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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

「毒親育ちや激務上がり等の抑圧された環境にいた人」にハイスペが多い理由について

日々徒然

僕は一時期、禅や仏教のいうところの「悟る」という事について強い憧れを抱いていた。

 

いったい悟りを開くということは何なのか、開くとどうなってしまうのか、そもそも悟りってなんなんだ。同じような疑問を持っている人は結構いると思う。

 

今では個人的な様々な経験と知見により、悟りがどういう事なのかわかっている。

 

実は現実社会ではみんなが知らないだけで悟り一歩手前に近いような事をやっている人は結構いる。端的に言い切ってしまうと、あれは苦しみという肉体的負荷を利用したある種の脳の認知の捻れを体得し、そして超える事なのである。

 

古くから人は苦しみを抱えてきてきた。人は生きているだけで苦しいという事を言ったのは仏陀で、彼はそれを四苦(生・老・病・死)と、これに社会生活を営む上で逃れられない四つの苦しみ加えて八苦と現した。

 

驚くことに、人の苦しみの原因はなんと紀元前に既にもれなく無駄なくMECEされてしまっているのである。ちなみに時々、四苦八苦するなんていう言い回しが使われるが、これがその語源である。

 

このような生命を受けた人としての苦しみから逃れたいというのが仏教をはじめとする宗教の根源的な願いであり、それを得るためのプロセスとして開発されたのが苦行である。

 

苦行はその特徴として、名前の通り修行と称して肉体的精神的な苦しみを受けることであり、現代で言えばひたすら正座してお経を読んだり、滝に打たれたりなんかがそれにあたる。

 

今は人権なんかが横行しており壮絶な修行は減ってしまったが、昔は本当に理解を超える苦行が繁栄していた。

 

現代に残った苦行の最高峰として有名なのが比叡山天台宗の千日回峰行だ。その修業内容は何週間も飲まず食わずで寝る時間も無しにひたすら立ちっぱなしで床に横になってはいけないだとか、何年もの間一日60キロにもおよぶ山登りを続けなくてはいけなかったりだとか、とても普通の人のやれるもんじゃないレベルの修行である(ちなみに修行を途中で中断するとなると自決しなくてはいけないというおまけ付きだ)

 

昔から今に至るまで、ガチの苦行は命がけなのだ。さて誰もが疑問に思うと思うのだけど、なんでここまで苦しい事をするのだろうか?

 

実は苦行はやってみればわかるけど、それを通して現実的な心の苦しみから面白いぐらい逃れられる。ランニングなんかをやったことがある人はわかると思うけど、苦しいながらも何キロか走ると徐々に様々な考えが心に浮かんできては消えたりする。

 

そしてこれをひたすら続け、何キロもの距離を走るうちに段々と意識が先鋭化していき、そのうち意識は右足と左足を交互に運ぶ事だけを考えるようになる。

 

これをさらに何キロも何キロも続けていくと、今度は「肉体としての自分」はただ足を前に出すだけの事を認識している一個の存在になりさがり、何も考えられない無の境地のような状態になっていく。

 

これを続けていき、このまま意識が集中して意思が消えてしまうと思うようなレベルでの深い集中状態に落ちると、今度は苦しみを受けている体とは別の意識が心のどこかかから立ち上がってくる。

 

この別の意識は不思議なことに、今現在感じている肉体としての苦しみについてではなく、日常生活の何気ない事だったり、昔あったよかった事、懐かしい思い出などで占められている。

 

この境地に至ると、肉体として走っている自分とその行為を通して苦しみを受けている心の中の自分は実は同じ肉体にありつつも、別々のものであるという認識が段々と出てくる。

 

この境地にある程度慣れ親しんでくると、不思議な事にどんな酷い事を考えようが日常生活での不安だとかから一時的に開放される。

 

体というものを酷使し肉体に苦しみを与えることで、現実世界では直視できないような耐えようもなかった精神的な苦しみから一時的に逃れることができる事を心の底から体得するのである。

 

これをさらに詳しく自分で認知しなおしていくと、人は心と体が段々と別のものであるという事を脳の底から認識できるようになる。

 

この認識を通して「体としての自分」と「心としての自分」は実は同じ体に共存しつつ別の次元にも存在しているという事実を深く理解できるようになる。

 

これが苦行を通じて四苦八苦から逃れられる仕組みであり、よく新興宗教だとかがいうところの「修行を通じて苦しみから逃れる」ということは、実は現実から目を背けることと同義なのである。

 

右の手の痛みから逃れたければ左の腕を切り落せばいい。そうすれば右手の痛みなど何処かへいってしまう、とでも言えばいいだろうか。

 

精神・肉体的な苦痛を感じている自分と、体としての自分が異なる存在であるという事を理解できると、いい意味でも悪い意味でも苦しみから逃れることができる。これが苦行を通じて得られるものなのである。

 

僕がこのような苦行の仕組みを理解した時すごく驚いたのは、これが虐待児や上司に劇詰めされている部下、風俗嬢だとかがやってる事と全く同じものだっていう事だった。

 

虐待を受けている子供は、ある段階から「叱られたり傷つけられている」ときに、全く別の事を考えるようになる。叱られている自分を相対的に見ることにより、「ここで叱られている自分」は別の自分であるという認識を持つ(昔に流行した多重人格ものの走りである)。

 

劇詰めを受けている部下は、劇詰めを受けている最中に「あー昨日のワールドカップ日本戦は最高だったなー。とくにあの場面でのフォワードの動きは・・・」みたいなことを考えていたりする。

 

風俗嬢なんかも客の性器を舐めている最中、「今日の献立は何にしようかなー」と考えていたり、体をいじられているときは声はアンアン出しつつ、「今週のワンピースは面白かったなー。続きどうなるんだろう」なんていう事を考えているのである。

 

なんでこんな事をするのかって?まともに現実に対処していたらそのあまりの壮絶さに心が持たないからだ。誰が好き好んで親とか上司とか好きでもない男の人に、体と精神を弄ばれたいのだろう。そんな現実を直面して正気でいられる人間なんていない。

 

実はこういった行為は非常に危険性をはらんでいる。アダルトチルドレンなんかをみればわかりやすいのだけど、このような行動が段々と自分に対する現実認識能力が低減する事につながるのである。

 

この状態が続くと、だんだんと息をしながら空想世界にどっぷりつかるようなことになり、結果うまく現実にコミットできなくなっていく。実はブッダ以前の苦行ではそういった事が結構横行しており、現実という苦しみから逃れる方法は「現実にうまくコミットしない事」に近い認識があった。

 

紀元前のブッダ以前の頃は、こういった「肉体としての自分」と「精神世界としての自分」を相対化できるレベルを更に先にすすめて、今度は肉体的苦痛無しに現実世界よりも精神世界ののユートピアへと意識をシフトできる事をを悟りと言っていた。

 

簡単にいえばブッダ以前の悟りとは、現実への認識から脳内が作りだす幻想社会へ生きる時間へのシフトを増やす事だったのである。

 

この事ができるようになると、現実世界に生きながら夢の世界に意識をもっていけるようになり、段々と現実と夢の世界の区別がつかなくなっていき、最後は現実に帰ってこれる時間のほうが少なくなる。

 

あの頃の悟った人とは、完全に逝ってしまった人と同義なのである。少し前の事なんだけどこういう人を僕は見たことがある。インドの安宿の事なんだけど、そこでヘロインをしている人をみた時その人の顔は本当にすがすがしかった。

 

人がすべてから解放されたときの顔というのはこんなに開放感あふれたトロリとしたものなのか、と僕は驚愕したのである。それと同時に、「この人はもう二度とこの世界へ戻ってこないのだろうな」という事を感じ取った。

 

何で昔の人が悟りを解脱といっていたかというと、苦行を通じて現実社会とは別の次元に意識を持っていくことに成功した人は一切の苦しみから逃れる事に成功した反動で、今度は現実社会から旅立ってしまい、まるでアル中や麻薬中毒やボケ老人のように、二度と意識をこちらの世界に戻すことがなかったのである。

 

それをみて昔の人は「この方は現世から解脱して涅槃の世界へ飛び立った」と言っていたのであるが、正直これは精神が崩壊してしまったか完全に認知症になってしまった人と同義であり、よくも悪くも自意識の自殺の世界だったのである。

 

ブッダが凄いのはここからで、なんと彼は自意識を殺した現実世界から飛びだった後にまだ自分の意思でこの世に戻ってきたのである。

 

これは本当に当時としては画期的な事で、このイノベーションによりブッダ以降の仏教や禅の真理と言われているレベルでの悟りとは「現実世界から天国へ旅立つこと」ではなく、「この世から旅だった後に再度この世に舞い戻る事を選択した事」となった。

 

これが悟りの本質であり、ようはブッダ以降の悟りを得た人とは、この世の一切の苦を逃れられる選択肢を持ったにもかかわらず、あえて現世に舞い戻る事を選択した人なのである。

 

これは当時としては本当に凄い事であった。あなたが仮に失うものがなく、今後快楽だけの天国しか無い世界へのチケットを手にしたとして、システム上苦しみがあるこの世への帰り道を示唆されたとしたら、この世に舞い戻る事ができるだろうか。僕は、たぶんできない。

 

当時の人々が仏陀の声に耳を傾けたのは、誰もが行きたくても行けないう涅槃の世界から舞い戻ってくるという選択をした、超越者が目の前にいたからであり、当然のごとくその言葉一つ一つが各人の胸を穿つような魂から絞り出された言葉だったのである。そんな人が目の前にいたら誰だって頭を下げる。少くとも僕は下げる。

 

さて表題に戻ろう。毒親育ち等の抑圧された環境にいた人の99%は現実認識能力を失っている。辛くて辛くて仕方がない現実から、空想の世界へと生きる素晴らしさを体得してしまった人は、基本的にはもう二度とこの世にキチンとコミットできなくなる。

 

だってこの世には四苦八苦しかないのだ。自分が創りだした二度と傷つかない夢の世界へと旅立てる切符をもった人に「きちんと現実に向き合え」なんていっても、全然言葉は心に届かないだろう。少くとも99%の人はそうだ。

 

そして空想世界へと生きることを選択しつつある人へと向き合ってくれう人は、よくも悪くも、体やカネ目当てのヤリチンや詐欺師であり、またこういった人を通して現実へのつながりを捨てきれないメンヘラ・アダルトチルドレンが騙され裏切られ、再びこの世に絶望するのである。

 

メンヘラはこれを繰り返し繰り返し、どんどんと現実社会から離れていき、だんだんキチンとコミットできなくなっていく人が本当に多い。こういった人には普通の言葉は届かない。だって、救ってくれるかもしれない人の言葉は全部嘘なんだから。

 

しかし本当に少なく本当に時々なんだけど、その自意識でしか成立していない精神世界からキチンと現世へとおりられる人がいる。これは本当に凄いことで、紀元前のレベルでいえばブッダと同じレベルの事をやっている人なのである。

 

こういった人は、もちろん全員が全員聖人君子ではない。一旦現世におりられたとはいえ、何らかのあやうい均衡上にいる人も多い。だけどこういう人は、様々な事に深く傷つき人の世の醜さを誰よりも知っている人でありつつ現世へと舞い戻る事を選択できた強靭な精神力の持ち主であり、本当にすごい人が多い。

 

あの世(精神世界)という天国から、この世(肉体世界)という地獄へと降りる事を選択できた人なのである。並大抵の精神ではないのだ。

 

僕は思う。毒親とか、アダルトチルドレンだとか、上司に激詰めを行われ精神を病みかけた人とか、風俗嬢をやっていた人とか、いじめを耐えぬいた後に現実世界で活躍されている人は、本当に凄いなぁと。

 

この方々は、生を受けた時から昔で言うところの苦行だとか千日回峰行と同レベルの修行を幼い精神の頃から行い、そして耐え抜いてきた人なんだな、と。

 

そしてそういう人が活躍できる余裕がある今の世界の素晴らしさに喜びを思い、自分のような苦労をしていない人間がその恩恵を受けられる社会の素晴らしさを感じ、人類の歴史が一歩一歩成長している事に感謝するのである。

 

彼彼女らは現代の仏陀でありジャンヌ・ダルクなのである。我々はその神々しさにただただ頭を垂れるばかりである。