛以外の何物でもない知識ではある。

 

ただ自分が管理する立場になると、この知識が結構ボディブローのようにきいてくるのだ。この手の知識があると、病院の仕事を全体で眺めた時にどこがどうボトルネックになるかがなんとなくわかるのだ。こういう知識は、若手のうちに無理矢理仕事という形で業務に組み込まれないと、手にするのは困難だろう。

 

少なくとも今現在自分がこの手の初期研修期間中にやった面倒くさい事をこの年になってやりたいかといわれると、億劫ではある。こればかりは若い頃にやらないと一生やれないタイプの労働だろう。

 

こんな感じで初期臨床医は様々な場所に顔を出す機会があったのだけど、こうして顔を出した部門で働く段になってみると、今度は当事者としていろいろなものがまた見えてくるのだ。

 

例えばさっき例に出した超怖い外科の医師、はっきりいって彼の事は今でも僕は嫌いだし、もう少し他人に優しくなれよとは思うのだけど、彼と一緒に長時間働いてみると不機嫌な人間にも相談して良いタイミングとしてはならないタイミングがあることが否応なしにわかるのである。

 

長時間の手術を終えたタイミングや帰宅直後のタイミングでの相談を彼に行った研修医が烈火のごとく怒られているのをみたりすると、「ああこのタイミングでこいつに相談するのはやめよう」だとかいう言外の知識が習得できたりする。

 

逆に超怖いはずのこいつが全然怒らずに相談事を対処しているような存在をみると「へっ!?この人って怒らないで人の話きけるんだ!?」という事がわかったりと、不機嫌な人間のマネジメント技術がなんとなーくわかったりするのである(そして怒らせない相談のコツを、後で仲間にコッソリ聞き出したりするのである)

 

これはもう、直接見ないと絶対に習得できない技術だと思う。少なくとも定時だから帰りまーすと、他人が働いている最中に帰るような人間は絶対に習得できない技法だろう。

 

まあ長くなったからまとめると、リーダーシップを取る存在は、長時間働いてでも職場の流れを把握しておいたほうが後々の財産になるかもよって話です。

 

そりゃ採血を10000人分やれだとか、意味もなく正座を24時間やれみたいな根性教育的な長時間労働は絶対に意味がないし廃止するべきだと思うけど、将来その施設でリーダーをやらなくちゃいけないような人間は、多少働いてでも他部署の力学を短期間で体に叩き込む事は損じゃないと思うけどね。

 

こういう人の気持ちがわかる為の若い頃の長時間労働は、将来の自分の仕事の技術習得とは別個にやっておくべきだとは思うけどなー。こういう他部署の気持ちが理解できる系の労働を、初期臨床研修での2年間と割り切ってやるのは個人的にはアリだとは思いますけどね(その後、専門家としてのちゃんとした医療技術習得もやらないといけませんし)

 

まあこれはあくまで医師のような幹部候補みたいな存在の意見なので、普通のサラリーマンには理解されにくいかもしれないなー。今日書きたいことはこんな感じです。

有名人がある日突然変になってしまう原因を考えてみた

「あの人、前は面白かったけど最近ちょっとおかしくなってきたよね」

 

こういわれる人は結構多い。大手メディアに出ている人もそうだし、インターネットでも昔は面白かった人が、徐々につまらなくなってしまうような事象は事欠かない。

 

最近この現象がなぜ生じるのかについての考えがまとまってきたので、以下にまとめて書いてみる事にする。

 

ネットで有名になるのに必要なのはわかりやすさと断言力

インターネットは過激で断罪的な発言が好まれる傾向にある。なぜだろう?

 

世の中には様々な不満が満ち溢れている。

 

会社に行きたくない、満員電車に揺られたくない、給与が低い、気の合う友達がいない。

 

これ以外にも例をあげるとキリがない。こういう不満を持った人は、考えがやや過激になる傾向がある。

 

こういう環境下において、自分の不満をわかりやすく断言的な発言で発信するタイプの人間は非常に好まれる。

 

多くの人は、不満があっても自分の言葉でそれを上手い形で表すのが苦手だ。それを上手い形でわかりやすい言葉に変換する人の元には、多くの支持者が集まる。

 

インターネット、ならびにSNSはこの流れを加速するのに極めて理にかなったツールだ。Facebookなら”いいね”や”シェア”が、Twitterなら”フォロワー”や”RT”といった形でそれが数という形を持って拡散される。

 

大きな数はそれだけで人を引きつける。こうしていつしか力強い発言を行う人間は、インターネット上でアルファと呼ばれる存在となり、一大勢力を築く事となる。

 

この段階までは、アルファの発言はだいたいにおいて「あの人、結構面白いね」という段階でとどまっている事が多い。問題はアルファがこの次のフェーズに移ったあたりから生じ始める。

 

アルファにとっては注目されない≒死である

このあたりから、だんだんとアルファの周りでお金の匂いがし始めるようになる。

 

書籍化やサロン経営、様々なアドバイスによりこういったものを徐々に取り入れたアルファは、だんだんと本来の良さである「自分の素の発言」が消えていき、徐々に観客が喜びそうな発言を好んで行うようになっていく。

 

観客の多くは、アルファに良心をそこまでは求めない。どっちかというと、巨悪を糾弾するかのような痛快感を求める傾向がある。こうなるとアルファの周りにあつまる人たちは徐々に信者の数が増えていき、だんだんと宗教っぽい匂いが漂うようになる。

 

ここまでくると、大体の人はもう駄目だ。信者からのお布施というポジティブな反応を拒絶できるような強い心の人はそうはいない。そして定職をやめてしまうと、もっと駄目になる。だんだんと本来の良さであった「素の発言」から「信者の喜ぶ発言」を行うような存在となってしまい、結果として非常につまらない存在へと成り下がってしまう。

 

これは本当に痛感しているのだけど、人はお金の力で容易に駄目になる。「あ、おれこの活動で食べていけるかも」と思ってしまってからが特に危ない。

 

こうしてかつて輝いていたアルファは、イロモノと化し、普通の人からすれば「宗教っぽいなにか」か「かつては輝いていた」人になってしまう。

 

僕は最近、いつまでも変わらずに第一線で活躍しつづけられる人を本当に尊敬するようになった。前はそれが普通だと思っていたのだけど、自分が好きだった人たちがどんどん教祖のような存在になってしまうという現実を直視するにつれ、本当にそう思うようになった。カネの力は本当に恐ろしい。カネは人から魂を容易に抜き取り、つまらない何かにすることが非常にうまい。

 

自分自身がそういう存在にならないことを、祈るばかりである。みなさんも、もしそういう存在への階段をのぼるようになってしまったとしたら、この記事を思い出して欲しい。

 

人は駄目になるのは一瞬である。一度駄目になってしまったら、元に戻るのは非常に難しい。

 

よい人生を歩み続けることの難しさよ・・・