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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

続・「君の名は。」を様々な角度から考察する

日々徒然

見終わった勢いで書いた「君の名は。」の考察が予想以上に読まれたみたいで、結構驚いた。まあみんな同じこと思ってたんだなぁという事がわかり、著者としても納得した。

 

沢山読んでくれたお礼というか、あの記事の中に書かなかった事が幾つかあるので興味がある人向けにそれらを追記していくことにする。なお当たり前というか当然の如くここから先は「君の名は。」のネタバレ満載なので、未視聴の人は是非とも週末にでも期待して見に行ってくれ。面白いよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君の名は。」はシンメトリカルに作られている事を意識すると、更に深く読み解ける。

上に公式ビジュアルガイドの広告を置いたのは、アフィで儲けるためではなく「君の名は。」が全体にわたってシンメトリカルに描かれている事が意図されている事を伝えたいからだ(ポスターにも使われたこの絵をみればわかるけど、右と左で絵が対称的に作られている)

 

この物語は瀧くんサイドと三葉サイドで、物凄く対称性を意識してストーリーを展開している。ざっと思いついた所でいえば

 

1. 瀧くんの家庭も三葉の家庭も母親がいない、父子家庭である。

2. 行動する時はだいたい3人一組(瀧くん+男子2人、三葉+土建屋+放送部or祖母+三葉+妹、など。この3という数字は、お互いの間で離れていた3年間と関連しているのかもしれないけど、これは深読みのし過ぎかもしれない)

3. 瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった時点で、両者が両者とも涙を流すシーンがでてくる(これは重大な意味が隠されているかもしれないので、後でまた追記する)

4. 両方の主人公ともに自分に好意を抱いてくれているモブキャラがいる(瀧くん→先輩、三葉→土建屋の息子)

5. そしてそのどちらも、主人公とは異なる人と結婚する

 

とまあ数え上げればキリがないぐらい、対称性が意識されている。だからどことどこが対応しているのかや、ストーリー上で対称性のほころびが見える部分に着目すると、この物語のおかしい部分が見え始めてくる。これについては後でまた書くことにする。

 

隕石が衝突するあの日、なぜ瀧くん演ずる三葉は聖地に向かったのか

かなり練りこんで作られたこの物語で、まず誰がどうみてもおかしいとはじめに気がつく箇所が、隕石が衝突するあの日、瀧くん演ずる三葉が「父親の説得に失敗」した後に、「あそこに三葉がいる。会いに行かなくちゃ」と、口噛み酒が置かれている聖地へ向かうシーンだ。

 

「あと数時間で隕石が糸森町に衝突するというのに、なにをこいつは悠長な事を言ってるんだ。おまけに聖地まではかなりの距離がある。そんなところに行って戻ってくるような時間の余裕なんてどう考えてもないだろ」普通はこう考える。僕もこの辺で凄い違和感を感じた。

 

それに冷静に考えると、あの聖地に「三葉がいる」と考えつくのはどう考えてもおかしい。確かに瀧くんは三葉の口噛み酒を飲んでこちら側の世界にループしてきているわけだから、それに対応する三葉が瀧くんの体に乗り移って聖地にいると考えれるのは全くおかしい事ではないかもしれないけど、その後の物語展開をみると、瀧くんは自宅で彗星を見上げており、ちょっとやっぱりシンメトリーがここで崩れている。

 

じゃあ何故瀧くんは聖地に向かったのか。僕は前回の考察で、この物語は二回ループする事を想定しているという話をしたけど、元々想定されていた物語はたぶん以下の様な流れだったのだ、と考える。

 

1.土建屋の息子の爆弾爆発による陽動失敗

2.放送部の女の子がつまみ出される

3.瀧くん演ずる三葉が父親を説得するのに失敗

4.隕石が街に衝突(三葉は死なないまでも、致命傷を体に受ける)

 

こう考えると瀧くんが聖地に向かう理由が凄くしっくりくる。

 

三葉の祖母が説明していたが、口噛み酒が置かれた場所は「あの世」である。じゃあ、あのくぼみを作っているあの山は、この世とあの世の境目と考えるのが妥当な解釈だろう。

 

なんで瀧くん演ずる三葉は、聖地に「あそこに三葉がいる」と言ったのか。それは本来あったはずの物語では、隕石衝突後に瀧くん演ずる三葉は瀕死の重傷を負って、限りなく魂が「あの世」に近づくのだ。そういう存在になったとしたら、聖地≒あの世とこの世の境目に「三葉がいる」と感じるのはごく普通の認識となる。

 

聖地で瀧くんと三葉は、どうしてあのような形で出会いそして別れたのか

この映画で最も美しい場面である、夕暮れ時に聖地で瀧くんと三葉が出会うシーン。このシーンの出会い方もなかなか示唆的だ。

 

お互いがお互い、声だけが聞こえる状況の中、両者の距離が限りなく近くなった瞬間、お互いの姿が浮かび上がる。実に綺麗なシーンで、さすがは新海誠先生が作った映画だけはある。

 

けどこのシーンですごく不思議なのが、なんでお互いの姿が途中まで見えなかったのかである。演出の1つだといわれればそれまでだけど、かなり丁寧に作られたこの映画なのだから、僕はここに何らかの意味があるに違いないと考えていたのだけど、これはきっと「死者≒三葉」の存在に、ループ中の瀧くんが限りなく死者に近づいたからこそ、ああして出会うことができたのではないか、と考えると非常に納得ができた。

 

そして出会った2人だけど、その後瀧くんはなぜ三葉の前から消えてしまったのだろうか?これはループ中の瀧くんはあくまでも生者であり、ループ中に死んだからといって、所詮本当に死ぬわけではなく、本来の世界線≒生者へと魂が戻った≒生者の世界に戻ったと考えると、凄く納得がいく。

 

あとは前の考察にも書いたとおり、妹の口噛み酒を使って再度ループに突入し、全員の力を合わせて糸森町を彗星の危機から救いだした、と考えるのが僕は妥当な展開だと思う。

 

最後がハッピーエンドに終わったのは、対称性のもつれの暗示なのかもしれない

僕は前の考察では

 

”本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか”

 

と考えた。なんでそう思ったのかというと、そうじゃないと瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった事の暗示で”涙を流すシーン”を用いた理由がイマイチはっきりわからなかったからだ(終盤で、涙を使って永遠の別れを言葉少なく暗示するんじゃいかと想定していた)(あと四葉の口噛み酒を酒を使ったペナルティとして、やっぱり離別がしっくり来るんじゃないかなと考えたのもある)

 

実は上のシンメトリーの項目にはあえて書かなかったのだけど、この物語は初めに強力な対称性がかけられている。それが”愛しあう男女の死別の定め”である。

 

三葉の母は死んでおり、瀧くんの母親も(書かれてないけど)たぶん死んでいる。そして何より、糸森町を襲った大災害により、”三葉”が”瀧くん”と死別している。

 

この物語の最大のシンメトリーは、愛しあう男女の死別なのである。

 

それがこの物語では街が災害から救われてからちょっと流れがおかしい。まず土建屋の息子と放送部が結婚しているし、先輩も結婚している。どうも”大災害から逃れることができた世界線”では、愛しあう男女は死別の苦しみから逃れられるようになったといわんばかりの展開である。

 

そう考えると、実はこの物語がハッピーエンドで終わっているのは、ひょっとして”対称性のくずれ”という新しい世界の始まりの暗喩なんじゃないかという気もしないでもなくなってきた。そう考えると、あのラストも割と納得がいく。まあ新海誠が、そういう”お約束からの開放”という手法を物語に取り入れられるようになったのは喜ぶべきことなのかもしれない。

 

とまあこれで僕の「君の名は。」の考察はひとまずおしまいだ。これから小説版とアフターでも読んで、この物語との長い付き合いも終わりにしようと思う。

 

長々と二記事も読んで頂き、ありがとうございました。

 

takasuka-toki.hatenablog.com

 

新海誠が本当に書きたかった「君の名は」は本来はこういうストーリーだったんじゃないかという考察

今更だが「君の名は」をみてきた。初めのうちはシンカイマコトという単語にアレルギー反応を示していたので絶対に見るものかと思っていたのだけど、あまりにも評判がいいので期待値50%ぐらいでみにいったらメチャクチャ面白かった。これはシンゴジラと比較してもわかりやすくヒットしやすい映画だと思う。まだみてない人は是非とも映画館にいってみるべきだ。

 

だがこの作品、見終わってからずっともやもやしていた事がある。たぶんみんなも同じ思いをあるシーンで感じていたんじゃないかという風に考えている。そしてそれを考えれば考える程、ひょっとして新海誠はこの作品を本当に作りたかった形で作れなかったのかもしれないという思いが段々とでてきた。以下ものすごいネタバレ含む考察なので、繰り返しになるけどまだ映画をみていない人は絶対に絶対に映画館にいってから読んで欲しい。たぶんこれを読んでから映画を見ちゃうと面白さが半減するだろうから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

問題のシーンは主人公である瀧くんが三葉の口噛み酒を飲んで、彗星が落下する災害から糸森町の住民を救出しようするシーンだ。瀧くんは三葉の体を借り、仲間の力も合わせて何とか住民を彗星による災害から救おうと奮闘するものの、どうにもこうにも上手く行かずに失敗してしまう。土建屋の息子は父親に犯行がばれ、放送部の女の子は放送室からつまみ出され、瀧くんの演じる三葉は父親を説得できない。

 

結局3人の努力はむなしく糸森町の人達は全く安全地帯に避難する事はかなわず、再度、彗星の被害にあってしまう。少なくとも劇中ではそういう風に描かれている。だけど、次のシーンでは一転して「町長の類まれなる統率力で何とか住民は全員助かりました」と出てくる。

 

この映画は全体的に物凄く丁寧に作りこまれているのに、このシーンは物凄く違和感がある。当然というか、もっとスッキリとした形でも映画は作れたはずなのに。なのに新海誠はこの映画でこのシーンを使用する事を採択した。それならばこのシーンにも当然必然性があるはずだ?なんだろう?僕は実は本当だったらこの後、もう一回ループがあったのではないかと予想している。

 

基本的に、映画監督は絶対に無駄なシーンは劇中に入れない。ただでさえ上映時間が決められているのに、無駄なシーンをいれる意味など全く無いからだ。そういう視点でこの映画を見返してみると、物凄く無駄な要素がたくさんある。まず父親が町長である事が全くいかされていない。そして親子の間にあった確執が、全く解消される事なしに有耶無耶なまま終わっている。

 

そして最も無駄に終わっている最たるものが、妹の存在ならびに妹の口噛み酒だ。まずこの物語は、あのストーリー展開ならば妹がいてもいなくても全く話はかわらない。また口噛み酒が一回しか使われないでいいのならば、妹が巫女衣装をまとって口噛み酒を作るシーンを描く必然性も全く無い。それなのにこの物語ではそれが描かれている。何故か?僕が思うに、これらは本当は使われるはずだったのだ。

 

「君の名前は」の劇中で三葉は「宮水の血は、今日この日の災害から街を救うために、この不思議な能力をゆうしていたのかもしれない」というような事をいうシーンがある。となるとだ。母親も、宮水の血を引いていたのならば、その不思議な能力を、街を救うために使ったという算段があったのではないかという事が推察される。

 

恐らくだけど、三葉の母親と父親も、三葉と瀧くんと同じように不思議な力を通じて出会ったのだ。そして三葉の母は、数年後にこの街に彗星が落ちることを不思議な力を通じて予見しており、そのことをパートナーである父に伝える。そしてその代償に母親は死んでしまい、父親は母親の残った意思だけを引き継ぎ、町長という街全体を指揮する立場を決死の努力により上りつめる(災害の日に、町の人を事故から避難させる為にだ)。

 

だけど残念な事に、瀧と三葉が不思議な力を通じて得た知識がしばらくすると曖昧になったのと同様、三葉の父もかつてあったはずの”三葉の母”を通じて得た町長になるという本来の動機を忘れ、結果残された”街を率いる存在になる”という思いだけが残る事になった。それ故に生まれてしまったのが、あの家族の不和なのである。

 

さて一回目のループで大失敗した瀧くんは、またあの宮水の聖地に巻き戻る事となる。このままではどうやら糸森町は救えないらしい。熟考に熟考を重ねたうえで、瀧くんは”この難題を解決するのに三葉の力が必要”だという回答にたどり着く。そのためにはどうすればいいか。そう、妹の口噛み酒を飲み、妹に乗り移ればいいのだ。

 

そうしてもう一回、あの大災害の日に舞い戻った瀧くんは、三葉に”君でなければ父親を説得できない”事を告げる。そして瀧くんは前回と同じく、土建屋の息子と放送部の女の子を動員し、糸森町の人々が避難できるように手はずを整える。

 

そして三葉は父親と対峙する。初めは娘のいうことを全く聞かない父親だったが、娘からの突然の告白により、忘れていた母との思い出を思い出す。その流れは多分こんな感じだ。

 

父「頭がおかしいんじゃないか?病院にいけ」

 

三葉「・・・あのね、お父さん。私、好きな人がいるんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「瀧くんっていうの。東京の高校生。私達、不思議な事に、時々体が入れ替わったりしていたの。初めは夢かなって思ってたんだけど、だんだんそれが現実だっていう事に気がついた。それでね、まあ色々あって好きになったんだ」

 

父「・・・」

 

三葉「ひょっとして、お父さんとお母さんもこういう風にして出会ったんじゃないかなって最近、思うようになったの。ねえ違う?」

 

父親「(衝撃を受けた顔、そして忘れていた母との思い出を懐かしみ、涙目になる)」

 

三葉「私ね、宮水のこの不思議な力って、今日この日の災害から逃れる為にあったんじゃないかって思うんだ。お父さんが本当は好きでもない政治の世界に身を置くようになったのも、お母さんとの間で”今日この日におきる大災害から街のみんなを避難させられるようになる”、そういう事ができるようになろうっていう、やり取りがあったんじゃないかなって今では思っている。

 

父「・・・」

 

三葉「だからお父さん、私の話を信じて!」

 

父親「・・・三葉・・・いままで苦労をかけてすまなかった(そして絶大なる統率力を発揮し、町の人全員を避難所に逃れさせる為に尽力する)」

 

とまあ多分二回目のループはこんな感じで行われるはずなのだ。これならば、

 

1、宮水の家族全員に役割の必然性ができる。妹の口噛み酒が存在する理由もわかる

2、父親との確執が解消されるというカタルシスができあがる

3、この流れならば、彗星からの大災害を乗り越えた後のマスコミの報道と、内容がほぼ一致する

 

とまあ以上三点で、物凄く物語に整合性ができる。どうだい、すっごいスッキリしないだろうか?

 

とまあこういう形で何とか危機を脱した瀧くんと三葉だけど、たぶん本来のエンディングはもう少し物哀しいものだったんじゃないかな、と僕は推測している。

 

この物語はいわゆるループものの構図をしている。主人公である瀧くんが、この世ならざる宮水の聖地の中で、三葉の半身である口噛み酒を飲むことで、本来ならありえないはずの”過去”に到達し、未来を変える。

 

当然というか、いい方向に未来を変えたんだから、それなりの代償が必要だというのが物語のルールだ。たぶんだけど「君の名は」の本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか(本来の新海誠の作風から考えると、こういうエンディングのほうが物凄くしっくりくる)

 

だけど今回、この作品は最後は最大のハッピーエンドで終わる。たぶんだけど、はじめにこのエンディングをみた配給元が、この物哀しいエンディングにNGを出したのだ。「それじゃあ観客は満足しねえよ。ハッピーエンドに作り変えないと、配信は認めない」と。

 

結局、今回の大チャンスと作りたいものを作るという思いの間の中で苦悩した新海誠は、苦渋の決断の上で「君の名は」をハッピーエンドに作り変える。だけどこのままやられっぱなしは癪なので、良識ある視聴者にむけて残したのが、あの彗星による大災害事件の不自然さなんじゃないかと僕は思うのだ。

 

まあこれは僕の考察でしか無いのだけど、たぶんそんなに間違っていないんじゃないかな、と思っている。一度この映画を見た人も、そうしう視点でこの映画を見なおしてみると、より面白いものの見方ができるかもしれないね。

かつてエロゲはいい意味で純文学だった~響のマニアックな感想文を添えて~

オススメ本 日々徒然

若者の本離れが言われて久しい。

 

テレビ、SNS、ソシャゲ等々、かつてはとは違い娯楽の種類も多様化してきており、暇つぶしの手法として、わざわざ本を選ぶ必然性がどんどん下がってきてしまっている。

 

読書は確かにある程度敷居が高い趣味であるという事は事実だけど、昨今の出版不況はそういうものとは別の場所にあるんじゃないかとも思っている。響を読んでその意を新たにした。

 

 

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

響~小説家になる方法~ 1 (ビッグコミックス)

 

 

 

純文学とは何か

響の一大テーマは純文学にあるという事は読み進めれば誰しもが気がつく。じゃあ純文学の定義ってなんだろう?

 

モブキャラの1人が「純文学の定義って何?」と主人公に問うたところ、響は「三島由紀夫太宰治芥川龍之介村上春樹・・・」と作家の個人名をあげた。これは一見答えになっていないようで、実は純文学というものの存在をこれ以上なく上手く言い表している。

 

人が小説を読む為の理由は色々あるけども、大体の人は読書中に浸れる世界観に一番の魅力を置くだろう。戦国武将になって天下を統一したり、甘酸っぱい恋愛を楽しんだり、はたまた異世界を旅行したり。

 

小説において作家が提供しているのは「作家が魅せたい世界観」に他ならない。そしてその提供する世界観がある一定以上優れていると、僕たちは特定の作家の虜となりファンとなる。

 

じゃあ逆にみていくとだ。小説≒作家の演出する世界観というものは、突き詰めて言えば作家自身のものの見方であり、作家自身のエゴであり、作家自身そのものとなる。じゃあ文学をどんどん純化していくと、結局小説というのはその作家を本という形で提供しているものに他ならなくなる。

 

 となると「純文学って何ですか?」という問いに対する最短解は響の言うところである「作家の個人名」が端的な回答とだとなる。

 

文学がマーケティング的な最適解を突き詰めていくほど、純文学の定義からかけ離れていく

しかし純文学もある程度の既得権が形成されていくと、どうしても文豪という界隈の付き合いに引っ張られていき、だんだん「文芸としてこうあるべき」姿というものができてくる。

 

熱心な読者ほど、そういう「俺の考えた純文学の定義」から外れた作品について厳しい意見をつけるようになる。そうすると、出版社にいる編集者は「熱心な読者の所望する文芸作品」から乖離した作品にNOを突き付け始める。

 

作家もまた、ファンを裏切る行為はできなくなっていく。結果、作品がどんどん似たような「マーケットありき」の「本来の文学」からかけ離れたものになっていく。

 

そういう作品は果たして本当に純文学なのかというと、全然そうじゃない。響の主人公がいうところの純文学は「三島由紀夫であり太宰治であり、芥川龍之介であり村上春樹」になる。だけど、これらの作者が「読者が欲する物語」を「売れるから」という理由で出せば出すほど、それは響の定義するところの「純文学≒作者自身」からかけ離れていってしまう(作品≒読者の望む既存の世界観、となる)

 

もちろんというか、そういう作品はある程度売れる。だけどそこにあるのは既にあったものの模造品でしか無い。僕は出版不況の最大の問題点はここにあると思う。ようは「売れるかどうかわからない、いいもの」が出せないのが現状の文芸界の最大の問題点なのである。

 

そういう「ありきたりな世界観」に飽きたからこそ、僕たちはエロゲにはまった

クラナドは人生、フェイトは文学」という有名なネットスラングがある。

 

2000年前後、エロゲ業界はまさにそういう文学作品があふれていた。出版会社が怖くて手を出せない異質の才能の持ち主たちが「文字が好きに書ける」という理由で、自分のエゴを文章に表出していたのがあの時代のエロゲだ。

 

日本の「かくあるべし論」にとらわれていた古臭い日本文学と、マーケット的に最適とされた有象無象のタケノコのような文章に飽き飽きしていた僕たちオタクは、作者のエゴの塊でできた文章に飢えていた。荒野で何日も食べ物にありつけなかった飢餓状態の我々にエロゲはとてつもない清涼水を与えたくれた。

 

エロゲにあるのは、まさしく「よかった頃の日本の純文学」にあった作者のエゴだった。既存の概念にとらわれず、愛も勇気も冒険もエロもグロもなんでもありの世界観だった。

 

結局、エロゲもいろいろあって駄目になってしまったのだけど。

 

響はエロゲ業界から生まれた正統的な純文学作品である

響の作者の第一作目において、作者は自分がエロゲが大好きである事を公然と宣言している。

 

たぶん、筆者は今の出版業界のあり方にとてつもない不満があるのだと思う。僕もかつてのエロゲに熱狂したもののひとりとして、その気持は痛いほどによくわかる。

 

実際、響において主人公が褒める作品は読んで面白いか否かではなく「作品中にエゴをちゃんと出しているか」否かである。一番初めにであった女性作家に響は全くケチを付けず褒め倒しているのに対して、売れっ子作家であれ友達であれ読者とか市場になびいてしまった作者には容赦のない暴力を奮っている。

 

この響の姿に、かつてエロゲに熱狂したものの1人として、とてつもなく深い感動を感じてしまうのは僕だけではないだろう。

 

こういう作品が読みたかったんだ。そういう「まだ見たこともない新たな世界線」を見せてくれる作者は本当にめっきりと数を減らしてしまった。

 

創作活動をする人、創作を愛する人はすべからく全て響を読んで欲しい。そして、この素晴らしいまだエゴのある若々しい作者の感性に圧倒されて欲しい。

 

こんな素晴らしい漫画、そうそうないですよ。

この漫画が凄すぎて僕の目から汗が出る2016~響~小説家になる方法

日々徒然 オススメ本

久々にあまりにも凄すぎる作品に出会って放心状態なので勢いにまかせて筆を綴ることにする。

 

 

響~小説家になる方法、このタイトルからあなたは何を想像するだろうか。まあなんかつまらんハウツーものだったり、表紙の女の子の地味めな感じからクソつまらない文学話でも展開されるんじゃないかというのが関の山だろう。

 

断言しよう。あなたのそのイメージは読後180度コペルニクスを圧倒的に突き放して展開する。この作品は圧倒的であり、バイオレンスであり、背筋がゾクゾクする。

 

あなたは作家というとどういうタイプの人間を想像するだろうか?想像力豊かだったり、根暗で文学が好きだったり。そういう文学少年やら文学少女チックな何かを期待してしまうんじゃないだろうか。

 

本書はそういう作家に対する印象をバズーカ砲のような激烈なドライブ展開でぶち壊してくる。そもそもモノを書くという行為は物凄くエゴイスティックな行いだ。自分の考えた妄想話を本にして読めという行為はこれ以上なく利己的な方法であり、またそういう利己的な存在を使って成り立っている編集者という存在もまた、これ以上無くエゴイスティックな存在だ。

 

だけどそういう姿は本にはあまりうまく現れてこない。当たり前だけど、そういう押し付けがましい他人のエゴから正面切って付き合うほど、僕たちは聖人君子ではないからだ。

 

本書に登場する才能ある人物は、全員いい意味で狂っている。素直すぎる主人公を筆頭に、本書に登場する人物で”才能ある人”はほぼイコールで”何かが欠落している人”であり、”普通の人”はほぼイコールで”何も持たない人”である。

 

こう書くと”普通の人”は残念な存在にみえるかもしれない。だけどそう簡単じゃないというのが痛いほどに本書を読み進めるとよくわかる。

 

本書にはいたるところで”特別な存在にほんの少しだけなれた”人達が出てくる。彼・彼女らは良くも悪くも普通の人だ。だからどこかで自分の欠落(≒才能)を自分のやましい何かとして受け入れてしまっている。

 

このようような人間は、作者が描くこの作品上では普通の存在から逸脱できない。欠落を、欠落ではなくギフトであると受け入れられなければ、自分のエゴを他人に読ませるという極めて破廉恥な行為を行う存在である”純文学の作り手である”というサガを乗り越えられないというのが、作者の提唱している純文学作家の定義である。

 

この作品上で純文学の定義とは?という問いがあるのだけど、それについて主人公である響は回答として太宰治芥川龍之介村上春樹、といった作家の名前だけをあげている。だけど響が”つまらない”という風に人の作品を攻撃している時、響がケチョンケチョンにけなす作品はすべからず全て、自分のエゴを隠した作品に与えられている(逆にエゴをちゃんと出している作品は稚拙であれ、キチンと褒めている)このことから逆説的に、響の純文学の定義がよくわかり、また作者が最近の純文学がどうして面白く無いのかという事についての回答にもつながっている。

 

僕たちは所詮、弱い存在だから、響のように”自分のエゴを全面に主張して生きる”事ができない。だけどこの作品において、響はそれを最高に痛快にロックな形で僕達に”正しい事”だと主張し続ける。それが読者に本当に痛快な何かを与えてくれる。これが、本当に読んでいて気持ちいい。

 

まあ御託はいいからさっさと一巻を買って読むんだ。今ならまだ4巻までしか出てないから、すぐに追いつけるから。そして僕と一緒に、スペリオールの最新話を心待ちにまとうではないか。ほんとこんなに凄い作品を連載中に読める機会なんて、そうそうないですよ。

シンゴジラが大ヒットしたのはコミュ障にやさしい映画だからかもしれない

日々徒然

いまさらながらシンゴジラを見てきた。実に細部までねりこまれたストーリー構造を呈しており、この緻密さ、さすがは庵野監督と思わされる作品であった。

 

ただ個人的にはこの作品が一般的に受け入れられているという事が非常に不可解だというのもまた事実である。題材はゴジラだし、内容はどちらかというとちょっとマニアックであり、庵野というビッグネームがあるにしたって、ここまで大騒ぎされるというのはちょっと予想外にも程がある。

 

映画をみてから数日間、なんでこの作品が物凄く多くの人の心に響いたのかを考えてみたのだけど、この映画がコミュ障に優しいという事に気がついてから、一気に納得がいくようになった。以下、日本の行政における意思決定の仕組みについて簡単に書きつつ、シンゴジラの妙味について書いていこうと思う(以下ネタバレというようなものではないけど、シンゴジラをまだみてない人は避けたほうが無難なのかもしれないという忠告だけは一応しておく)

 

日本行政の意思決定構造がメインだという異色の特撮映画

この映画がそれまでのゴジラと比較して特異的なのは、圧倒的に巨大な存在であるゴジラ・蹂躙される民衆・ゴジラをやっつける正義のヒーロー、といった普通の怪獣映画にありがちな三層構造を呈していない部分にある。

 

映画を見た人はわかると思うけど、この映画は蹂躙される民衆についての描写が凄く希薄だ。まあ書いてるといえば書いてるのだけど、作品の殆どはゴジラが街をぶっ壊す映像と、行政機関がゴジラをブチのめすために行う膨大な意思決定の過程の2つを非常に重要視して撮影されている。

 

普通の特撮映画の醍醐味が巨大な存在が街を蹂躙するという圧倒的絶望感を、模型を使ったりCGを使ったりして演出する部分に重点が置かれている。それまでのゴジラでは政府とか自衛隊なんてこういっちゃなんだけど噛ませ犬みたいな存在でしかなく、まあ戦闘機とか戦車とかバンバン砲弾ぶっ放すけど、全然何もきかないよねっていうお約束事の演出みたいな存在でしかなった。

 

それが今回のゴジラは初めから最後まで官僚と議員の演出が途切れること無く続くという異様ともいえる作風を呈している。普通はクソつまらないであろう会議のシーンが冒頭からひたすら続くし、事あるごとに総理大臣に「総理、決めるのはあなたです」とか言って最後の決定権は総理大臣にある事を強調する。正直、普通の特撮映画を見に来た客はこんなシーンを期待してはこないだろ!と言いたくなるような場面がひたすら続く(でもこれが凄く面白いんだから、庵野監督の手腕は流石だなとしか言いようが無い)

 

”コミュ障”と”コミュ障を繋げるもの”

本作の主人公である矢口は内閣官房副長官だ。こいつがまた能力はあるくせに滅法空気が読めない。

 

初めから結論が決まりきっている会議で空気を全く読まずに自分の意見を口にしたり、その後も事あるごとに勝手に能力がある人間を集めてゴジラ対策委員を作って、勝手にゴジラ撲滅に執念を燃やしている。

 

おまけに人望があるからなのか、彼の下には彼以上に個性豊かな変人奇人が集まってきて、これまた糞真面目に仕事に没頭する。ゴジラ対策委員に集まったのは各省・最先端期間の変人・奇人だと映画でも言っていたが、ああいう人達は一般社会では普通はあまりいい扱いは受けない。

 

普通、こういう能力があるけど空気が全く読めない人間の意見は、”正しいかもしれないけど、ちょっと受け入れ難いから駄目だよね”みたいな感じの扱いを受けて、採用される事はない。いわゆるポリティカル・コレクトネスに反するっていうやつだ。元に矢口の意見を総理大臣を含む日本のTOPに位置する官僚がそのまま飲み込む場面はほとんどない。

 

この矢口の意見を絶妙に政治的に正しい日本語”に変換する奇才が上司である内閣総理大臣補佐官、赤坂だ。彼が総理大臣などの”普通の人””耳さわりが良い形””矢口の天才的な意見””翻訳”することで、総理大臣はそれまで”どちらかというと採用したくないなぁ~”と思うような矢口の意見を”まあ採用してもいいかな”と転がされる場面は実に痛快だ。

 

上司である赤坂のやってる事は実はメチャクチャ凄いことで、実は彼は矢口の意見を全ては採用していない。矢口の意見を100%理解したうえで、その上で「これは日本の為になる」と思った意見は「総理大臣が受け入れられるような日本語」に変換して伝えているのに対して、「これは微妙だから却下しよう」という意見は「総理大臣が受け入れられないであろう」日本語に変換して伝えている。

 

これはちょっと普通の人間にはできない(前者の代表例がゴジラ凍結作戦を総理大臣に受け入れさせるときにいった”総理、もうそろそろ自分の好きなことをしてもよいのではないですか?”であり、後者の代表例が幼少型ゴジラにミサイル攻撃を決定するか否かの意思決定を迫る場面で言う”総理、決めるのはあなたです”だ)

 

かくしてコミュ障はカタルシスを得る

僕らは普段の生活において、自分の意見がそのまま採用される事は比較的稀だ。

 

好きな人は自分の事をいつも好いてくれるわけではないし、自分が本当はやりたくない事を人にやらされるなんて事はしょっちゅうだ。

 

それがこのシンゴジラでは、主人公含むコミュ障集団が頑張った事は全て受け入れられて、おまけにそれが最高の形で実を結んでいる。”頑張ったからといって必ずしも報われるわけではない”のが現実だけど、この映画では”頑張りが全て報われる”

 

おまけに上司(赤坂)が自分の意をすべてくんでくれ、自分が本当に言いたかった事を最高の形で社長(総理大臣)に伝えてくれる。なにそれ最高じゃないか。

 

また最終的に意思決定する総理大臣が普通の人だというのも見事である。全くもって一見優秀ではない総理大臣が、最高の意思決定を決断しているというのがまた僕達にいいようもないカタルシスを与えてくれる。

 

当たり前だけど、僕たちはいつも最善の決断ができるわけではない。”あの時こうしていればよかった”、”こうしなければよかった”、そう思うことなんてしょっちゅうだろう。

 

それがこの映画ではそういう場面はほとんどない(まあ映画だから当たり前といえば当たり前だが)凡人が、影の主人公・赤坂の絶妙な日本語翻訳された意見で、最高の意思決定を決断できるという部分に感情移入できるのが、またこの映画がコミュ障にいいようもない快感を味わわせてくれる。”総理、もうそろそろ自分の好きなことをしてもよいのではないですか?”ってちょっと考えてみると意味が全くわからない。だけどこのセリフは言いようもなく僕達の心にストンと落ちる。これが本当に凄い(個人的にはこの映画の最高の場面だ)

 

と、いうわけでこの映画の本質は”本来はわかりあえない自分と他人の意見が100%通じあい、巨大な事を成し遂げる”という部分にあると僕は分析した。あれ?これってATフィールドやん!ほんと庵野さん、エヴァの頃からやりたいこと変わってないなぁ・・・

下層にいた人ほど身分には敏感になり、そして自分の子供が付き合う人間に真剣になる

日々徒然

前回に続き、差別と身分制度の話である。今度は子供という観点から読み解いていこうと思う。

 

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かつての日本や欧米のように、生まれながらにして社会的階層がほぼ強固に固定されてはいない現在では、努力し望みさえすれば自分の社会的階層を上げることは可能だ。ただし、それができるのは現在の日本ではほとんど大学入学前段階までになる。

 

一度大人になってしまったら、よっぽどの事がない限り階層を変えることはできない。性格的にも能力的にも、人が変れるのは大学入学前だっていうのは、だいたいの人も認識しているだろう(それ以降の年齢から一念発起して変わる人もいるっちゃいるが、ごく限られた例外でしか無い)

 

じゃあ逆にいえば、それ以前の成人前段階においては、社会的階層は非常に緩やかなものとなっている。つまり、子供の社会的階層は非常にグラデーションがあり、どの階層に落ち着いても不思議ではない。

 

かのブログ主が「馬鹿とは付き合うな」と伝えたかったのは、自分の子供に対してなのかもしれない

「社会的階層に位置する馬鹿とは付き合ってはいけない。だってあいつら、中目黒すら漢字でかけないんだから」

 

該当記事ではこの言い回しがなかなか刺激的だ。この言葉が我々大人に向けられているのなら、これはちょっとさすがに無いなあという発言だが、これを小学校高学年ぐらいの人にむけて書かれたと考えるとほんの少しは理解できるものがある。

 

さっきもいったけど、日本では子供の階層には流動性がある。上層に生まれた子供も下層にいく可能性があるし、下層の子供も上層にいける可能性がある。

 

じゃあどうやって階層が決まるのだろうか?実は子供の階層決定に大きく影響するのは、付き合ってる子どもたちのグループがどの階層に位置するかである(興味ある人はハリスの子育ての大誤解を読むといい。まあ結論を簡単にいえば、朱に交われば赤くなるって事だ)

 

頭がよい社会的階層の高いグループと親和性がある子供は、基本的にはそのまま上の階層にいく事が多く、不真面目で勉強を嫌うイジメやチカラで上下関係を決めたがるような階層の人は、社会的下層に行くことが多い(もちろん例外もある)

 

かつて社会的下層に位置していたこのブログの執筆主は、誰よりもそのことについて敏感だ。基本的には身分制度に敏感になるのは下層の人達だ。そして下層から上層に這い上がる事が極めて困難なのに対して、上層から下層に落ちる事は極めて容易だという事もよくわかっている(このブログ主でいえば、今現在の配偶者に切り捨てられた時点で下層に真っ逆さまだろう)

 

このブログ主は、1つには自分が下層にいたことによる苦労を思い、子供に「馬鹿とは関わるな」という過激な発言をしているのかもしれない。その発言自体は褒められたものではないが、子を思う親としてそういう発想に至る気持ちはわからないでもない。

 

階層を移る方法は、自分で努力して這い上がるだけではない。 

あの発言が出てきた理由はもう一つ考えられる。それはこのブログ主自体がキチンとした保障がついた形で、下層からの脱却を確定したいという気持ちだ。

 

上のブログでかなり面白いのが、第一階層に配偶者という区分がある部分だ。日本社会の階層を考えるに当たって、これは非常に示唆的でもある。

 

実は階層を移る方法は、自分で這い上がるだけではない。ブログ主のように上層の配偶者を娶う方法に加えて、子供に上層に入り込んでもらう方法もある(この手の階層というものは、自分の心の中にある檻である事も多く、そういった時に自分と親しい誰かが別の階層にいるという事実は非常に心強いものとなる)

 

実はこのブログ主が上層にいると認識できる理由はたったひとつしか無い。そう、上層に位置する配偶者の存在だ。つまりそれがなくなったら、即またこのブログ主は下層の民に真っ逆さまとなる。

 

この上層と下層の極めて危うい領域にいるブログ主が「自分は上層にいる人間だ」という認識を強固にする為の方法は自分が上層に這い上がる以外には子供を使うしかない。自分で階層を行き来できないのならば、自分と繋がりのある自分の子供を使って上層に入り込むしかないのだ。

 

と、なると子供に「付き合う友達を選べ」とキツく念を押すのは当然の帰結となる。自分の子供が付き合う友達が、そのまま自分が所属する社会的階層にほぼ一致してくからだ。このブログ主は下層の子供の友達の親をみていると、かつての惨めな自分を思い出して胃がキリキリするんじゃないだろうか。

 

医学部にも親のコンプレックス克服の為に使われた子供がたくさんいる

子供を自分の階層移動の道具に使う人は結構多い。医学部にも注意深く観察していくと、そういう子供が結構いる事に気がつく。

 

父親がかつて医学部に入れず、その無念をはらすために子供の頃から英才教育をほどこされた子息。

 

母親が医者と結婚したかったもののできず、その無念をはらすために母親の代わりに医者と結婚させられた人の元に生まれた子女。

 

医学部にはこうした子供の末裔が結構いる(ちなみに著者もその子供の末裔である)

 

こういう風に親のために利用された子供が幸福になるか不幸になるかは正直難しい問題だ(僕は割と幸せだけど、これは結果的にうまくいったからに他ならない。失敗してたら随分と心を病んでいただろう)

 

このブログ主の思いもわからないでもないが、僕はこの人の子供のその後が結構心配だ。人生、うまくいくといいんだけど。

 

 

 

差別の問題は難しい

日々徒然

「この世には上層と下層という身分制度があります。下層のものとはかかわってはいけません。なぜならばその人達は馬鹿だからです」というような趣旨の事を書いたブログが炎上した。

 

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個人的にこの議題が炎上するのは日本社会の現状を考える上で非常に有用なサンプルだと思うので、以下平等についての問題提起をしつつ書いていくことにする。

 

友達を選ぶ基準

あなたが日々付き合っている人達を思い浮かべて欲しい。何故その人と付き合っているのだろうか?たぶんほとんどの人はウマが合うとか、なんとなく気が合うといったふわっとしたワードで友達を選んでいると思う。

 

友人を選択した理由をもう少し突き詰めていくと、比較的性格が一致した教養・経済のレベルが似たような人となる。社会の上層にいけば行くほど、その間でなされる会話の教養レベルは比例して上昇していくし、遊びにいったり食事に行ったりするのに使うお金の金額も、比例して向上していく。

 

僕を含めて社会的にそこそこ上層にいる人達は、結局教養・経済のレベルが比較的近い人達で集まる事が多い。会話のキャッチボールも楽だし、相手の財布の懐具合を気にする必要もない。多少難解な事であれ喋りたい事を喋り、多少高いレストランだろうが食べたいものを食べる。相手に何の気を使うことなしに。

 

別に教養とか経済レベルが低い人達をわざわざ差別しているわけではないけども、結果として似たようなレベルの人達を選別してしまうのは事実だ。むこうもむこうで、こっち側の人間と遊ぶより、自分と親しい者たちと遊んだほうが全然楽しいだろう。

 

こうしてお互いの利益が一致しているという事もあり、社会の上の方の人達と下の人達は基本的にはあまり交わらない。これを肯定的な物言いでいえば「気が合う人を選んで」付き合っているとなるけど、否定的なものいいでいうと「馬鹿とは付き合わない」となる。

 

「馬鹿とは付き合うな」というワードは差別色が強いけど、「気が合う人と付き合う」というのも言い方がマイルドなだけでやってる事はなんの違いもない。

 

日本は表立って身分制度を出さない国なので、この手の差別ワードはとても問題になる。けど口に出さないだけでみんな大なり小なり人を差別している。そのことは忘れてはいけない。

 

欧米ではどうなっているか

この手の問題を考えるときにはかつての身分差別がまかり通っていた欧米諸国についての事例を考えるとわかりやすい。

 

例えば元・外交官の佐藤優さんのイギリス留学時の本がある。

 

紳士協定―私のイギリス物語―(新潮文庫)

紳士協定―私のイギリス物語―(新潮文庫)

 

 

この本の中で佐藤さんはとあるイギリスの家族の家にホームステイをするのだが、そこで非常に利発な少年と出会い、交友を深めていく。

 

このホームステイ先の家庭は中流階級に属するグループなのだけど、この少年は非常に知能が高く、望めばオックスフォード大学といった上層階級の住む場所へと移る事も可能であった。

 

少年は佐藤さんに「勉強して、大学にいった方がいいのだろうか」という悩みをぶつける。佐藤さんは「頭がよいのだから、是非進学して学問を習得するべきだ」と回答する。

 

実はこの少年の問は非常に深淵な問題を抱えている。

 

階級を一度超えると前の階級とは暮らせなくなる

はじめに書いたように、僕たちは付き合う人を選ぶ。基本的には自分に近い人を選んで、そういう人と暮らしていく。

 

中層~下層社会にいた人達が一度上層に入り込むと、基本的に前にいた環境の人とは生活がほとんど交わらなくなる。読む新聞が地方紙の人達と、フィナンシャル・タイムズとの人達との間で話が噛み合うはずがない。

 

この少年の問は、表面的には「勉強して社会的上層に入り込むべきだろうか」というものだが、深層的には「自分は上層に移って、今付き合っている家族や友人を捨て去るべきなのだろうか」という事を問うている。

 

身分差別が比較的広く認知されている社会では、上層・中層・下層がこの世にあることをあまり隠さない。それ故に、上層は下層にそれなりの保障を与えるし、下層も下層で身の程を知って生きる(ノブレス・オブリージュのような精神が発達するのは、自分が結果として上層にいるという事がありがたいことだと認識するからだ)

 

一方、日本は身分差別ある事を表立っては問わない。形の上ではみな平等だという。それ故に上層の人達は「機会はみんな平等だった。下層の人達は努力しなかっただけ」といい、あまり快く保障を行わない傾向にある(だから社会主義的な発想が比較的親和性が高いのだろう)

 

この「本来はある身分制度」を「ないもの」としているから、日本にはリベラルが根付かずどことなくリバタリアニズムの風潮が巻き起こるのだと個人的には思っている。

 

長くなったので今日はここでやめるけど、みなさんも差別とまではいわないまでも、社会の階層がはっきりと見える社会と見えない社会、どちらが果たしてよいのかについてはキチンと考えてみてもいいんじゃないですかね(次は気が向いたら子供の教育における階層制度の問題点について書きます)