珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

Amazonが漫画の第一巻を10円ぐらいで投げ売りセールしているので買ったのを紹介する

タイトル通り、なんかAmazonが凄いセールやりはじめたので買ったものを紹介していきます。なんか予定冊数に達したものから順にセール終了って噂なんで、気になるのあったら買ってみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 https://twitter.com/takasuka_toki/status/868162398951288832

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とりあえず買ったのはこんな感じ。アマゾンさん、ほんといい仕事してますね。

フリー・アクションゲームの地球の形見が面白すぎるのでみんな今すぐやった方がいい。

僕はアクションゲームが好きで好きで仕方がないのだけど、久々に超弩級の当たりを引いたので簡素に紹介する事にする。ゲームの名前は地球の形見。以下のサイトで無料でダウンロードできる。

 

www.freem.ne.jp

 

ゲームの説明自体は上記サイトでみてもらうとして、僕なりにこのゲームを言い表すと良質な死に覚えゲーだと思う。やりながら昔懐かしいロックマンの事を思い出した。

 

この歳になってくると、レベル上げが億劫になってくるのでアクションゲームのような操作性でなんとかできるタイプのゲームが好ましくなってくるのだけど、実際のところ良質なアクションゲームというものは本当に数が少ない。

 

自分自身も幼少期の頃は、8000円程度のお金を出してサクッと終わってしまうアクションは、面白くはあるもののコスパが悪いなぁとは思っていた。同じお金を出してRPGなら40~100時間は楽しめるのに対して、アクションだとかなりやりこんでも10時間もやれば殆ど遊び尽くす事ができてしまう。

 

マーケットも同じような事を思う人が多かったからかはわからないけど、アクションゲームは随分と根絶したような気がする。モンハンのような何百時間もやり込めるゲームは例外として、基本的にはロックマンのようなサクッと遊べるアクションは何か下火である。

 

やっぱりどこの会社のゲームも、RPGに予算がかなり落とされているな、とは感じるものである。ロックマンXの作者はカプコンを退社させられてしまったし、その他のアクションゲームの続編もイマイチぱっとしないものがある(例外はゼルダぐらいだろうか。まあ最近のゼルダはかなりやりこみ要素あるけど)

 

まあゲームをやるのが基本的にはお金のない子どもなので、こればかりは仕方がない部分もあるのだろうけど、大人は大人でやっぱり時間がないならないなりに楽しく自由空間に浸りたいのである。

 

さて前置きがながくなったが、本作地球の形見は雰囲気としてマザーシリーズのような不思議ワールドを探索する喜び+ロックマンの死に覚えでなんとか法則性を読んでクリアする、という要素が絶妙に組み込まれた素晴らしいゲームである。

 

個人的にはロックマンのクリアできなくもないけど、適当にやってたらクリアできない絶妙なバランスが凄く好きだったので、本作の簡単ではないけども頑張ってある程度法則をつかんだらクリアできるアクションゲームというのは本当に楽しかった。

 

同じくフリーのアクションゲームだと、洞窟物語よりかは幾分難しく(聖域は除く。聖域単体なら洞窟物語の方が遥かに鬼畜)、Hack 9よりかは全然簡単というぐらいだろうか(Hack 9は難しすぎ。ほとんどの人がクリアできない)

 

ゲームの喜びは、現実世界と違って自由な意思が反映される空間を楽しめる部分にあると思う。このゲームも基本的にはかなり自由だ。ストーリーもあるといえばあるが、押し付けがましさはほとんどない。つい先日リリースされたほたるのひかりも相当凄いゲームだったが、地球の形見もそれに負けないぐらい素晴らしいアクションゲームである。や、こんなゲームに出会えただなんて、わたしゃ幸せです。

 

作者の方がどういった経歴をお持ちなのか全くわからないけども、今後も是非同じようなゲームを(有料でも全然かまわないから)作り続けて欲しいな、と思う。機会あったらゲーム作りの苦労など、ぜひとも教えて欲しいものだ。

 

素晴らしいゲームがプレイできて何よりである。今後も世界に1つでも多くの良質なアクションゲームが増えていきますように。

リーダーシップを取る存在は、長時間働いてでも職場の流れを把握しておいたほうが後々の財産になる

たまたまホットエントリーをみたら連載している媒体でこんな記事が載っていた。

 

blog.tinect.jp

 

質の低さを量で補ってた自分としては、まあ確かになあとは思いつつ、自分の超長時間労働を行った研修病院のシステムに果たして意義があったのかどうかを振り返るようキッカケともなった。

 

何度か書いているが、自分は超ウルトラハイパー激務病院で初期研修を行った。朝の5時から22時までが通常業務。22時に定時の仕事が終わったら、終わらなかった仕事を寝ないで病院に残り、無理矢理次の日の朝が来るまでに仕上げていた。

 

この働き方が全員にオススメできるとは到底思えないし、はっきりいって普通に仕事ができるようになるという観点からすれば非効率的としかいいようがないシステムだったとは思う。こんな働き方をしなくても、普通に働くのには困らないぐらいの医者の技術は普通に身につく。これはもう、間違いない事実だ。

 

正直な事を言うと僕も少し前までは超ウルトラハイパー激務病院なんてマジで非効率この上ないシステムだと思ってた。あんなのはただの自己満足でしかなく、もっと意味のある技術を習得する時間を設けるべきだと研修期間中は思っていた。

 

ただ比較的まっとうな労働環境下にいる現在になって再び周りをみわたしてみると、不思議な事に激務病院出身者は他の普通の病院出身者と比較して、確かに仕事ができるのだ。診察・治療の能力はそこまで差があるわけではないのだけど、なんか彼らはマネジメントが凄く上手い。

 

これが一体何の違いに起因するのかなぁと思っていたのだけど、最近になってようやく疑念が氷解してきた。彼らは他部署の気持ちを汲み取るのが物凄くうまいのだ。

 

医者は診断や治療を行うものであると同時に、チームリーダーのような役割を与えられている。看護師や検査技師、薬剤師といったコメディカルはもとより、他科の医師とも適切にコミュニケーションをおこないつつ仕事を行うことを要求されている。

 

自分の出身病院もそうだったのだけど、激務病院はとにかく脚を動かすことをよしとする傾向がある。検体の提出をわざわざ自分の脚で検査センターへと提出させに行ったり、物凄く怖い外科の医師に、PHSではなくわざわざ対面でのコンサルテーションを行わせたり(まあこういう人はPHSより対面の方が優しかったりはするのだけど・・・)

 

正直働いている時は、こういう不毛な事をやってるから労働時間が長くなるのだと思っていたのだけど、今になってみると、ああやって脚を運んで他部署の人と直接コミュニケーションをとれた事は一生モノの財産だな、と思うのである。何度も何度も顔を見せることで、彼らが何を好んで何を嫌がるかといった、病院全体の仕事を円滑に勧めるためのコツのようなものが自分の中に凄く蓄積されていたなーと思うのだ。

 

こういう事は教科書では学べないし、実際問題医師として仕事を行うにおいて知らなくても全く問題はない。少なくとも実務的な意味で仕事ができるかという観点からみれば、不毛以外の何物でもない知識ではある。

 

ただ自分が管理する立場になると、この知識が結構ボディブローのようにきいてくるのだ。この手の知識があると、病院の仕事を全体で眺めた時にどこがどうボトルネックになるかがなんとなくわかるのだ。こういう知識は、若手のうちに無理矢理仕事という形で業務に組み込まれないと、手にするのは困難だろう。

 

少なくとも今現在自分がこの手の初期研修期間中にやった面倒くさい事をこの年になってやりたいかといわれると、億劫ではある。こればかりは若い頃にやらないと一生やれないタイプの労働だろう。

 

こんな感じで初期臨床医は様々な場所に顔を出す機会があったのだけど、こうして顔を出した部門で働く段になってみると、今度は当事者としていろいろなものがまた見えてくるのだ。

 

例えばさっき例に出した超怖い外科の医師、はっきりいって彼の事は今でも僕は嫌いだし、もう少し他人に優しくなれよとは思うのだけど、彼と一緒に長時間働いてみると不機嫌な人間にも相談して良いタイミングとしてはならないタイミングがあることが否応なしにわかるのである。

 

長時間の手術を終えたタイミングや帰宅直後のタイミングでの相談を彼に行った研修医が烈火のごとく怒られているのをみたりすると、「ああこのタイミングでこいつに相談するのはやめよう」だとかいう言外の知識が習得できたりする。

 

逆に超怖いはずのこいつが全然怒らずに相談事を対処しているような存在をみると「へっ!?この人って怒らないで人の話きけるんだ!?」という事がわかったりと、不機嫌な人間のマネジメント技術がなんとなーくわかったりするのである(そして怒らせない相談のコツを、後で仲間にコッソリ聞き出したりするのである)

 

これはもう、直接見ないと絶対に習得できない技術だと思う。少なくとも定時だから帰りまーすと、他人が働いている最中に帰るような人間は絶対に習得できない技法だろう。

 

まあ長くなったからまとめると、リーダーシップを取る存在は、長時間働いてでも職場の流れを把握しておいたほうが後々の財産になるかもよって話です。

 

そりゃ採血を10000人分やれだとか、意味もなく正座を24時間やれみたいな根性教育的な長時間労働は絶対に意味がないし廃止するべきだと思うけど、将来その施設でリーダーをやらなくちゃいけないような人間は、多少働いてでも他部署の力学を短期間で体に叩き込む事は損じゃないと思うけどね。

 

こういう人の気持ちがわかる為の若い頃の長時間労働は、将来の自分の仕事の技術習得とは別個にやっておくべきだとは思うけどなー。こういう他部署の気持ちが理解できる系の労働を、初期臨床研修での2年間と割り切ってやるのは個人的にはアリだとは思いますけどね(その後、専門家としてのちゃんとした医療技術習得もやらないといけませんし)

 

まあこれはあくまで医師のような幹部候補みたいな存在の意見なので、普通のサラリーマンには理解されにくいかもしれないなー。今日書きたいことはこんな感じです。

有名人がある日突然変になってしまう原因を考えてみた

「あの人、前は面白かったけど最近ちょっとおかしくなってきたよね」

 

こういわれる人は結構多い。大手メディアに出ている人もそうだし、インターネットでも昔は面白かった人が、徐々につまらなくなってしまうような事象は事欠かない。

 

最近この現象がなぜ生じるのかについての考えがまとまってきたので、以下にまとめて書いてみる事にする。

 

ネットで有名になるのに必要なのはわかりやすさと断言力

インターネットは過激で断罪的な発言が好まれる傾向にある。なぜだろう?

 

世の中には様々な不満が満ち溢れている。

 

会社に行きたくない、満員電車に揺られたくない、給与が低い、気の合う友達がいない。

 

これ以外にも例をあげるとキリがない。こういう不満を持った人は、考えがやや過激になる傾向がある。

 

こういう環境下において、自分の不満をわかりやすく断言的な発言で発信するタイプの人間は非常に好まれる。

 

多くの人は、不満があっても自分の言葉でそれを上手い形で表すのが苦手だ。それを上手い形でわかりやすい言葉に変換する人の元には、多くの支持者が集まる。

 

インターネット、ならびにSNSはこの流れを加速するのに極めて理にかなったツールだ。Facebookなら”いいね”や”シェア”が、Twitterなら”フォロワー”や”RT”といった形でそれが数という形を持って拡散される。

 

大きな数はそれだけで人を引きつける。こうしていつしか力強い発言を行う人間は、インターネット上でアルファと呼ばれる存在となり、一大勢力を築く事となる。

 

この段階までは、アルファの発言はだいたいにおいて「あの人、結構面白いね」という段階でとどまっている事が多い。問題はアルファがこの次のフェーズに移ったあたりから生じ始める。

 

アルファにとっては注目されない≒死である

このあたりから、だんだんとアルファの周りでお金の匂いがし始めるようになる。

 

書籍化やサロン経営、様々なアドバイスによりこういったものを徐々に取り入れたアルファは、だんだんと本来の良さである「自分の素の発言」が消えていき、徐々に観客が喜びそうな発言を好んで行うようになっていく。

 

観客の多くは、アルファに良心をそこまでは求めない。どっちかというと、巨悪を糾弾するかのような痛快感を求める傾向がある。こうなるとアルファの周りにあつまる人たちは徐々に信者の数が増えていき、だんだんと宗教っぽい匂いが漂うようになる。

 

ここまでくると、大体の人はもう駄目だ。信者からのお布施というポジティブな反応を拒絶できるような強い心の人はそうはいない。そして定職をやめてしまうと、もっと駄目になる。だんだんと本来の良さであった「素の発言」から「信者の喜ぶ発言」を行うような存在となってしまい、結果として非常につまらない存在へと成り下がってしまう。

 

これは本当に痛感しているのだけど、人はお金の力で容易に駄目になる。「あ、おれこの活動で食べていけるかも」と思ってしまってからが特に危ない。

 

こうしてかつて輝いていたアルファは、イロモノと化し、普通の人からすれば「宗教っぽいなにか」か「かつては輝いていた」人になってしまう。

 

僕は最近、いつまでも変わらずに第一線で活躍しつづけられる人を本当に尊敬するようになった。前はそれが普通だと思っていたのだけど、自分が好きだった人たちがどんどん教祖のような存在になってしまうという現実を直視するにつれ、本当にそう思うようになった。カネの力は本当に恐ろしい。カネは人から魂を容易に抜き取り、つまらない何かにすることが非常にうまい。

 

自分自身がそういう存在にならないことを、祈るばかりである。みなさんも、もしそういう存在への階段をのぼるようになってしまったとしたら、この記事を思い出して欲しい。

 

人は駄目になるのは一瞬である。一度駄目になってしまったら、元に戻るのは非常に難しい。

 

よい人生を歩み続けることの難しさよ・・・

映画・ひるね姫が何を描きたかったのかについて考察する

神山健治監督のひるね姫を見てきた。正直言うと、映画としてはちょっと退屈かな、とは思った。まあこの人の作品から自分が受ける感想はだいたいそういうものが多いというのは事実なのだけど。

 

ただあれこれ考えていくと、結構良い仕込みがなされた映画だな、とやや考えが変わってきた。以下あの物語を通じて神山健治監督が何を描きたかったのかについて考察を加えていくこととする。

 

車:人

この物語は自動車の自動運転システムが大きく取り上げられている。

 

車は人間が運転するものだ。けど近年のテクノロジーの進歩により、徐々に自動運転についての可能性が掘り進められつつある。

 

車自体には意識はない。けどソフトウェアを導入することで、まるで自分に意識があるかのように”自動”で運転ができるようになる。本作では夢の世界においてエンシェンが何度か魔法を入れ込む事で、機械に意思が生まれる様子が描かれている。

 

さてこの物語の題名は”ひるね”姫である。その通り、主人公であるココネは劇中で何度も何度も”眠り”につく。なぜ”眠り”がここまで劇中で強調されるのだろうか?それは機械に”意識”を入れ込む事の対比として、人間に”無意識”を使わせている事の二項対立に他ならない。

 

ただの機械である車に、プログラムを入れることでまるで人のような”意思(主導権)”を持たせる事ができるという事が劇中で何度も何度も描かれているけど、じゃあ逆に意思をもつ人間からなんらかの手法を使って”意思(主導権)”を取り除くと何ができるのか?たぶん神山健治監督の今作品の着想の元はそこにある。

 

この作品は3/11の後に作られた神山健治監督の初めての作品だ。彼はインタビューで前作である009の撮影中に3/11が起きたことにより「それまで考えてきたことと、どこかで“齟齬が出た”感じがした」と語っている。そしてそれから4年たった今作が初めての新作だという事を考えると、どう考えても物語に3/11の要素が隠れていると考えるのが妥当だろう。

 

cinema.pia.co.jp

 

繰り返しになるが、彼は機械(車)にプログラムを入れることでまるで人間のような意思を持つ存在へと作り上げられるような描写を劇中で描いている。けど、どんなにプログラムを精密に組み上げても、3/11のような災害を回避することはできない(だからココネの母は無くなってしまったのだ)

 

自分が最も深く愛する”妻”を亡くしたココネの父は間違いなくこう思ったはずだ。

 

「いくら緻密なプログラムを書き上げて機械を完全にコントロールしても、理不尽な災害からは逃れる事ができない」

 

じゃあどうすれば理不尽な現実を私たちは避けることができるのか。科学者なら当然そう考えるはずだ。恐らくその時、人間にプログラムを仕込む事で、深層心理の世界に入り込ませ、神話的な世界観を作り出し、その中で現実に直接的に作用させる事ができるのではないか、という考えに至ったんじゃないかというのが僕の予想だ(現にココネの夢の世界は微妙に現実とリンクしている。そして夢の世界はモモタロウ伝説がモチーフになっている)

 

ココネは劇中でかつては父親はたくさんお話をしてくれたのに、最近は全く喋る事なくスマホでメッセージのやりとりしか行わなくなってしまったとボヤいていた。なぜだろうか?それは恐らく、父親はココネに仕組み終わったプログラムが壊れる事を恐れたからだ(現に全てが終わった後はモモタロウは普通にココネに喋るかけるようになっている)

 

この物語が機械と人の対立構造で描かれている点に着目すればその事はよくわかる。劇中でエンシェンが機械に自由意志を送り込む際には必ずといっていいほど、タブレットでメッセージを送り込んでいた。彼女の構築した呪文により、機械は自由意志を手に入れる事ができるようになった。

 

機械にはプログラム(魔法)を入れる事で自由意志を持たせる事ができるこの劇中の描写を対称的に考えれば、人間に”言葉”を入れ込むことで”無意識の世界”に干渉する事ができるのではないかという発想は極めてリアルだ。

 

この物語では社長の座を狙う渡辺一郎が悪役のように描かれているけど、当然ながら彼はただの小手先でしかなく、本当の”敵”は彼では無い。真に打ち倒すべき相手は夢の世界で現れる”鬼”である。

 

では鬼の現実社会での対比対象は何か?それはもうここまでの議論を読んだ人ならば間違いなく”災害”だという結論に至るはずだ。恐らくだけど、東京オリンピックが行われる2020年に災害が起きる”はず”だったのだ。それをココネを通じて”回避”させる事が父親であるモモタロウの狙いだったのだろう。

 

なんで影の首謀者が父親だと僕が思うのかといえば、夢の世界の終わり方が極めて不思議な形で〆られているからに他ならない。この作品、夢の世界のラストに”鬼”を打ち倒すのは父親であるモモタロウの操縦するロボットである。けどちょっと考えて欲しい。なんで彼が最後にケリをつけるのだろうか?

 

普通に考えて、本来ならばラスボスにトドメをさすのは主人公の役割に決まっている。エンシェンが魔法を唱えてロボットに意思を与えて”鬼”を打ち倒すのが筋ってものである。

 

けどそうではない。なぜか?それは神山健治監督の意図として、影の主人公はココネではなく父親であるモモタロウだからに他ならない。あの物語は徹頭徹尾、最愛の妻を失った男による”厄災”へのアンチテーゼなのである。

 

劇中の夢の世界では、”鬼”を打ち倒したモモタロウはそのあと地球を飛び出して厄災である鬼を身にまとう形で自力では脱出不可能となってしまった。古来より”厄災”を回避するためには生贄が必要だ。夢ではその対象としてモモタロウが選ばれている(だから彼は宇宙空間で鬼とともに地球に戻れなくなった。地球に戻れない≒死のモチーフである)

 

恐らくだけど、現実世界ではその生贄の対象はココネだったのだ。父親が仕込んだ言霊により無意識へ干渉を行い、現実世界での”鬼”(厄災)を払拭する事に成功した彼女だけど、なんの犠牲もなしに天災を回避できるほど世の中は甘くはない。当然のごとく命を落とす”はず”だった。それがなんで回避できたかというと、これはもう母親の霊がかのバイクに乗り移ったからに他ならないだろう。

 

最後の最後にビルの中にバイクが突っ込んできてココネの落下を阻止したけど、あれは自動運転とかそういうレベルを越えた動作である。というか本来ならば、プログラム通りにあのバイクは岡山に戻っていた”はず”なのだ。けどそうならなかったのが何でかというと、もう母親の霊以外に説明がつけられない。

 

というわけでこの映画はゴリゴリにテクノロジー推しをしながら、人間と無意識と霊についてをいい感じに書いた作品だなっていうのが僕の雑感です。世の中は”目には見えない何か”が”ある”、という事が上手く描かれてたと思います。

 

おしまい

個人的には幼少時からの英語教育に反対である。以下その理由を述べる

昨今、英語教育の必要性が声高に叫ばれているが、筆者はどちらかというと日本人はまずキチンと日本語を勉強するべきだと認識している。幼少時という人格形成に強く影響する時期に、他の言語を習得する事に労力を費やすメリットが基本的には少ないと思うのがその理由だ。

 

言語はかなり思考と強固に結びついている。例えば神という単語一つとっても、日本語と英語では随分とニュアンスが異なる。英語圏だと神はかなりの確率でThe God(日本語のニュアンスだと唯一神)を意味する事が多いけど、日本語の神からはそういう認識は非常に湧きにくい。私たちにはやっぱり八百万の神々の方が”しっくりくる”。

 

私達日本人がなんだかんだで均質的な思考回路を持つことができるのは、日本語という同一のツールを用いて思考を行っているからである。そしてこれは日本語での会話を通じてより強固にフィードバックをうけながら強化されていく。この習得過程は幼少期から始まって年とともに成熟していく。こうして出来上がった感性は、日本人としてのイデオロギーとなる。

 

イデオロギーという単語に聞きなれない人も多いかと思うので簡単に説明すると、これは人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系を表す単語だ。具体的にいえば資本主義なんかがそうである。その他にもキリスト教だとかイスラム教のような宗教なんかもイデオロギーに相当する。これらは人の行動原理に強く影響を及ぼす”考えの元”となる。

 

人と動物の違いはいくつかあるが、その中でも非常に特異的なものとしてイデオロギー単位で動くという事があげられる。キリスト教の人たちはキリスト教で固まる傾向があり、共産主義を好む人達は共産主義者たちと固まる傾向にある事を考えてもらえばなんとなくわかってもらえるかと思う。

 

私たちは日本という平和で均質的であり、かつ恵まれた土地に住んでいるから実感がわきにくいけども、世界の争いごとの根源はイデオロギーの不一致が元となっている事が大半だ。宗教戦争なんかはその代表例だし、現在も闘争が止まない中東では民族が複雑に入り乱れている事も起因して落とし所が全く読めない。

 

日本のような均質的な社会に暮らしているとそのありがたみが実感しにくいけど、日本の同質感は非常に特異的な現象である。アメリカ社会が拳銃を必要としているのも、拳銃という抑止力がないとイデオロギーの不和に耐えきれないという事が一因としてあるのは明白である。多民族国家はいろいろ大変なのである。

 

人は考えがある程度似ている人とではないと仲良くなれない。あなたの友達は、あなたとなんらかの部分で似ているからこそ友達になれたのであり、根本から思考回路が違う人と親しい友達となれる事は非常に稀だ。

 

こうして考えてみればわかるけど、日本の環境は本当にもの凄く恵まれている。その恵まれすぎている環境がどこからきているのかというと、まずは島国であり、他の大国と陸続きになっていないという事があげられるだろう。私達は壁なんて作らなくても広大な海により自然と渡航が制限されている。これにより、良くも悪くも日本人で生まれ日本で育った人間だけで社会が構成される事になる。

 

そしてもう一つ強い障壁となっているのが言語だ。はっきりいって日本語は、日本以外では全く役に立たない。わざわざ海を渡ってやってくるリスクに加えて、日本以外では全く役にたたない日本語を習得してまで日本にやってきたいという人はまあ稀だろう。それならまだグローバル言語である英語が使える米国とか欧州に行きたいというのが人情だ。

 

この2つの高い高い障壁により、日本は比較的安定した社会を享受する事に成功している。これはもう、イデオロギーの画一化という面から見ればメリット以外のなにものでもないだろう。ありがたい話である。

 

私たち人間はイデオロギー単位で動く烏合の衆である。繰り返しになるが、イデオロギーが同一ではない人たちとはあまり真の意味では仲良くなりにくいし、隣人にはとてもなれない。島国という地の利と、偶然にも特異的な宗教が国内を統一しなかった事から、日本人のイデオロギーは日本語にかなり強く規定される事になっている。こういう事情を鑑みるに、日本語習得を妨げる要因を作ることは結構日本人のイデオロギー認識の弱体化につながるんじゃないかと僕は思っている。

 

と、いうわけで長くなったが個人的には幼少時からの英語教育の必要性の有無には断固としてナシと唱えたい。英語なんて日本語がしっかりできていれば、習得はそう難しいものでもない。

 

それに日本で必要とされるのは一部のエリート層だけである。エリート層は受験勉強で揉まれている事から、英語なんて必要になれば簡単に喋れる。英語なんて殆どの日本人からすれば所詮金稼ぎの道具、ぐらいのもんで丁度いいのである。

 

少なくとも普通に日本で生きて生活する庶民が、英語なんてできる必要性は皆無である。そんな使うかどうかもわからない英語習得に労力を費やす暇があったら、普通の人は百人一首でも暗記している方が個人的にはまだマシだと思うのだが、いかがだろうか?

身体に障害を持つことになってしまった人の人生のスピード感はどういう感じなのだろうか

僕たちは自分の身体を意のままに、それなりにスムーズに操る事ができる。障害をおうまでは。

 

渋谷の大通りをあるいていると、時々杖をついてゆっくりを歩みをすすめる人をみかける事がある。昔はそういった人をみても「邪魔だなぁ」としか考えなくなったけど、最近はそういう人の人生のスピード感はどういうものなんだろうかという事に非常に興味がわいてきている。

 

世の中には仕事が凄く早い人もいれば、遅い人もいる。しかしその人自身からみれば、自分の仕事のスピードというのは自分が絶対基準なわけだから、自分の行動が早いとか遅いとかいう風に感じる事はないだろう。他人の仕事については色々思うことはあるだろうけど。

 

基本的には人は人生のスピード感は早ければ早いほどいいと思う傾向がある。仕事は早く終わらせるのが良しとされているし、生産量は高ければ高いほどよいとされている。けどそうやって人生のスピードをメチャクチャに早めたとして、一体何が手に入るのだろうか?

 

昔の知り合いで、非常に仕事ができる人がいた。ある時、彼を病魔が襲った。鬱病である。その日から彼の能力は著しく下がり、彼の人生のスピードはものすごく低下した。それをみて僕は愕然とし、優秀で自分と比較してエンジンの性能が高性能だからといって、人生が順風満帆に全てうまくいくというわけではないのだな、と。

 

障害者にもいろいろな方がいらっしゃる。運悪く交通事故に巻き込まれてしまって四肢の自由があまり効かなくなってしまったタイプの人もいるだろうし、難病に罹患して身体の自由が制限されてしまうタイプの人間もいるだろう。

 

僕は今、もの凄く充実した生活を送っている。人生のスピードも、どんどんどんどん高めていく事ができるという実感がある。スピードを上げるのはものすごく楽しい。自分でもこれがどこまでいけるのか、正直良くわからない。

 

ただ運悪く障害を持ってしまった人を見るたびに思うのだ。人生で本当に大切なのはスピードではなく、自由だと。周りと比較して遜色のないスピードで動けさえすればそれで十分なんじゃないかと。

 

けれどそれと同じくらい思うのだ。自分はまだまだ早くなれる。もっともっと早くなるべきなのではないか。

 

この矛盾した感覚がどういう風に落ち着くのかがイマイチよくわからない。そろそろ自分が走るのをやめて、人が走り抜けるのをサポートする事に自分の人生を費やすべきなのかもしれないとも思うのだけど。

 

この何ともいえないもやもや感を、みなさんどういう風に処理していらっしゃるのでしょうか?