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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

ニューダンガンロンパV3がいろいろ酷くて悲しい

ダンガンロンパ大好きなみなさん。俺も好きや(´・ω・`)

 

 

シリーズ1,2とファンの期待を全く裏切ること無く制作されたこのゲーム。僕も3も期待を裏切らないだろうと思って買いましたよ。うん、本当に期待を裏切らなかった!

 

最終章の前半まではね。

 

まだ買ってない人もいるだろうからここから先はネタバレ込の愚痴なんで、未プレイの人はプレイが終わったら読んで下さい。あ、このゲーム、買うべきか買わないべきかでいえば買うべきです。少なくとも途中まではシリーズの中でも一番面白いので。

 

以下ネタバレ&愚痴。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この作品は、黒幕の正体が判明した後に一気に暗転する。それまでのお話が全部夢オチでしたーぐらいの、ちょっと酷い展開だ。

 

このゲームの物語ラスト付近で、こんな狂ったコロシアイが好きなお前たちは出歯亀だ!といきなりダンガンロンパの世界そのものを否定し始める場面がある。アマゾンのレビューをみていると、これを説教と捉える人が多いようだけど、僕は説教されていると感じるよりも、どちらかというと製作者がダンガンロンパの世界をただの狂ったコロシアイとしてみていないかのような言動が物凄く悲しかった。

 

別に僕たちは、残虐なコロシアイがみたくてあのゲームをやっているわけではない。キャラの作り方とか、喋り方とか、世界観が好きでダンガンロンパを買っているのである。「ハルマキちゃぁぁぁん可愛いぃぃぃ」って言いたいからこのゲームを買ってるわけで、別にコロシアイなんておまけみたいなもんだ。ないなら無いで誰も文句なんていわないだろう。

 

1,2と神ゲーが続いただけに、製作者が物凄いプレッシャーに襲われただろう事は想像に難くない。そしてそれに堪えるだけの物語を3では作れたと思うし、黒幕判明後の神演出はそれこそ鳥肌モノの凄さだった。だからこそ、こんなに凄いゲームを作れる製作者が、あんなラストを持ってきてしまった事に強い怒りを僕は感じるのだ。だって、そのまま終わらせてたら僕達、みんな手放しに大絶賛でしたよ。もう(´;ω;`)でしたよ。ええ。

 

スパイク・チュンソフトさん・・・お願いだからダンガンロンパの世界観を公式が否定する事はやめてください。V3はなかった事にしてもいいから、いつもの調子で4をまた作ってください。ほんとお願いします。

 

フィクションの世界観に浸る事で救われる人間もたくさんいるんです。物語の力ってそれだけ偉大なんです。ダンガンロンパ、大好きなんです。

 

以上。

開かれた環境で診療を行っていない医者の実力は危ない~新臨床研修医制度危惧論にかえて~

日本の医療レベルは全体的には比較的マシなレベルではあるのだけど、これはあくまで全体の平均の話であって局所局所では結構ビックリするような医療が行われていたりするのもまた事実である。

 

何の分野でも、スポーツの世界1位の人が凄いという事には誰も異論がないだろう。特に短距離走やサッカー、野球といったメジャーなスポーツのトップクラスの選手の実力は、恐ろしいものがある。彼らがなぜ優秀なのかというと、それは激しい競争の中に身を置いているからだ。

 

ウサイン・ボルトの優秀性は、彼を除く凡百のランナーとの比較により証明される。彼は、彼以外のランナーとの激しい競争の結果、超人的ともいえるスピードを得ることに成功した。これは競争の結果である。競争原理が全く働かない、どこぞの未開の地の短距離走者がボルトよりも早いだなんて事はまずない。競争は人をムチャクチャ優秀にするのである。

 

ここで頭のいい人ならば気がつくと思うのだけど、実は真の意味での優秀さというのは開かれた競争原理の働く場所でないと生まれない。閉鎖された場所でのNO.1は、しょせん井の中の蛙のようなもので大したレベルじゃないのが普通だ。

 

日本の医者のレベルが微妙な事が多いのは、実はこれと非常によく似た現象である。まず日本は母国語が英語でない。この時点で非常に多くの医者が、英語という広大な開かれた知の泉へのアクセスから遮断されている。インターネットがつながっているのだから、そこに最先端の知識は”ある”のだけど、その知識を最大限活用できている人は、驚くほど少ない。

 

さらに日本の医療レベルを微妙なレベルにさせている最大の悪習慣が医局制度だ。医局というナワバリにより就業環境を狭い地区に囲い込まれてしまった若い医者は、その医局のレベル以上の知識をみにつけることが非常に難しい。

 

本当なら英語圏で行われている世界最先端の競争の場に組み込まれ、その知見をフルに活用し、各々が実力を切磋琢磨するべきだと思うのだけど、そういう厳しい場所に自分の身をおいている人間は日本の医療現場では非常にレアケースだ。

 

昨今は、若い頃からアメリカの有名大学とかで学んだ知識を惜しげもなく提供する優秀でガッツのある医者の努力もあり、悪しき医局制度から生まれる劣悪な師弟関係制度も崩壊しつつある。が、未だにここから脱却できておらず江戸時代のような医療レベルで運営され続けている恐ろしい病院も結構ある(おお怖い)

 

開かれた環境で診療を行っていない医者の実力は本当に危ない。開かれた場所≒オリンピックだとすれば、開かれない場所≒未開の地のようなものである。開かれていない場所にも優秀な文化がある事もあるのは事実だけど、それを圧倒するぐらい酷い文化が根づいてしまっている事が多いのもまた事実である。

 

来年度より、新臨床研修医制度が発足する。医師の偏り解消を大義名分に施行されたこの制度だけど、蓋を開けてみるとただの医局制度の復活なんじゃないかという部分も多い。個人的にはせっかくよくなりつつある現在の日本の医療制度がまた悪くなりそうな方向に転がりそうで非常に危惧する部分が多く、ちょっと安心してみていられない。

 

日本の医療レベルを引き上げたいのなら、このような区画された閉鎖空間を作り出す事は辞めてもっと競争原理が働くようにするべきだ。競争は多くの人間を疲弊させるのは事実だけど、全体のレベルがむちゃくちゃに向上するというのもまた事実である。

 

この現実から目を背けず、利権関係なしに日本の医療レベルが向上することを心より祈る。

医者だからちゃんとした診療をしているとは限らない~書評・視力を失わない生き方~

てきとーに入った本屋で非常に面白い本を見つけ、先ほど読み終わったので紹介する。おすすめ度は☆5。

 

視力を失わない生き方?日本の眼科医療は間違いだらけ? (光文社新書)

視力を失わない生き方?日本の眼科医療は間違いだらけ? (光文社新書)

 

 

本書、「視力を失わない生き方」は現役の眼科医による眼科診療の最先端について書かれたものだ。やや専門性が高い内容なので普通の人が読むのは大変かもしれないけど、かなりわかりやすく書かれているので読めなくはないかとは思う。

 

この本に書かれている事はかなり衝撃的だ。他の病院で適当な目の治療を施され、失明寸前に陥ってしまった症例がそれこそ雨あられのように紹介されている。

 

こんなこと、本当にあるんか???といいたくなるような話のオンパレードだけど、医療の現場にたつものからすれば結構そういうテキトーな診療をしている医者が多いという事も嫌というほど知っているというのもまた事実なので、まあたぶん本当のことなんでしょうね・・・

 

医者ですらどこの病院がいいかなんてわからない

「どこの病院がいいの?」

 

この質問をされた事がある医者は多いだろう。僕も時々される。けど現実問題、この答えに適切に答える事は非常に難しい。だから正直な事をいうと上の質問に関しては「僕でもわからない」としかいいようがないのが現状だ。

 

なんでそんな事になるかというと、そもそもほとんどの医者が自分で働いている施設の、自分に関係する部署の事ぐらいしか実力を見る機会がないからだ(実力をどういう風に外に提示するのかは非常に難しい。スポーツなら勝ち負けが全てだけど、医療の結果はわかりやすいものばかりではないのである)

 

僕は東京で働いているけども、はっきりいってそこら辺にある有名病院がちゃんとした医療を提供しているかどうかはほとんどわからない。医者ですらこんなもんなんだから、一般の方からすればサッパリだろう。

 

また多くの医者がそうだと思うのだけど、自分の専門以外の分野の治療内容をキチンと全て把握しているような人は非常に稀だ。というか下手すると自分の専門分野ですら、ちゃんと理解してないような人間すらいる有様である(なんでこんな現象が起きているのかについて書き始めると非常に長くなるので今回はやめておくが、この問題は結構根深い)

 

話が横道にそれつつあるので話を今回読んだこの本に移すけど、この本が偉いのは一般人向けへの本にもかかわらず、ちゃんと病気別にどういう治療が正しいのかについての記述を面倒臭がらずに書いている事だと思う。繰り返すが、正直これは相当偉い(だってこれだと内容が難しすぎて売れないだろう事は目に見えてるんだから)

 

上にも書いたけど、僕ら医者でもどこどこの病院の誰がどれぐらいの実力があるかがわからないのは、この本のように「自分の実際に行っている治療」について説明されている場所が皆無だからに他ならない。そういう点では、この本は著者の格好の実力の証明にもつながっており、非常に評価できる(こういう形でキチンと自分の実力を説明している医者はかなり少ないし、今後はこういう風に医者側がキチンと自分の行っている業務の腕をアピールできる事が強く期待されるけども、まあ当面は難しいでしょうね)

 

ちなみに僕がこの本で一番衝撃をうけたのは、医学部時代に習った網膜剥離加齢黄斑変性症と翼状片についての治療法が完全に時代遅れのものであったという事だった。どれも結構治療が大変だという記述を読んだ記憶があったのだが、著者によると今は結構普通になんとかなったりするらしい。いやはや、まさか眼科がここまで進歩しているとは知りませんでしたよ。

 

なんかまとまりのない文章になってしまったけど、この本は普通の人は当然として、医療従業者こそ読むべきだと思う。正直、かなりビックリしますよ。

食べても食べても太らない二郎風ラーメンの作り方

世の減量に取り組む皆様、おはようございます。

 

ダイエット、つらいですよね。まあ空腹とかは慣れると水をたらふく飲むとかで何とか対処可能なんですけど、個人的にどうしてもキッツイのがマックとか二郎とかのジャンクフードが突発的に食べたくなるあの渇望感ですね。

 

ところで最近、糖質制限ダイエットの一環でスーパーに売ってるこんにゃく麺をいくつか試してみてるんですけど、これが意外と美味しいんですよ。 今回はこれを使って手軽に二郎風ラーメンを作ってジャンクフードへの渇望感を満たす方法について書いていきます。

 

用意するもの

1.こんにゃく麺が使用された醤油ラーメン

ヨコオデイリーフーズ こんにゃくラーメン醤油140g×12個

ヨコオデイリーフーズ こんにゃくラーメン醤油140g×12個

 

2.もやし

3.ニンニク

 

 

まあ全部で200円もあれば十分じゃないでしょうか?

 

作り方は簡単。

1.鍋にお湯を沸かして、その中にもやしを入れてある程度湯がきます。

2.こんにゃく麺のラーメンを袋に書いてある作り方より若干お湯少なめで作ります。

3.作ったラーメンに湯がいたモヤシを乗っけて、その上に刻んだ生ニンニクを散らします。

 

これで二郎”風”のダイエットラーメンは完成です(どうしても豚が欲しい人は市販の叉焼でもいれて代用しましょう)

 

えっ?こんなんであの次郎の味ができるの?と思う人も多いかもしれませんけど、個人的に次郎のあの謎の中毒性は刻んだ生ニンニクを醤油タレでモヤシとワシワシ食べる事にあると思ってるので、結構これで似たような味は再現可能です(より完成度を高めたいのなら、上からカエシを入れたり、豚脂orタダで貰える牛脂をレンチンして上からかけたりとかすればできなくもないですけど、これは一応ダイエットレシピですからね・・・)

 

まあ騙されたと思って一回やってみてください。意外とイケますよ?

 

じゃ、まあ今日はそんな感じで。

サイゼリヤの経営姿勢は飲食店の理想である

数年ぶりにサイゼリヤにいってみた。食後感をはじめに申すと、ビックリするぐらい良かった。っていうか安すぎである。なんだこの値段設定。

 

もともと興味をもったのは、イナダシュンスケさんのこの記事がキッカケだ。

 

inadashunsuke.blog.fc2.com

 

サイゼリヤというと、前はミラノ風ドリアぐらいしかイメージがなく、まああれなら食べなくても良いかなと思っていた事もあり暫く脚が遠のいていた。だが上の記事がどうにもこうにも旨そうなのと、子供ができたら暫くファミレスぐらいしか行けないだろうという思いもあって本当に数年ぶりに脚を運んだ。そしたらビックリするぐらい良心的で関心してしまった。

 

ワイン250mlで200円の衝撃

飲食店の経営は難しい。目の前に同じような店があったとしたら、店先に置いてあるメニューが100円安いというだけで99%の人は安い店を選ぶだろう。

 

客足がなければ売上が成立しない。そういう事情もあって、多くの飲食店は食べ物のメニューの原価率はギリギリの利益率に設定し、売上は飲み物代で検出しようとする。

 

日本の飲食業界は他の先進諸国と比較すると驚異的なコストパフォマンスを誇っている。けど、あれは諸外国から考えると生活が成り立たないレベルの価格設定である。欧米諸国に海外旅行をした事がある人ならばわかるけど、かの国ではそのへんの軽食堂で軽く飲食するだけで平気で1500~3000円は取られる(家でメシを作らず外食をすること自体が、そもそも贅沢行為と認識されているのである。だからこの値段設定でもある程度やっていける)

 

日本人の感覚からすると「はっ?高すぎじゃね???」と思うかもしれないけど、外食産業なんて先進国に所属している人間からすれば、それぐらいは取らないと元がとれないのだ。誰が好き好んで人が仕事をしている時間帯に食材を仕入れて仕込みをし、人が休み時間の時間帯に必死で働きたいと思うだろうか?(ちょっと考えて欲しい。昼飯と夜飯の時間に働くという事がどれだけムチャクチャな労働条件なのかという事を)

 

飲食は、そういう無茶振りを他人にしているという時点で物凄い贅沢品なのである。そのくせ店頭価格で低価格で勝負せざるをえない日本の飲食業界が、どこで儲けるかといえばドリンクしかないのである。ペットボトル2L一本で200円のウーロン茶を、200ml一杯500円で売ることで初めて儲けを計上しているのが、現在飲食店の経営をギリギリ成立させているからくりなのである。

 

ここまで読んできて頭のいい人なら気がついたと思うのだけど、じゃあ消費者として最も賢い戦法は何かという事になると飲み物を頼まない事になるのである。飲み物で粗利を出しているのならば、つまるところコストパフォーマンスを最上に設定したいのならば、儲けとなっている部分を潰すのが消費者における最善の戦略となる。

 

僕は上記理由につき常時レストランで飲み物を頼むべきか否かについて頭を悩ませるのだけど、この観点からいうとサイゼリヤは本当に凄い。あのふざけた価格設定ならば、何も悩まずに飲み物をオーダーできる。

 

まずワインが一杯100円である。250mlのデキャンタでも200円だ。アルコールを飲みたくないのなら、ドリンクバー200円でも全然いい。恐らく、どちらもかなり儲けは計上できるようになんとか仕組みを整備しているとは思うのだけど、200円なら誰も文句をいわずに水じゃなくてドリンクを頼もうと思えるだろう。

 

金のない学生でも、ミラノ風ドリア+ドリンクバーぐらいは頼める。あんまし稼げない社会人でも、生ハム+エスカルゴ+ミラノ風ドリア+デキャンタ・ワインぐらいは頼める(これでも精々1000円ぐらいだ。居酒屋にいくことと比較すれば、馬鹿みたいに安い)

 

デフレ+低成長の日本において、低価格メニュー+低価格ドリンクでしっかり利益を出すことのできるサイゼリヤの経営姿勢は感謝しか無い。これが消費者心理と、飲み物代で利益を出さざるをえない、ギリギリの回答だろう。

 

サイゼリヤは実にチェーン店の鏡である(ホームページによると、サイゼリヤの営業利益はなんと90億円(同119.9%)だそうだ。それでいて、ワタミのようなムチャクチャなブラックだという話は聞いたことがない。繰り返すがサイゼリヤは飲食の鏡である)

 

こんな天使のような企業が存在している事に、心の底から感謝である。そして難しいことは百も承知でいうが、同じようなジャンルの優良企業が今後出てきてくれる事に期待したい。

 

食事は人の生きる喜びである。サイゼリヤよ、本当に、ありがとう。

 

 

 

世の中の生きにくさを外部に求めても何も解決しない

年末年始で時間があったのでフェミニズムの本を読んでいた。インターネット上であそこまで人の話を全く聞かずに他人を断罪しまくる人が多い党派の思考回路がどういうものなのか非常に興味があったからだ。

 

長々と色々書かれていたけど、その本がいわんとしていた事は以下の三段論法であった。

 

「イジメられっ子(差別される側)はイジメがある事を認識しているけど、イジメている側(差別する側)はそこにイジメがある事を認識していない」

「世の中には多くの男女差別が組み込まれている。世の男性は上の論法にただし合わせてみれば、イジメっ子側(差別する側)である。故に男女差別がある事自体を全く認識していない」

「つまり男性=イジメっ子(差別する側)である。イジメっ子(差別する側)は100%悪い。だから男性は悪である」

 

そしてこの論法を元に世の様々な男女差別を紐解いていき、世のフェミニストよ。団結せよ、といった言葉でその本は締めくくられていた。

 

読んでいて言われてみれば確かになぁという種類の差別があったのは事実だ。そういうものはちゃんと反省すべきだとは思った。

 

ただ、あげられている事例の中には「それエビデンス何にもないし、はじめっから男性が悪いありきでものが考えられてないか?」というものも結構あったし、そもそもこの三段論法を頼りに自分の人生の指針を決めていくのは非常に危ういのではないかとも思ったのも事実である。今日はその事について書こうと思う。

 

人は誰しも固有の生きにくさを持っている

この世に不満が全くないという人はかなり稀だろう。大なり小なり、人は生きにくさを含有しつつ日常生活を送っている。

 

「この生きにくさがどこに起因するのだろうか?」

 

誰しもが一度ぐらいはこう考える。ただまあ普通の人はそんなに真剣には考えずに、日々を適当に過ごすものだと思う。

 

ただごく一部の人達は、それを物凄く真剣に考えすぎてしまい、そしてその原因を男女差別だとか現政府だとかに見出してしまう。前者が一部の過激なフェミニスト団体の人達であり、後者がSEALSのような団体である。

 

この人達の思考は、上に書いた「イジメっ子=悪」という結論ありきの三段論法で構成されている事が多い。ゆえに多くの場合において、自分が虐げられたかわいそうな存在であり、自分は報われるべきだという考えが非常に強固だ。

 

だから自分にどんな理論破綻があろうが「私は虐げられたかわいそうな人→だから私は正しい」という超理論が元にあるため、対話が全くといっていいほど成立しない。これは非常に強固な自己洗脳であり、紐解くことは非常に困難である。これが一部の過激団体がなぜああも過激であり続けられるのかの理由である。

 

僕はこれは一種の呪いのようなものだと思っている。

 

人は誰しもが生きにくさを感じつつ生きている。けどそれは生そのものに伴う苦しみのようなものであり、生きるにあたって抱えていかなければならないようなものだ。少なくとも超克できるタイプのものではない。

 

実は世の中の生きにくさというものは、自分の外にあるものではない。自分の中にあるものである。自分の生きにくさの原因を正しく直視していくと、それは様々なコンプレックスが元となっている事が非常に多い。外部にある様々な社会悪(と自分が思っているもの)は、そのコンプレックスの増強剤であり、その社会悪を是正した所で自分の中にある劣等感自体は消滅しない。

 

仮にだけどフェミニストが男女同権を作ることができたり、SEALSが安倍政権を転覆させる事ができたとして、果たして彼・彼女らの生きにくさは根本的に解消されるのだろうか?僕はまず100%解消されないだろうと思う。そうなった時に彼らがどうするかというと、どうせまた次の生きにくさの原因を見つけてそれを糾弾するだけだろう。

 

繰り返しになるが、私達が生きにくいのは社会に問題があるからではない。自分の心の中に問題があるからである。そしてそれは、キチンと自分のコンプレックスを直視して、それを一個一個解決していく事でしか解決できないものである。

 

これは地味だし面倒くさいし敵が自分の中にあるから向き合う過程自体に苦痛があるのだけど、それに向き合えないままじゃ、いつまでたっても永遠に生きにくいままである。

 

私たちは世の中の格差とか差別とは適切に付き合わなくてはいけない

「けどさ、世の中に差別とか格差があるのは事実でしょ?だから差別を糾弾するのは当然の権利だと私は思うし、あなたのいうように差別がないかのように思うことはできない」

 

上記のような記述に対して、こういう意見が出てくるだろう事は想像に難くない。そしてその意見自体には僕もある程度は賛同する。

 

ただ現実問題として、このグローバルな世の中には格差も差別もメチャクチャにあふれている。私達が安くて美味しい食べ物を食べることができたり、安くてそこそこ性能がいい洋服を着れるのは、低賃金で長時間働く発展途上国の安い人件費を利用しているからだ。

 

政治的に正しい意見を元に考えれば、同一労働同一賃金の原則が善であり、発展途上国の人達は僕達と同じような賃金を貰わなくてはいけないはずだけど、そんな事を全力でOKする人は全然いないだろう(いないからこそ、格安でサービスを利用できているのだ)

 

現代のグローバル社会で豊かに生きるという事は、格差をある程度認めるという事と同義である。グローバル化が非常に先に進めば究極的には世の中はフラットになるのかもしれないけど、そんな社会は少なくともあと100年はかかるだろう。

 

世の中には様々な正義が存在する。ある一面だけを切り取って考えると簡単な正義と悪の二項対立でみれる物事も、より高次な次元に立ってみるとそんな単純なものではない。世の中には正義も悪も、沢山存在する。

 

繰り返しになるが、現代社会は完璧ではない。だからそこに問題があるというのは事実である。そしてそれをちょっとづつ良くしていかなくてはいけないもの、また事実である。だけど世の中には数多くの問題が存在しており、簡単には解決できないものばかりである。だから清濁併せ呑んで生きていくぐらいの覚悟が丁度いいのだ。

 

結局私たちはどうするべきなのか

現代社会の構造上の問題は一気に好転することはありえない。せいぜいちょっと良くしていける位が関の山である。

 

僕も僕の信じるよりよき社会の為に、ちょっとづつは社会改革に取り組んでいる。けどその社会運動は、自分の為に行うものにあらず、次世代の為に行っているものだ。少なくともその活動には自己の救済は全く求めていない。あくまで自分の生きにくさは自分固有のコンプレックスからきており、社会の悪はその増強剤であるという風に認識しているからである。

 

結局ね、勧善懲悪のわかりやすい二項対立の世界に私たちは生きることはできないんですよ。それがしたいのならば、一度ヤマギシ会のようにグローバル社会から完全に逸脱して、完全に自給自足で生活し、全ての責任を自分とその共同体の責務として負うようにしてみればいい。それをやってみればわかるけど、グローバル社会から抜け出して生きる事がどれだけ難しいかが嫌でもわかりますから。

 

だから私たちにできる社会貢献は、新しいテクノロジーを生み出したり、新しいサービスを生み出したりとかして、世の中に1つでも多くの金と雇用を生み出す事なんですよね。そんで作った余裕で快適に生きられる人間を一人でも増やすのが、何よりの豊かな社会への道ですから。

 

社会にはまだまだ余裕が足りないのです。この世界に豊かさをガンガン増やし、誰もが笑顔でいられるように、明日からみんなも頑張りましょう。

記念日の重要度が増していき、年中行事はよりハイテクノロジーに置換されていく

新年である。毎年この時期になるとイライラさせられるイベントの1つに年賀状がある。こう書いてる事からもわかる通り、僕は年賀状は出さない派だ。

 

僕は生まれたときから年賀状が嫌いだったが、かつてはどちらかというとそういう人間の方がゲスな存在だったかと思う。けど今では少なくとも若い世代からすれば年賀状を送るだなんて行為はかなりダサい行為の1つである。

 

なんでそんな事になってしまったかといえば、その最たるものとしてSNSの存在をあげることができるだろう。FaceBookとかLINEで一言「あけおめ」という方が年賀状を苦労して作る行為と比較して、ぶっちゃけクールなのである。

 

まあここまでは誰でも普通に考える事だと思うのだけど、ここで改めてまた考えてみると不思議な事が1つある。それは年賀状はクソダサいものなのにもかからわず、新年の挨拶自体は未だに形を変えて残り続けているという事である。

 

みんなも既にみたかもしれないけど、FaceBookとかLINE上では新年あけましておめでとうございますのこだわったスタンプがかなりの数、飛び交っている。つまり年賀状がいくらダサくて流行遅れだからといっても、年中行事は死なずその形を新たな場所に移してゾンビのごとく蘇るのである。

 

記念日の重要性が増してきている

キリストが死んでから2017年たった今現在、日本の世の中はクリスマスの話題でもちきりだ。その姿は大きく形を異にしているけども。

 

誰も馬小屋で生まれたキリストの話なんて一言もしておらず、恋人とイチャイチャしてたり六本木のイルミネーションをみたりと、その記念日が生まれた時とは姿かたちが完全に変わった異形のものとして、コンテンツが消費されるようになった。

 

日本人は妙に祭日が好きだ。個人的には別に元旦だろうがクリスマスだろうがバレンタインだろうがただの365日中の1日だとしか思わないのだけど、どうやら普通はそうではないらしい。

 

近年、この記念日の中で最も大きく重要度が増したのはハロウィンだろう。僕の頃なんてあって無いようなものだったハロウィンは、今では大きな大人が変なコスプレをして街中を歩くことができる一大イベントになってしまった。なんでこんな事になってしまったのだろう?

 

余暇が増えた事により、日常生活自体のエンタメ強度が上がってってる

かつてと比較して、世の中は大きく変わってきている。ほんの10年前までは携帯ゲーム、携帯電話、音楽再生プレイヤーが大流行していたけど、今はスマホ一台あればそれらは全て包括されてしまっている。

 

テクノロジーのレベルが上がるにしたがっていって、世の中での常識はどんどん入れ替わっている。基本的には技術レベルが向上すればするほど、世の中には余裕が生まれていく。

 

余裕が生まれるという事は、≒暇になるという事だ。人は退屈に耐えられる存在ではないので、短時間でできるそこそこ面白い暇つぶし行為に需要が生まれる。

 

現代人は結構忙しい。スマホゲーをやりながらYou tubeをみて、LINEで友達とスタンプを送り合っている。別に誰でもできる普通の行為だけど、仮にこれを江戸時代の人がみたら極めて驚愕するだろうことは想像するに難しくない。

 

かつての江戸時代の人々と比較すれば、我々の日常生活(=ケの日)はどこからどうみてもハレの日そのものである。つまり現代人の日常は、ホモ・サピエンスが誕生した時から考えれば毎日ハレの日を経験しているのと殆ど等しいものだとも言える。

 

日常生活そのものがハレの日クラスのエンタメ度を持っているのだから、本来ハレの日であるはずの元旦だとかバレンタインデーだとかクリスマスのような日はそれよりも持っとエンタメ度を高めなくてはいけない。というかそうでもしないと、より楽しめる日常がどこにもなくなってしまうのだ。

 

おそらくこれが、近年記念日が妙に重要視される理由の1つなのだ。SNS等で今日が記念日だという事が周囲に周知される事がこれにさらに拍車をかける。

 

こうして記念日の重要度がどんどん増していき、従来の年中行事はより高度なテクノロジーが使用されたクールなものへと置き換えられていく。年賀状の次に破壊される年中行事はいったい何であり、AI・VR時代のバレンタインデーやクリスマスはいったいどんなものになってしまうのだろうか?僕は今からわくわくが止まらない。

 

いやはや。新年早々楽しい事態になりそうである。