珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

高くて旨いのは当たり前とか言っている、味のわかってない人達へ

盟友のトイアンナさんが書いた記事がめちゃくちゃバズっている。

 

toianna.hatenablog.com

 

正直この記事がなんでここまでバズってるのか僕にはよくわかっていない部分も多いのだけど(笑)ブクマをいくつか読んでみて大変残念な意見が多かったため、それに対する反論も込めてこの記事を書くこととする。

 

自称グルメのマントラ

アマチュア自称グルメの人達がよく言う決まり文句はこうだ。

 

「高くて美味いのは当たり前。こういう高い店に行って喜んでいる連中は本当は味がわかっていない」

 

一端のメシ狂いとして断言しよう。こういう事を真顔で言ってる連中は、メシの事を全くわかっていない。以下にその理由を記述する。

 

食事の値段はどういう風に決められているのか

あなたがレストランで6000円の食事をしたとする。その6000円の内約はどうなっているだろうか。それは一般的にはこうされている。

 

食事の値段=食材費+家賃+人件費

 

つまり6000円の食事では、大雑把にいえば食費が2000円、家賃が2000円、人件費が2000円となる。この比率は格安店や超高級店では当然の事ながら多少の変動はあるが、大体は3割づつが大雑把な分類になる。上記三要素について以下に簡単に説明する。

 

食材費

例えば食材費。当然というかスーパーで売ってる品物だって値段で結構味が違う。1L1000円の格安オリーブオイルと300ml2000円のエクストラヴァージンオリーブオイルの味の違いはどんな馬鹿にだってわかる。

 

この世には末端食材ではどうしても出せない味というものが存在する。どんなに下処理を丁寧にしたところで、格安オリーブオイルはエクストラヴァージンオリーブオイルにはなれない。このことをよく説明しているのが以下の図である。

 

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グラフで言うところの、MU1の場所までは値段と味がかなり比例するのだけど、MU2のレベル付近になると段々と普通の人には味の差がわかりにくくなってくる。

 

コスパ厨はこの例を用いて、MU1の時点で値段対味のリターンはある意味最大値であるとし、MU2以降は確かに旨いかもしれないが値段が高すぎるという。

 

しかしトイアンナさんのような極度の美食家はそもそも一般人ではない。並ならぬ活動により経験値が蓄積されていく為、この関数で表される所の果ての果ての世界の違いが段々とわかるようになってくるのである。

 

結果としてマジに旨いものを語れるようになってくるのだけど、当然というかこの旨さについては素人は全く理解できない。だって経験値の薄い人にはMU1とMU2以降の世界の差は非常に微細だから。

 

そもそも世界の果ての果てを見たいと思ってしまったキチガイコスパでしかものを語れないような常人を同列にならべて優劣を語ること自体がナンセンスであり、食事というエンターテインメントに取り憑かれた人について全くわかっていない事の現れだ。

 

真の美食家は、果ての果ての世界に金を惜しまない。だってそこには、奇蹟ともいえる唯一無二の世界線が広がっているのだから。

 

家賃

当たり前だけど、人は同じものを食べても食べる場所で満足度が異なる。しがない駅構内で飲むスタバの珈琲より、銀座のおしゃれなスタバで飲んだ珈琲の方が同じ値段でも満足度は高い。なぜならばそこには、雰囲気という要因が絡むからだ。

 

ただ当然というか値段が変われば満足度は変わる。街場の定食屋で食べる1000円のとんかつ定食と、銀座で食べる2000円のとんかつ定食。仮に味が同じだとすると、満足度は恐らく前者のほうが高い。「悪くないけどコスパ悪いよね。まあ所詮銀座価格か」日々様々な人に言われる言葉だ。

 

コスパ厨はこれを逆手にとって「六本木・銀座といったところで食べるメシは高い。同じ内容ならば3割は安く他の場所で食べられる」という事を主張する。しかし断言しよう。君達は何もわかっていない。

 

先のとんかつ定食。値段は2倍の違いである。この違いは家賃に依存する。ゆえに六本木・銀座は必然的に値段が上がる傾向にあり、どうしようもなくコスパは悪くなる。しかしこの価格差をさらに広げていくと、ある段階から逆転現象がおきるのである。

 

例えば近くにホームレスが住む居住区があったとする。そこの家賃は銀座の10分の1だ。そこで超高級フレンチを開いたとする。値段は銀座の3割引きぐらいでやれるだろう。その店が流行るだろうか。多分全然流行しない。しがない末端居住区で食べる2万5000円の高級フレンチは、3万円の銀座フレンチよりも一般的には満足度が低いのである。

 

真に美食を極めると、このように絶対価格では計算出来ないような論理へと世界が進行していく。トンカツ定食にコスパは存在するが、雰囲気を含めた超高級フレンチのような美食の世界は、ある段階からコスパを超越するのである。

 

人件費

「二万のメシが三千円のメシの7倍美味いかっていったら、そんな事無いよ」

 

またしてもコスパ厨のマントラである。

 

まあ基本的には僕もそれに同意する。でもね、君達に訪ねたい。本物の二万のメシがどういう風に作られているか知っているのかい?

 

いわゆるフレンチの超高級レストランといわれている所では、調理スタッフは軽く10人を超える。デザート担当、前菜担当、肉・魚担当。そして洗い物担当。

 

当然というか席数に比べて調理スタッフの数が増えれば増えるほど、人件費は上がる。結果として食事代は上がる。これは純然たる事実である。

 

「ほらね言っただろう?だからこういう店は食材に値段をその分かけられないんだから、コスパが悪いんだよ」こうコスパ厨はいうだろう。再三になるが断言しよう。君は何もわかっていない。

 

これは音楽で言うところの、ソリストとオーケストラの違いのようなものなのだ。どんな時代にだって名手はいる。ホロヴィッツグレン・グールド、アンネ・ゾフィー・ムター。天才の独演はいつだって僕達を感動させる。

 

だけどそういったソロ活動とは別に、オーケストラのような複数人で構成される楽団もまた僕達を恍惚の世界へと誘う。ベルリン・フィルニューヨーク・フィルハーモニック。圧倒的な統率力を持つ指揮者により産み出される、これらの天才集団が創りだす世界観は、天才の独演とは違った素晴らしさがある。

 

天才の独演と天才集団が創りだす協奏曲。お金の面だけでいえば前者のほうがそりゃ安いだろう。だって人件費は1人分なんだから。では後者の世界はコスパが悪いのかっていったら、そんな事ないでしょ。後者はお金はかかるかもだけど、別次元の感動を私達に与えてくれる。

 

ソリストの名作とオーケストラの名作をお金という面でしか評価できないからコスパなんて考えに頭を惑わされる。出来上がるものは作品という同一の形をとるけど、その構成内容は全然別のモノなのである。その事を忘れないでいたい。

 

結論

こんな記事を書いといてなんだが、僕は基本的にはコスパ厨だ。

 

普通の人よりも美食の果ての果てを少しは理解しているつもりだが、10万出して食べる至高の食材で作られた銀座のオーケストラが作った究極の料理より、3000円のそこそこの食材で作られた近場の行きつけの店で作られた料理をこよなく愛している。

 

結局、僕がいいたいのはこういう事だ。

 

世の自称美食家のみなさん。あなたは食事について、ここまで考えたことがありますか?こういう理論を無視して、自分の舌の下す評価に自信満々になるのって恥ずかしく無いですか?

 

我々は気を抜けば感性や雰囲気の奴隷である。そういうクオリアでしか物事を分析できないブタは、ただのブタなのだ。