記念日の重要度が増していき、年中行事はよりハイテクノロジーに置換されていく
新年である。毎年この時期になるとイライラさせられるイベントの1つに年賀状がある。こう書いてる事からもわかる通り、僕は年賀状は出さない派だ。
僕は生まれたときから年賀状が嫌いだったが、かつてはどちらかというとそういう人間の方がゲスな存在だったかと思う。けど今では少なくとも若い世代からすれば年賀状を送るだなんて行為はかなりダサい行為の1つである。
なんでそんな事になってしまったかといえば、その最たるものとしてSNSの存在をあげることができるだろう。FaceBookとかLINEで一言「あけおめ」という方が年賀状を苦労して作る行為と比較して、ぶっちゃけクールなのである。
まあここまでは誰でも普通に考える事だと思うのだけど、ここで改めてまた考えてみると不思議な事が1つある。それは年賀状はクソダサいものなのにもかからわず、新年の挨拶自体は未だに形を変えて残り続けているという事である。
みんなも既にみたかもしれないけど、FaceBookとかLINE上では新年あけましておめでとうございますのこだわったスタンプがかなりの数、飛び交っている。つまり年賀状がいくらダサくて流行遅れだからといっても、年中行事は死なずその形を新たな場所に移してゾンビのごとく蘇るのである。
記念日の重要性が増してきている
キリストが死んでから2017年たった今現在、日本の世の中はクリスマスの話題でもちきりだ。その姿は大きく形を異にしているけども。
誰も馬小屋で生まれたキリストの話なんて一言もしておらず、恋人とイチャイチャしてたり六本木のイルミネーションをみたりと、その記念日が生まれた時とは姿かたちが完全に変わった異形のものとして、コンテンツが消費されるようになった。
日本人は妙に祭日が好きだ。個人的には別に元旦だろうがクリスマスだろうがバレンタインだろうがただの365日中の1日だとしか思わないのだけど、どうやら普通はそうではないらしい。
近年、この記念日の中で最も大きく重要度が増したのはハロウィンだろう。僕の頃なんてあって無いようなものだったハロウィンは、今では大きな大人が変なコスプレをして街中を歩くことができる一大イベントになってしまった。なんでこんな事になってしまったのだろう?
余暇が増えた事により、日常生活自体のエンタメ強度が上がってってる
かつてと比較して、世の中は大きく変わってきている。ほんの10年前までは携帯ゲーム、携帯電話、音楽再生プレイヤーが大流行していたけど、今はスマホ一台あればそれらは全て包括されてしまっている。
テクノロジーのレベルが上がるにしたがっていって、世の中での常識はどんどん入れ替わっている。基本的には技術レベルが向上すればするほど、世の中には余裕が生まれていく。
余裕が生まれるという事は、≒暇になるという事だ。人は退屈に耐えられる存在ではないので、短時間でできるそこそこ面白い暇つぶし行為に需要が生まれる。
現代人は結構忙しい。スマホゲーをやりながらYou tubeをみて、LINEで友達とスタンプを送り合っている。別に誰でもできる普通の行為だけど、仮にこれを江戸時代の人がみたら極めて驚愕するだろうことは想像するに難しくない。
かつての江戸時代の人々と比較すれば、我々の日常生活(=ケの日)はどこからどうみてもハレの日そのものである。つまり現代人の日常は、ホモ・サピエンスが誕生した時から考えれば毎日ハレの日を経験しているのと殆ど等しいものだとも言える。
日常生活そのものがハレの日クラスのエンタメ度を持っているのだから、本来ハレの日であるはずの元旦だとかバレンタインデーだとかクリスマスのような日はそれよりも持っとエンタメ度を高めなくてはいけない。というかそうでもしないと、より楽しめる日常がどこにもなくなってしまうのだ。
おそらくこれが、近年記念日が妙に重要視される理由の1つなのだ。SNS等で今日が記念日だという事が周囲に周知される事がこれにさらに拍車をかける。
こうして記念日の重要度がどんどん増していき、従来の年中行事はより高度なテクノロジーが使用されたクールなものへと置き換えられていく。年賀状の次に破壊される年中行事はいったい何であり、AI・VR時代のバレンタインデーやクリスマスはいったいどんなものになってしまうのだろうか?僕は今からわくわくが止まらない。
いやはや。新年早々楽しい事態になりそうである。