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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

意識の高い人と本当に凄い人の差は業績があるかないかだけ

世間には意識が高い人がいる。この意識が高い人達、口では色々いい、凄い事をやりたそうな素振りをしているにも関わらず、実際問題彼らがすごい人になる事は非常に稀である。

 

今日は意識が高い人と、本当に凄い人の違いについて書いていこうと思う。

 

人の凄さは実績でのみ記される

自分が特別だという意識は、人ならある程度は持っているものだと思う。僕も中学生の時、意味もなく自分は世界で最も凄い人間だという不思議な自信に満ち溢れていた頃があった。

 

そのうち成長ホルモンが脳みそから抜け出すにつれて、僕の不思議な自尊心も雲散霧消したのだけど、まあ似たような謎に自信に満ち溢れる経験をした人は結構多いんじゃないだろうか。

 

意識が高い人達が世間一般から嫌われがちなのは、こういう僕が持っていた中学生時代の「俺は凄い」妄想を、いい年こいた大人にもなって振りまくからだ。そういう遅れてきた自尊心の芽生えに世間は冷たい。何故か?それは世間一般の人が、その人が優れた人であるかどうかを実績を元に判断するからだ。

 

例えば学歴。東大京大を卒業したということは、それまでの努力に対する1つの形である。もちろん、その後も人生は続くわけで、いつまでたっても学歴を自慢するのは痛い行為だけど、少なくとも20代前半までは自分の頑張りならびに有能さに対する強烈な証明となりうるものではある。

 

このように、人の社会で評価されるためには地位なり業績なりを上げなくてはいけない。資格をとって医者とか弁護士になる方法もあれば、本を上梓したり巨万の富を築いたりといった方法もある。こういう行為を成し遂げるのは、当然だけどかなり頑張らなくてはいけない。

 

じゃあ今度は意識の高さをみてみる事にしよう。学歴、資格、実績。これらを作り上げるのに意識の高さは全く必要がない(あってもいいけど。けどあったからといって何の約にも立たない)人が結果を出すのに必要なのは、実践する事だけである。繰り返しになるが、意識の高さなど全く必要がない。

 

こうして書いてみれば当たり前すぎるこの事実だが、不思議な事にこの単純な事実に意識が高い人が気がつくことは稀だ。彼らは偉い人の成功奇譚を読んで何者かになった気分に浸るのとか、ちょっと行動力が高い人になると直接アポをとりつけてアレコレ聞き出したりといった事はするくせに、こと何かするという事になるとビックリするほど何もできない。

 

これは恐らくだけど、彼らの脳内では既に自分がすごい人である事が確定事項であるが故に、それを裏付けるための行動を取る気が全く起きないからなのだろう。自分が特別である事が初めに確定しているから、今から泥臭い努力をする気なんてサラサラ起きないのだ。愚かである。

 

僕自信もこの歳になって、凄い業績をあげた人が周りに何人かいるのだけど、そういう人に話を聞くと、意識が高い人に共通する”俺は凄い”といった選民意識からキャリアがスタートしていた事は非常に稀だ。

 

結果として凄くなってしまった多くの人達の生き様を分析してみると、様々な事情から必死に頑張り続けざるをえない環境に長い間おり、その結果いつの間にか能力が身についていたという事例が非常に多い。そしてその身についた能力で実績なり創作物なりを上梓し、ある日突然スターのような存在になってしまった事例が大部分をしめる。

 

どこかに敷かれたレールの上を歩くのはもう嫌だといって大学を辞めた人がいたが、彼なんか典型的な意識が高すぎる人の実例だろう。本当はレールは、無能な人にこそ優しいものだという事を彼は全く理解していない。

 

その辺にいる高校生が、死ぬほど努力して東大に合格すれば東大生になれる。そして東大をキチンと卒業する事で、一流企業に務めることができる。彼が在学中にキチンと勉強したという仮定においてだが、東大卒業時の彼と、受験開始前の高校生の頃の彼の能力は比べ物にならないぐらいの開きがあるだろう。

 

大学教育も、しっかり取り組めば随分と色んな技能を身につける事ができる。何もしない人間は、何も技能を持たないが故に何もできないが、しっかり勉強をすればちゃんと知識が身につく。レールにちゃんと乗るだけで、家で寝ているよりも遥かに利便性の高い技能がみにつくのである。その技能を使えば、驚くほど多くの事ができるという事実に人はちゃんと向き合うべきである。

 

ときどき勉強なんて役に立たないという人がいるが、それはその人が学問を身に着けてないか、もしくは身につけた学問を応用して活用できないという事をわめているにすぎない。医学や法律といった実学は比較的容易に仕事に直結させやすいが、それ例外の技術もキチンと人類の英知は宿っている。馬鹿とハサミは使いようというが、

 

まあなにはともあれ、凄くなりたいなら何でもいいから実績を作れって事ですよ。あなたが本当に凄いのなら、それはちゃんと評価されるし、その評価によって逆説的にあなたが才能ある凄い人である事が裏付けられるから。

 

今現在、実績を何も作れないような人は、とりあえず黙ってレールにのって一個でも多くの技能を身に着けるのが吉ですよって話ですわ。レールって、ちゃんと乗ってれば成長するもんですよ。まあ楽ではないけどね。

トランプ大統領は民主党と同じ流れを辿って敗退するんじゃないだろうか

ドナルド・トランプが大統戦に勝利した。選挙前はヒラリーが僅差で勝つという噂で持ちきりだったが、蓋を開けてみればトランプ圧勝で僕を含めて世間の人々は驚愕したと思う。

 

知っている人も多いかもしれないけど、米国の大統領は、勝利後に演説を行う。オバマ大統領の感動的な演説を覚えている人も多いはずだ。小説家の第一作目にその作者の書きたいことがほぼ全て内包されているのと同様、大統領演説には大統領になった人のやりたいことが大体書いてある。

 

以下簡単にそれを読み解きつつ、トランプ大統領がどういう為政を行うかを予測してみよう。

 

www.buzzfeed.com

 

オバマとトランプの意味するアメリカ国民の違い

オバマ大統領は大統領演説でこう述べた。ちょっと長いけど引用する。

 

民主党員も共和党員も、黒人も白人も、ヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、ゲイもストレートも、障害者も障害のない人たちも。アメリカ人はみんなして、答えを出しました。アメリカは今夜、世界中にメッセージを発したのです。私たちはただ単に個人がバラバラに集まっている国だったこともなければ、単なる赤い州青い州の寄せ集めだったこともないと。私たちは今も、そしてこれから先もずっと、すべての州が一致団結したアメリカ合衆国(United States of America)なのです。」

 

これと比較すると、トランプ氏の定義するアメリカ国民は凄く狭い。彼の想定しているアメリカ国民を一言で言い表すと、トランプ氏1の友人知人といった彼にとって都合のいい人である(都合の悪い人≒非国民)

 

彼の大統領演説は、その文面のほぼ全てが自分を支援してくれた人への感謝で構成されている。オバマ大統領の定義するアメリカ人が、異なる個性を持つ人々の和解と一致団結を目的としているのと比べると、非常に対称的だ。真逆と言ってもよい。

 

あの演説を聞いてどう思うかは人それぞれだと思うけど、僕は「自分の傘下に加わる人には無限の恩恵を、そうでない人には排除を」という思想が凄くすけて見えるように感じた。もちろん人は自分と仲の良い人には優しくなりがちだけど、それを政治の世界に持ち込むと物凄くマズイ(過剰な縁・コネはいつだって不祥の温床だ)

 

アメリカはかつての日本の過ちを繰り返すのだろうか?

トランプ氏の勝利演説からは、政策的な事は公共事業を増やしてアメリカ人の仕事を増やすという事しか述べられてない。はっきり言ってそれ以外の政治家としてのビジョンは全く書かれていない。

 

もともとトランプ氏の政策は、メキシコの間に壁を作るだとか、違法性のある移民を強制送還するだとか、いわゆる彼の想像する「良きアメリカ人」への優遇を意図しているものが多い。

 

選挙の結果をみればわかるけど、今回トランプ氏に投票した人は都心部のエスタブリッシュ層以外の人間だ。彼らはなんでトランプ氏に投票したのだろうか?それはトランプ氏の述べる政策が、今の高学歴ハイスペック優遇社会であるアメリカ社会の生きにくさを多少なりとも緩和してくれるのではないだろうかという思惑があるからだろう。

 

公共事業の良い点は、高学歴ハイスペックではない庶民にもお金がそこそこ落ちるようにできる事だ。オバマ政権、そしてヒラリーとエスタブリッシュメントにより牛耳られている今のエリートしかお金持ちになれないアメリカという国の構造の中で生きている人からすれば、トランプの自民党型バラマキ政策は物凄く夢がある。

 

問題は言うまでもなく、その財源がどこにあるかである。アメリカは2016年現在、世界第三位の人口大国である。日本の約3倍もの人数である3兆人近くの人に、トランプ氏は分け隔てなく恩恵を与える事はできるのだろうか?

 

バラマキの資金はおそらく捻出不能

トランプ氏の選挙活動中の発言を聞くと、日米安保を解消するだとか、アメリカの貿易を徹底的に保護化するだとかいった発言が目立つ。たぶんだけど、トランプ氏は一見アメリカにとって無駄にみえるこういう分野への資金投入をカットすることで、余分な資金を国内に投入できるという考えが根底にあるんじゃないだろうか(そして今回の選挙で彼に投票した支持者達も、その資金が外ではなく自分達に向かって流れる事を期待していたものだと思われる)

 

ただ実際問題、政治・外交・貿易の問題は非常に複雑だ。ある面では一見無駄にみえるこれらの活動も、止める事ができないからこそ今まで続いているのである。トランプ氏がこれらの問題を公約通りに廃止できるかというと、できないだろう。

 

繰り返しになるが、トランプ氏はこれらの活動を廃止する事で、浮いた分の余剰な資金を公共事業に投資する事を恐らく想定していると思う。だけど上に書いた理由通り、恐らくそんな事はできない。できないのだから、当たり前だけど余剰な資金などアメリカ政府にはうまれない。余剰な資金がないのだから、当然と言うかバラマキはできない。

 

これってどこかで聞いたことないだろうか?そう民主党が政権を取り、埋蔵金があるはずだと意気込んで第一党を勝ち取った時のあの光景だ。我々日本人なら誰でも知っているけど、結局埋蔵金なんてどこにもなく、政治活動に不慣れだった民主党は日本という国をメチャクチャに破壊し尽くして、結局数年後に自民党が第一党に返り咲いた。

 

たぶん今後トランプ氏は上に書いたようなストーリーを辿り、結局バラマキ資金を捻出できずに支持率が急落する。彼に期待した人は、結局彼が今までの社会的構図を破壊できない事に深く失望するだろう。

 

トランプ氏はこの時点で非常に苦悩する。もともとポピュリズム的な発言で支持率を上げてった彼にとって、大衆からの失望は非常に辛いことだろう。そして彼はきっと手を付けてはいけない蜜壷へと手を出す。そう、ウォール街シリコンバレーといった、アメリカに金の卵を産むエスタブリッシュの巣窟だ。

 

ドイツが借金で首が回らなくなった時、ユダヤ人から金品を巻き上げてファシズムに突っ込んでいった事は誰もが覚えている歴史上の事実だ。そうして右に傾きまくったドイツが、どんな事をしでかしたかはユダヤの人達は絶対に忘れない。

 

皮肉なことに、アメリカの金の卵を産むエスタブリッシュの巣窟にはナチスから逃れてやってきたユダヤ人がたくさんいる。ウォール街シリコンバレーに手を出すということは、上記理由から政治的にも非常にマズイ。そんな事は誰でもわかっている。

 

今回の選挙でもウォール街シリコンバレーの人達はトランプ氏に非常に冷淡だったけど、それは彼ら自身が自分たちがトランプ氏の想定する”良きアメリカ人”の枠に入っていないだろう事が心の底からわかっているからだろう(死んだベトナム人だけがいいベトナム人だという言葉がかつてベトナム戦争時代にあったが、これに照らし合わせると税金を払うハイスペックだけがいいハイスペックだ、になる)

 

こうしてアメリカ国内は”知的エスタブリッシュメント層”と”良きアメリカ人層”の中で真っ二つに世論が割れ、取り返しのつかない事になるんじゃないかな、というのが僕の予想だ。

 

ひょっとしたら上手く手打ちがなされるかもしれないし、真っ二つに割れる前にトランプ氏が暗殺されるかもしれない。未来はどうなるかはわからない。けど1つ言い切れる事がある。埋蔵金なんてどこにもない。それは私達日本人が、民主党に政権を任せて学んだ、絶対的に正しい1つの真理である。

マクドナルドと銀座・久兵衛の奇妙な関係

日々徒然

僕は三度の飯よりメシが好きだ。そしてその中でも鮨をかなり偏愛している。

 

魚の切り身を酢飯に乗せただけの単純なこの料理・・・こんな単純な料理に、人はなぜ惹きつけられるのだろうか?鮨には日本人の魂を揺さぶる何かがある。

 

現在は空前の鮨ブームだ。一年先まで予約で一杯だとか、常連じゃないと予約が取れないという鮨屋がバンバン出てきている。そしてブームの効果もあってか、外食産業の中でも値上げが特に著しく、また野心あふれる若手の寿司職人の独立が後を絶たない。

 

かつては鮨を一人前に握れるまでに10年の修行が必要だといわれていた。だが現在ではそこまで綿密な修行を行う人は稀だ。最近の若手寿司職人は書物やインターネットでの情報に加え、横の繋がりを強化する事で短期間で比較的容易に技術を高め、かなり若い段階で独立して店をかまえている(鮨は他の料理と比較して必要とされる作業工程が少ないので、比較的独立が容易だというのもある)

 

若手の独立を加速させた最大の要員は、2003年頃に中野坂上で生まれた鮨さわ田が発端だとされている。銀座青木で半年程度の修行期間を経た後に、佐川急便で激烈に働き開店資金をためた後、当時30代だったさわ田の主人は、築地でお金に糸目をつけずに最高級のネタを買いあさり、そのネタを銀座と比べて非常に安い価格で提供し続ける事で一気にスターダムへとのし上がる事に成功した。

 

このさわ田の成功を発端として、上野毛のあら輝(現在はロンドンで客単価5万円の鮨屋を営業中)や、神泉の小笹、蒲田の初音、最近だと川口の猪股といった、地代が安い場所で鮨屋を開業し、その分の金額をネタに投入するという作戦が流行ることとなった。

 

様々な手法で身につけたハイレベルな技術を、築地でお金に糸目をつけずに買った高品質な魚と組み合わせて提供する。これが今現在の寿司職人の最短成功ルートとなっている(皮肉にもこの成功法則が鮨屋の絶対価格をどんどん押し上げる事にもなっている)


なぜこのようなネタだけの若手の寿司屋は評価されるのだろうか?それはこれらの作り出す鮨が、大企業病におかされていないからである。

 

鮨における修行の功績

ほんの少し前だが、鮨スクールに通うべきか、老舗で10年修行を積むべきかという命題が議題にあがった。

 

さて鮨屋で10年の成功を積んだ人達が果たして現在成功しているかというと、少々難しいと言わざるをえないのが現状だ。

 

鮨の大企業というと、やはり久兵衛は外すことができない。ホテルなど多数の支店を構え、高級外食産業としてはかなり珍しく大企業化に成功した久兵衛だが、そこで働いた人達の鮨は端的にいって非常につまらないものの事が多いというのが現状だ。

 

久兵衛の系譜を踏襲する店の何が面白くないかって、正直な事をいえばどこで何を食べても全部似たような味がしてしまうという事が最大の問題だと僕は思う。


あえて具体名は出さないけども、Q系の職人の作る鮨はネタの程度の差はあれど、出される料理に驚きが非常に少ない。簡単にいうと、どれもこれも、どこかで食べたことがある味なのだ。

 

これって何かを思い出さないだろうか?そう、マクドナルドである。

 

高度に洗練化されたメシは、洗練されているが故につまらない

はじめに言っておくと、筆者はマクドナルドがかなり好きである。パサパサのパンズ、無味乾燥なパテ肉、わけのわからないケチャップ。

 

これらのどれ1つとして、単体で食べたら美味しくない料理だという事は否定しようがない事実である。だがしかし、これがハンバーガーとして組み合わさると、なんか結構いけるのだ。少なくとも100円でクソみたいな原材料から、整合性ある料理が生み出されているという事実には脅威としかいいようがない。

 

マック以外にも様々なチェーン店がハンバーガーを作り出したが、どれ1つとして完成度という点でいえばマックの足元にも及ばない。ロッテリアモスバーガーと数々のハンバーガーチェーンが一時期黎明期を争ったが、組み合わせの妙という点ではマックの圧勝だろう。

 

こうして圧倒的にかったマックだが、残念な事に一度勝ち上がって民衆がマクドナルドに慣れてくると、今度は逆にマクドナルドに飽きてくるようになってしまう。いつでもどこでも、大企業的画一的手法で作られるあのハンバーガーは、どこで食べても同じ味なのである。

 

それは全国チェーン展開という目的においては物凄く強いメリットだったけど、一度完成されて「飽きる」というパラメーターが確立された後は物凄くでかいデメリットとなる。細部に至るまで組み上げられたマクドナルドのハンバーガーという完成品は、その完成度故に自由度が著しく低いのだ。

 

そしてこれはそのまま久兵衛にも当てはまる。久兵衛の鮨は物凄く完成度が高い。その完成された手法からは、いつどこで食べても、フレッシュな江戸前の鮨が味わえるための最適な手法が確立されている。

 

これは久兵衛ブランドを確立し、人々の間に認知を高めるという攻めの段階においてはメリットしかなかったが、一度ブランドが確立された後に「飽きる」というパラメーターが確立された後は物凄くでかいデメリットとなる。細部に至るまで組み上げられた久兵衛の鮨という完成品は、その完成度故に自由度が著しく低いのだ。

 

もうわかっただろう。マクドナルドと久兵衛。これらは2つとも、攻めの時は最強の矛だったが、それと同時に最弱の大企業病という負の側面も抱える諸刃の剣であったのだ。イノベーションのジレンマならぬ、マクドナルドと久兵衛のジレンマである(これらに飽きる人が出てくるからこそ、サードウェーブ系の高級ハンバーガーや若手寿司職人の店が評価されるようになるのだ)

 

今後、マクドナルドと久兵衛は博物館のような懐古的存在に落ちぶれるだろうが、それもまた歴史の流れ上、仕方のないことなのだろう。


そしてまた、新たなマクドナルドと久兵衛が生まれ出ることだろう。その身に降りかかる、滅びという宿命を宿して

ティム・クックを1人生み出すために数万人のエリートを殺す社会

日々徒然

若い電通の社員が過労によりこの世を去った。実に痛ましい事件である。

 

グローバルエリートの超・長時間労働問題は正直なところ難しい。たとえばハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場ではハーバード・ビジネス・スクール卒という世界でも最高峰のウルトラハイスペック達が、高収入を得るために卒後、コンサルや投資系銀行に進み、辛い現実に直面しているという事が指摘されている。

 

ハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場

ハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場

 

 

今回の事件は東大卒の電通というこれまたウルトラエリート街道を突っ走っていった人間の死という問題により注目をあびるようになった。

 

だけどぶっちゃけ、この手の話題は上にも書かれたように海外では既にある程度仕方がないものとして受け入れられつつあるのが現状である。エリートの過労問題は、必要悪のうちの1つなのだ。今日はそのことを書こうと思う。

 

ハイパーエリートの行き着く先

ある程度ネット歴の長い人ならティム・クック(アップルCEO)やマリッサ・メイヤー(ヤフーCEO)の一日みたいのを見たことがあるはずだ。大体内容は共通していて、以下のような形態を示している。

 

5:00 起床。

5:15 社員にメールを送信

5:30~6:30 ジムで運動。その後朝食。

7:00~22:00  仕事

22:30  就寝

 

これを360日ぐらい続ける(残りの5日は強制的に取らされる休暇)これがグローバル企業のトップに立つものの責務である。

 

はっきり言って、こんな生き方は鉄のような身体に加えて、鋼のような強靭な意思をもっていないとできない。そして普通の競争社会では、彼らのような人間は出て来る事はありえない(狩猟・農耕民族の中に、ティム・クックレベルで働く人間が果たしているだろうか?)

 

グローバルエリートの世界は蠱毒のような世界だ。1つの会社の中に、ハイスペを何百人も入れてメチャクチャに競争させて、最後に残った1人がティム・クックのような自然状態ではとても生まれないようなハイパーエリートとなって生き残る。

 

なんでこんな事がいつまでたっても終わらないのか?それはハイパーエリートが社会に必要とされているからである。彼らのような存在なしには、アップルやヤフーといった企業は統制され得ないのである。

 

エリートにより守られる社畜

グローバル企業で生き抜くのに必要な能力は、普通の人間のキャパシティを遥かに超えている。何千年前かにアフリカで生まれたホモ・サピエンスの始祖の遺伝子プログラムには、こんな過酷な競争社会は想定されてなかっただろう。

 

人の社会は競争社会である。弱肉強食の世界に生きる私たちは、強ければ生き、弱ければ死ぬ。

 

人類は群れをなす生き物である。TOPが優秀なら群れは素晴らしい動きを取り、TOPが無能なら群れは無残にも殺される。

 

経済という、これ以上ないほど結果が残酷に出される競争社会において、僕達に必要なのは優秀なTOPである。この優秀なTOPは、どんな超長時間労働でも耐え抜く強靭な肉体と、どんなパワハラモラハラが加えられようが心が動じない強靭な精神が必要とされる(そういう人がTOPでないと、他のグローバル企業に食い殺されてしまう)

 

冒頭で上げたハーバード・ビジネス・スクール 不幸な人間の製造工場にも沢山出てくるけども、エリートの超過労・超パワハラ社会で生き残れなかった人達は、TOPを生み出すために作られた蠱毒のような生存環境の犠牲者だ。

 

当然と言うか、この仕組みはおかしい。おかしいんだけど、誰もそれを解体できないのは、このTOPに集団全員が命を守られているからに他ならない。

 

今回の電通事件も、被害者が出たのは悲しい事だけど、だからといって電通のTOPをphaさんに変えて”ゆるく生きよう”みたいな風に社訓を改革しても、誰も幸せにはならないだろう。多分だけど、電通が勤務体制を変えてもホワイト企業は生まれず、後に残るのは博報堂に負けてボロボロに打ち捨てられた資本主義の敗者だけだ。

 

結局、エリートに依存しないと生きていけない私達にも問題はあるのである。だからこそ、この問題は難しい。やれやれ、本当にどうすればいいんだろうね。

”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば人生は驚くほど楽になる

最近読んだ本の1つで格闘家の青木さんの「空気を読んではいけない」が結構面白かった。今日までセール中で600円ぐらいと半額なので、興味ある人は読んでみるといいと思う。

 

 

空気を読んではいけない (幻冬舎単行本)
 

 

この本は青木さんの人生論であるわけだが、個人の生存競争の方法論としてもなかなか勉強になる事が多いので、今日は閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)における生存戦略を絡めて筆をとることにする。

 

閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)

世間には様々な尺度がある。家族ならば構成員は多くても5人前後だけど、これが学校のクラスになれば30人程度、医者などの職能集団ともなれば、数万~数十万もの人により、”世間”が構成される。

 

所属する”世間”によって、そこにおけるルールは当然異なる。家庭ならば基本的には親が最も責任ある立場をつとめるし、会社ならば役職によって身分が異なる。これらは基本的には覆さえる事のない、ルールに沿った制度によって運営される集団だ。

 

一方、これがクラスとか競技スポーツになると話は変わる。クラスならば、基本的には評価尺度は顔や面白さといったものが評価の尺度になるし、競技スポーツば実力がものをいう世界である。

 

これらの世界は、その閉じられた体系の中で自然と作られたルールによって上下関係が決定される。学校社会なら、太ったオドオドした人間は基本的にはカースト下層を押し付けられがちで、これを覆す手段は基本的にはほとんどない(多少のカーストの上下はあるかもしれないけど、大きく変わることはほとんどない。これだから学校のいじめ問題の解決方法は、基本的にはいじめられっ子をその空間から出して上げる以外に方法がない)

 

繰り返すが、学校のような社会は閉じた世界である。カースト上位はずっと安穏としながらカースト上位であり続けたい。だから外からのルールの輸入を激しく嫌う。何故ならば、それを認めてしまうとカーストをひっくり返される可能性があるからだ。

 

「空気を読んではいけない」の中で、青木さんは教師にとことん歯向かう姿勢を出した結果、クラスから疎外にも近い扱いをうけているけども、これは当然といえば当然の話しだ。だって先生を頂点とするクラスという”世間”のルールに歯向かっているのだから。

 

青木さんの例に限らず、能力がある人は結構幼少期にイジメられる事が多い。鼻息が荒くて生意気だったり、頭が良すぎて自分よりも頭の悪い教師に従うのが嫌だったり。まあ色々原因はあるのだけど。

 

こうなると”世間”はルールに従わないものを”疎外”という形で最下層カーストに押しやるしかやることがなくなる(ルールを守らない人間は、”存在しないもの”としないと、カースト制度が成立しないのだ)

 

ここでまずハイスペは”疎外”される事に結構傷つく。ただ傷ついたら傷ついたで、今度は自分一人で生きていかざるをえなくなるので、次に何らかの活動に1人で没頭するようになる事が多い。

 

それでしばらくすると

 

「みんなに無理に合わせないでも、全然生きてけるじゃん」

 

という現実を肌感覚で理解する。こうなると後は早いもので、だいたいその活動を評価してもらえる集団を見つけ出して、今度はそこで精を出すことになる(当然と言うか全員がうまくいくわけではなく、多くのハイスペはそこで高い壁に直面して鼻をへし折られるのだけど)

 

これを僕は、閉じた世界から、開かれた世界へと活動の場を移すという風に表現している。あなたがもし、集団内で下されたカーストに満足できず、そこで埋没したくなかったら、文字通り”空気なんて読んではいけない”。そこを脱却して、自分が正当に評価される所に活動場所を移せるよう、努力しないといけない。

 

まあ人間、無理して集団になじまずとも1人で何とかなるもんである。こうして”スキル単独行動”を体得した人間は、閉じた世界で周りのみんなに合わせて行動するといった肩身の狭い生き方から脱却できる。

 

孤独も、そう考えれば悪いものではない。

 

開かれた世界での生存戦略

ただ、開かれた世界にたどり着けたからといって安心はできない。いくら開かれた世界とはいえ、そこにはある程度のルールがある(そしてルールがあるからこそ、それを逆手に取ることで勝利をいくらでも手にすることができる)

 

”空気を読んではいけない”の中で青木さんは、「柔道界では背負投や体落としといった技が評価される傾向があった。体格にそこまで恵まれていなかった自分は、そういう王道の技で勝利は手にしにくかったため、様々な他種目の格闘技から技を盗み、それを使って勝利をもぎ取っていった」といった趣旨のことを書かれている。当然と言うか、このスタンスは王道派からは邪道とされ、柔道界ではかなり嫌われたという。

 

当たり前だけど、どんな世界であれ、ある程度の伝統ができてくると、”皆が好む正しい風習”がなんとなく出来上がってくる。そしてそれに適応する個人が、より好まれるようになっていく。こういうときに、外からの技術を輸入して、”ルールに違反しない形”で”技術を応用”できるようになると、アウトライヤーは一気に勝ち抜くことができる。

 

例えば生物学。かつては分類学や形態観察といった手法が頂点とされていたこの業界だけど、遺伝子解析といった技術を、物理や数学といった手法で行うようになってから、かつて評価れていた人達の権威は地に落ちた。ワトソンとクリックの例をあげるまでもないだろう。

 

例えばヒト。かつて地球上には我々ホモ・サピエンス以外にも多くの種がいた。その多くは我々と比較して、体格的に恵まれており、動物という種の中ではホモ・サピエンスは最弱とはいわないまでも、弱小クラスタだったのは事実だろう(私たちは象にもライオンにも、下手すれば犬にすら勝てない)

 

なんでそんな弱かったホモ・サピエンスが、この地球を埋め尽くしているのだろうか?その秘密の1つとして、投擲具の開発が重要だったというのが、現在の人類史の通説だ。

 

原始の投擲具は、2つに折った布の間に尖った木の棒を載せて投げるという、今の私達からすれば単純この上ないこの装置だったそうだけど、これがホモ・サピエンスが他の主を圧倒しはじめたキッカケだと言われている(この装置は慣れると50mぐらい先の標的を射殺す事ができるという)

 

私たちは筋力では他の種と全く勝負にもならないが、投擲具という”たった1つのアウトライヤー”にとって、この世界の頂点に上り詰める事となった。これも動物界からみれば邪道以外の何者でもないだろう。だけど結果として、勝ち残ったのは人類だ(そしてこの投擲具は、弓矢、銃、大砲、原爆と、どんどん姿かたちを変えて発展していっている。人の歴史は、技術でも頭の良さでもなんでもなく、投擲具による暴力による格付けでしかないのだ)

 

雑種がサラブレットを追い抜く日

とまあこのように、この開かれたグローバル社会では、”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば、他人を圧倒的に出し抜くことができる。その結果人生が、驚くほど楽になる。

 

好きで生きるという言葉があるけども、それを既存のルールに乗っかった形で実現しようとすると、それはもう天賦の才能を持った人にしかできない狭き道しか残されていない。

 

それゆえにサラブレットではない我々雑種は、”好き”で生き抜くために、”孤独な努力”と”他分野からの勉強”を怠ってはいけないのである。逆にいえばそれさえできれば、結構人生、なんとかなるもんだ。

 

なお空気を読んではいけないは、それ以外にも勉強になるエピソードが沢山ある。ぜひとも骨の髄までしゃぶり尽くしてほしい。

続・「君の名は。」を様々な角度から考察する

日々徒然

見終わった勢いで書いた「君の名は。」の考察が予想以上に読まれたみたいで、結構驚いた。まあみんな同じこと思ってたんだなぁという事がわかり、著者としても納得した。

 

沢山読んでくれたお礼というか、あの記事の中に書かなかった事が幾つかあるので興味がある人向けにそれらを追記していくことにする。なお当たり前というか当然の如くここから先は「君の名は。」のネタバレ満載なので、未視聴の人は是非とも週末にでも期待して見に行ってくれ。面白いよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君の名は。」はシンメトリカルに作られている事を意識すると、更に深く読み解ける。

上に公式ビジュアルガイドの広告を置いたのは、アフィで儲けるためではなく「君の名は。」が全体にわたってシンメトリカルに描かれている事が意図されている事を伝えたいからだ(ポスターにも使われたこの絵をみればわかるけど、右と左で絵が対称的に作られている)

 

この物語は瀧くんサイドと三葉サイドで、物凄く対称性を意識してストーリーを展開している。ざっと思いついた所でいえば

 

1. 瀧くんの家庭も三葉の家庭も母親がいない、父子家庭である。

2. 行動する時はだいたい3人一組(瀧くん+男子2人、三葉+土建屋+放送部or祖母+三葉+妹、など。この3という数字は、お互いの間で離れていた3年間と関連しているのかもしれないけど、これは深読みのし過ぎかもしれない)

3. 瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった時点で、両者が両者とも涙を流すシーンがでてくる(これは重大な意味が隠されているかもしれないので、後でまた追記する)

4. 両方の主人公ともに自分に好意を抱いてくれているモブキャラがいる(瀧くん→先輩、三葉→土建屋の息子)

5. そしてそのどちらも、主人公とは異なる人と結婚する

 

とまあ数え上げればキリがないぐらい、対称性が意識されている。だからどことどこが対応しているのかや、ストーリー上で対称性のほころびが見える部分に着目すると、この物語のおかしい部分が見え始めてくる。これについては後でまた書くことにする。

 

隕石が衝突するあの日、なぜ瀧くん演ずる三葉は聖地に向かったのか

かなり練りこんで作られたこの物語で、まず誰がどうみてもおかしいとはじめに気がつく箇所が、隕石が衝突するあの日、瀧くん演ずる三葉が「父親の説得に失敗」した後に、「あそこに三葉がいる。会いに行かなくちゃ」と、口噛み酒が置かれている聖地へ向かうシーンだ。

 

「あと数時間で隕石が糸森町に衝突するというのに、なにをこいつは悠長な事を言ってるんだ。おまけに聖地まではかなりの距離がある。そんなところに行って戻ってくるような時間の余裕なんてどう考えてもないだろ」普通はこう考える。僕もこの辺で凄い違和感を感じた。

 

それに冷静に考えると、あの聖地に「三葉がいる」と考えつくのはどう考えてもおかしい。確かに瀧くんは三葉の口噛み酒を飲んでこちら側の世界にループしてきているわけだから、それに対応する三葉が瀧くんの体に乗り移って聖地にいると考えれるのは全くおかしい事ではないかもしれないけど、その後の物語展開をみると、瀧くんは自宅で彗星を見上げており、ちょっとやっぱりシンメトリーがここで崩れている。

 

じゃあ何故瀧くんは聖地に向かったのか。僕は前回の考察で、この物語は二回ループする事を想定しているという話をしたけど、元々想定されていた物語はたぶん以下の様な流れだったのだ、と考える。

 

1.土建屋の息子の爆弾爆発による陽動失敗

2.放送部の女の子がつまみ出される

3.瀧くん演ずる三葉が父親を説得するのに失敗

4.隕石が街に衝突(三葉は死なないまでも、致命傷を体に受ける)

 

こう考えると瀧くんが聖地に向かう理由が凄くしっくりくる。

 

三葉の祖母が説明していたが、口噛み酒が置かれた場所は「あの世」である。じゃあ、あのくぼみを作っているあの山は、この世とあの世の境目と考えるのが妥当な解釈だろう。

 

なんで瀧くん演ずる三葉は、聖地に「あそこに三葉がいる」と言ったのか。それは本来あったはずの物語では、隕石衝突後に瀧くん演ずる三葉は瀕死の重傷を負って、限りなく魂が「あの世」に近づくのだ。そういう存在になったとしたら、聖地≒あの世とこの世の境目に「三葉がいる」と感じるのはごく普通の認識となる。

 

聖地で瀧くんと三葉は、どうしてあのような形で出会いそして別れたのか

この映画で最も美しい場面である、夕暮れ時に聖地で瀧くんと三葉が出会うシーン。このシーンの出会い方もなかなか示唆的だ。

 

お互いがお互い、声だけが聞こえる状況の中、両者の距離が限りなく近くなった瞬間、お互いの姿が浮かび上がる。実に綺麗なシーンで、さすがは新海誠先生が作った映画だけはある。

 

けどこのシーンですごく不思議なのが、なんでお互いの姿が途中まで見えなかったのかである。演出の1つだといわれればそれまでだけど、かなり丁寧に作られたこの映画なのだから、僕はここに何らかの意味があるに違いないと考えていたのだけど、これはきっと「死者≒三葉」の存在に、ループ中の瀧くんが限りなく死者に近づいたからこそ、ああして出会うことができたのではないか、と考えると非常に納得ができた。

 

そして出会った2人だけど、その後瀧くんはなぜ三葉の前から消えてしまったのだろうか?これはループ中の瀧くんはあくまでも生者であり、ループ中に死んだからといって、所詮本当に死ぬわけではなく、本来の世界線≒生者へと魂が戻った≒生者の世界に戻ったと考えると、凄く納得がいく。

 

あとは前の考察にも書いたとおり、妹の口噛み酒を使って再度ループに突入し、全員の力を合わせて糸森町を彗星の危機から救いだした、と考えるのが僕は妥当な展開だと思う。

 

最後がハッピーエンドに終わったのは、対称性のもつれの暗示なのかもしれない

僕は前の考察では

 

”本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか”

 

と考えた。なんでそう思ったのかというと、そうじゃないと瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった事の暗示で”涙を流すシーン”を用いた理由がイマイチはっきりわからなかったからだ(終盤で、涙を使って永遠の別れを言葉少なく暗示するんじゃいかと想定していた)(あと四葉の口噛み酒を酒を使ったペナルティとして、やっぱり離別がしっくり来るんじゃないかなと考えたのもある)

 

実は上のシンメトリーの項目にはあえて書かなかったのだけど、この物語は初めに強力な対称性がかけられている。それが”愛しあう男女の死別の定め”である。

 

三葉の母は死んでおり、瀧くんの母親も(書かれてないけど)たぶん死んでいる。そして何より、糸森町を襲った大災害により、”三葉”が”瀧くん”と死別している。

 

この物語の最大のシンメトリーは、愛しあう男女の死別なのである。

 

それがこの物語では街が災害から救われてからちょっと流れがおかしい。まず土建屋の息子と放送部が結婚しているし、先輩も結婚している。どうも”大災害から逃れることができた世界線”では、愛しあう男女は死別の苦しみから逃れられるようになったといわんばかりの展開である。

 

そう考えると、実はこの物語がハッピーエンドで終わっているのは、ひょっとして”対称性のくずれ”という新しい世界の始まりの暗喩なんじゃないかという気もしないでもなくなってきた。そう考えると、あのラストも割と納得がいく。まあ新海誠が、そういう”お約束からの開放”という手法を物語に取り入れられるようになったのは喜ぶべきことなのかもしれない。

 

とまあこれで僕の「君の名は。」の考察はひとまずおしまいだ。これから小説版とアフターでも読んで、この物語との長い付き合いも終わりにしようと思う。

 

長々と二記事も読んで頂き、ありがとうございました。

 

takasuka-toki.hatenablog.com

 

新海誠が本当に書きたかった「君の名は」は本来はこういうストーリーだったんじゃないかという考察

今更だが「君の名は」をみてきた。初めのうちはシンカイマコトという単語にアレルギー反応を示していたので絶対に見るものかと思っていたのだけど、あまりにも評判がいいので期待値50%ぐらいでみにいったらメチャクチャ面白かった。これはシンゴジラと比較してもわかりやすくヒットしやすい映画だと思う。まだみてない人は是非とも映画館にいってみるべきだ。

 

だがこの作品、見終わってからずっともやもやしていた事がある。たぶんみんなも同じ思いをあるシーンで感じていたんじゃないかという風に考えている。そしてそれを考えれば考える程、ひょっとして新海誠はこの作品を本当に作りたかった形で作れなかったのかもしれないという思いが段々とでてきた。以下ものすごいネタバレ含む考察なので、繰り返しになるけどまだ映画をみていない人は絶対に絶対に映画館にいってから読んで欲しい。たぶんこれを読んでから映画を見ちゃうと面白さが半減するだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題のシーンは主人公である瀧くんが三葉の口噛み酒を飲んで、彗星が落下する災害から糸森町の住民を救出しようするシーンだ。瀧くんは三葉の体を借り、仲間の力も合わせて何とか住民を彗星による災害から救おうと奮闘するものの、どうにもこうにも上手く行かずに失敗してしまう。土建屋の息子は父親に犯行がばれ、放送部の女の子は放送室からつまみ出され、瀧くんの演じる三葉は父親を説得できない。

 

結局3人の努力はむなしく糸森町の人達は全く安全地帯に避難する事はかなわず、再度、彗星の被害にあってしまう。少なくとも劇中ではそういう風に描かれている。だけど、次のシーンでは一転して「町長の類まれなる統率力で何とか住民は全員助かりました」と出てくる。

 

この映画は全体的に物凄く丁寧に作りこまれているのに、このシーンは物凄く違和感がある。当然というか、もっとスッキリとした形でも映画は作れたはずなのに。なのに新海誠はこの映画でこのシーンを使用する事を採択した。それならばこのシーンにも当然必然性があるはずだ?なんだろう?僕は実は本当だったらこの後、もう一回ループがあったのではないかと予想している。

 

基本的に、映画監督は絶対に無駄なシーンは劇中に入れない。ただでさえ上映時間が決められているのに、無駄なシーンをいれる意味など全く無いからだ。そういう視点でこの映画を見返してみると、物凄く無駄な要素がたくさんある。まず父親が町長である事が全くいかされていない。そして親子の間にあった確執が、全く解消される事なしに有耶無耶なまま終わっている。

 

そして最も無駄に終わっている最たるものが、妹の存在ならびに妹の口噛み酒だ。まずこの物語は、あのストーリー展開ならば妹がいてもいなくても全く話はかわらない。また口噛み酒が一回しか使われないでいいのならば、妹が巫女衣装をまとって口噛み酒を作るシーンを描く必然性も全く無い。それなのにこの物語ではそれが描かれている。何故か?僕が思うに、これらは本当は使われるはずだったのだ。

 

「君の名前は」の劇中で三葉は「宮水の血は、今日この日の災害から街を救うために、この不思議な能力をゆうしていたのかもしれない」というような事をいうシーンがある。となるとだ。母親も、宮水の血を引いていたのならば、その不思議な能力を、街を救うために使ったという算段があったのではないかという事が推察される。

 

恐らくだけど、三葉の母親と父親も、三葉と瀧くんと同じように不思議な力を通じて出会ったのだ。そして三葉の母は、数年後にこの街に彗星が落ちることを不思議な力を通じて予見しており、そのことをパートナーである父に伝える。そしてその代償に母親は死んでしまい、父親は母親の残った意思だけを引き継ぎ、町長という街全体を指揮する立場を決死の努力により上りつめる(災害の日に、町の人を事故から避難させる為にだ)。

 

だけど残念な事に、瀧と三葉が不思議な力を通じて得た知識がしばらくすると曖昧になったのと同様、三葉の父もかつてあったはずの”三葉の母”を通じて得た町長になるという本来の動機を忘れ、結果残された”街を率いる存在になる”という思いだけが残る事になった。それ故に生まれてしまったのが、あの家族の不和なのである。

 

さて一回目のループで大失敗した瀧くんは、またあの宮水の聖地に巻き戻る事となる。このままではどうやら糸森町は救えないらしい。熟考に熟考を重ねたうえで、瀧くんは”この難題を解決するのに三葉の力が必要”だという回答にたどり着く。そのためにはどうすればいいか。そう、妹の口噛み酒を飲み、妹に乗り移ればいいのだ。

 

そうしてもう一回、あの大災害の日に舞い戻った瀧くんは、三葉に”君でなければ父親を説得できない”事を告げる。そして瀧くんは前回と同じく、土建屋の息子と放送部の女の子を動員し、糸森町の人々が避難できるように手はずを整える。

 

そして三葉は父親と対峙する。初めは娘のいうことを全く聞かない父親だったが、娘からの突然の告白により、忘れていた母との思い出を思い出す。その流れは多分こんな感じだ。

 

父「頭がおかしいんじゃないか?病院にいけ」

 

三葉「・・・あのね、お父さん。私、好きな人がいるんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「瀧くんっていうの。東京の高校生。私達、不思議な事に、時々体が入れ替わったりしていたの。初めは夢かなって思ってたんだけど、だんだんそれが現実だっていう事に気がついた。それでね、まあ色々あって好きになったんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「ひょっとして、お父さんとお母さんもこういう風にして出会ったんじゃないかなって最近、思うようになったの。ねえ違う?」

 

父親「(衝撃を受けた顔、そして忘れていた母との思い出を懐かしみ、涙目になる)」

 

三葉「私ね、宮水のこの不思議な力って、今日この日の災害から逃れる為にあったんじゃないかって思うんだ。お父さんが本当は好きでもない政治の世界に身を置くようになったのも、お母さんとの間で”今日この日におきる大災害から街のみんなを避難させられるようになる”、そういう事ができるようになろうっていう、やり取りがあったんじゃないかなって今では思っている。

 

父「・・・」

 

三葉「だからお父さん、私の話を信じて!」

 

父親「・・・三葉・・・いままで苦労をかけてすまなかった(そして絶大なる統率力を発揮し、町の人全員を避難所に逃れさせる為に尽力する)」

 

とまあ多分二回目のループはこんな感じで行われるはずなのだ。これならば、

 

1、宮水の家族全員に役割の必然性ができる。妹の口噛み酒が存在する理由もわかる

2、父親との確執が解消されるというカタルシスができあがる

3、この流れならば、彗星からの大災害を乗り越えた後のマスコミの報道と、内容がほぼ一致する

 

とまあ以上三点で、物凄く物語に整合性ができる。どうだい、すっごいスッキリしないだろうか?

 

とまあこういう形で何とか危機を脱した瀧くんと三葉だけど、たぶん本来のエンディングはもう少し物哀しいものだったんじゃないかな、と僕は推測している。

 

この物語はいわゆるループものの構図をしている。主人公である瀧くんが、この世ならざる宮水の聖地の中で、三葉の半身である口噛み酒を飲むことで、本来ならありえないはずの”過去”に到達し、未来を変える。

 

当然というか、いい方向に未来を変えたんだから、それなりの代償が必要だというのが物語のルールだ。たぶんだけど「君の名は」の本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか(本来の新海誠の作風から考えると、こういうエンディングのほうが物凄くしっくりくる)

 

だけど今回、この作品は最後は最大のハッピーエンドで終わる。たぶんだけど、はじめにこのエンディングをみた配給元が、この物哀しいエンディングにNGを出したのだ。「それじゃあ観客は満足しねえよ。ハッピーエンドに作り変えないと、配信は認めない」と。

 

結局、今回の大チャンスと作りたいものを作るという思いの間の中で苦悩した新海誠は、苦渋の決断の上で「君の名は」をハッピーエンドに作り変える。だけどこのままやられっぱなしは癪なので、良識ある視聴者にむけて残したのが、あの彗星による大災害事件の不自然さなんじゃないかと僕は思うのだ。

 

まあこれは僕の考察でしか無いのだけど、たぶんそんなに間違っていないんじゃないかな、と思っている。一度この映画を見た人も、そうしう視点でこの映画を見なおしてみると、より面白いものの見方ができるかもしれないね。