珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

本当に医者は足りないのか

医者の数が足りないと常々言われている。果たしてこれは正しいのだろうか。

 

こういう問いを立てるときは、まず定義を疑う事、そして極端な例を考える事をするとよい答えが思い浮かびやすい。では問いを少々いじって、例えば縄文時代に医者の数が足りていたのかどうかを考えてみよう。

 

何をいってるんだ。その時に医者なんていないだろうという答えが返ってくるのが目に見えるようにわかるけど、それがまずこの問いを解く第一のポイントである。

 

そもそも医者とはなんなのであろうか?縄文時代に医者がいないという回答は万人が納得するかもしれないけど、では医者って何ですか?と聞かれると殆どの人はモゴモゴしてしまうだろう。

 

流石に縄文時代に医者を要求するのは酷なので、これを江戸時代と変えてみよう。ターヘル・アナトミアで有名な杉田玄白の時代。

 

当時は抗生剤もないし、手術なんて出来なかった。心筋梗塞になっても何も出来ない。つまり、この時代は医者にかかろうがかかるまいがどうしょうもない時代である。さてまた問いを変えてみよう。江戸時代に医者は足りていたのか?

 

この問いを江戸時代の人に聞けば「金持ちしか医者にかかれない。貧乏人の為の医者が全くいない」と答えるだろうし、現代の医療技術を知る人に言わせれば「どうせ医者がいようがいまいが基本的に何もできない。医者なんていらないだろう」と答える事だろう。

 

この2つの問いを照らしあわせて考えてみると、どうやら医者というのは、その当時の技術を用いて人を癒す人と定義できそうである。江戸時代の人は江戸のレベルの医療を期待するから、医者が足りないという。現代の人は現代の医療技術を想定するから、そもそもこの時代に何もできない事がわかってしまうから、医者が不必要だと回答する。

 

さて初めの質問に戻ろう。医者は足りているのか、という問いだった。ではまた再度質問をこねくり回してみよう。そもそも、医者が足りている時代というのは存在するのだろうか?

 

先の江戸の回答では、医療をうけられるのは恐らく身分がよい権力者に集中していただろう。権力者の立場にたてば、医師数は十分だろう。だけど庶民まで含めて全ての人を診ようとするとなると、医者の数は全然足りていない。

 

これで回答できる準備がやっと揃った。医者は足りていないのか。この問題は2つの構造的問題を抱えているのだ。

 

①どこからどこまで救うのか。

 

②どこまで医療技術を追求するのか。

 

まず①どこからどこまで救うのか。であるけど、全ての人に同じレベルの医療を提供する、という事が果たして可能なのか、そもそも全ての人を救う必要はあるのか、という話なのだ。

 

有名な話だけどアメリカでは虫垂炎になるだけで700万円を要求されるので、医療保険に入っていない人は救急車をほおりだされるとのことだ。日本ではもちろんそんなことはないのだけど。

 

この話は実に的確に医療を表していて、そもそも医療は有史上、常に高コストなので金持ちを救うだけならばまだしも、全ての人間を救おうとするとどこまでも際限なく医療費は膨らみ続けてしまうのだ。

 

おまけに金持ちは生活がいいので、基本的には病気になりにくい。つまり現代の医師数が何故足りないのかというと、高コストな産業形態にもかかわらず、利益を追求できない税金のみを主体とした弱者救済制度という矛盾に矛盾を重ねた制度のもとになりたっているからなのだ。

 

さて②どこまで医療技術を追求するのか。なのだけど、つまり医療の技術をどこまで追求するかで医師の必要とされる程度は全然変わるのだ。

 

たとえば江戸時代のレベルまで医療レベルを落とすなら、そもそも医者なんていらないのである。だってなにもできないのだから(カウンセリングだけならばできるけど)

 

それを現代最高峰のレベルまで要求してしまうと話は物凄い難しいことになる。具体例をあげて説明しよう。

 

どうも最近体重が減るので癌でもあるのではないか、と内科医を受診し身体診察をうけたところ、癌が疑われた。勧めにしたがってCTを取ることとした。

 

まず癌を見つけるのにCTを専門医にみてもらおうとする(放射線専門医が必要になります)

 

さてそれが取りきれる癌だと判断された。今度は外科医が必要になります(ちなみに癌をとれるようになったのは現代になってからです)

 

術後にどこまで癌が広がっているのかを計測するために病理診断をする’(病理診断医が必要になる)

 

術後の感染症の予防の為に、抗生剤の選択は何が最適なのかを考えてもらう(この時点で感染症内科医が必要になる)

 

次に転移が疑われたので、抗癌剤の選択が何がいいのかを調べることになる(腫瘍内科が必要になる)

 

最後の最後に余命が3ヶ月と宣言され、緩和医療に移る事になる(緩和医療専門医が必要になる)

 

この流れだけでも十分だと思うけど、江戸の時代なら多くて一人で十分だった医者が、現代では七人も必要となるのだ。

 

医療レベルは上がれば上がるほど知識量が膨大になり、一人ではできない作業形態へと推移していく。そして各専門家が必要となり、必要な医師数が増大していく。つまり医療技術の要求度合いを最先端まであげると需要は際限なく膨らみ続けていく。

 

やっとこれで回答がでそろいそうだ。

 

つまり医者の数が足りない、というのは

 

[日本人が、老若男女構わず全ての民を、最先端の医療技術で救おう]とするから足りないのだ。

 

この構造のどこかを妥協すれば、医師数はその時点から必要十分になる。江戸時代の例を出すまでもなく、医療技術のレベルを落とせば極論だが医者なんて必要ないのである。人はどうせいつか死ぬのだし。

 

では何故そうしないのか。もちろん自民党の政策もあるだろうし、マルクス主義者なら資本主義の転覆を恐れる人々の策略だというかもしれない。でも僕の答えは違う。

 

多分、現代の日本人は優しすぎるのだ。

 

考えてみて欲しい。このご時世に、不景気にもかかわらず日本にはホームレスがほとんどみられない。失業率だって先進諸国とくらべても非常に低い度合いで抑えられている。

 

政治は勿論色々な思惑で動いているのだけど、根本的には国民の集合的無意識がもとになっているのではないかと思う。日本人は優しすぎるのだ。だから無理をしてでも頑張ってしまう。もちろんその無理が仇となり、うつ病患者が増えたり自殺者が増えたりしてしまったりもするのだけど。

 

僕は医者が足りないと声高に言い続ける日本人の性根のやさしさを誇りに思いつつ、いつか日本人の無理が報われる日がくるといいな、と思っている。たとえそれが僕の死後であれ。