珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

身体に障害を持つことになってしまった人の人生のスピード感はどういう感じなのだろうか

僕たちは自分の身体を意のままに、それなりにスムーズに操る事ができる。障害をおうまでは。

 

渋谷の大通りをあるいていると、時々杖をついてゆっくりを歩みをすすめる人をみかける事がある。昔はそういった人をみても「邪魔だなぁ」としか考えなくなったけど、最近はそういう人の人生のスピード感はどういうものなんだろうかという事に非常に興味がわいてきている。

 

世の中には仕事が凄く早い人もいれば、遅い人もいる。しかしその人自身からみれば、自分の仕事のスピードというのは自分が絶対基準なわけだから、自分の行動が早いとか遅いとかいう風に感じる事はないだろう。他人の仕事については色々思うことはあるだろうけど。

 

基本的には人は人生のスピード感は早ければ早いほどいいと思う傾向がある。仕事は早く終わらせるのが良しとされているし、生産量は高ければ高いほどよいとされている。けどそうやって人生のスピードをメチャクチャに早めたとして、一体何が手に入るのだろうか?

 

昔の知り合いで、非常に仕事ができる人がいた。ある時、彼を病魔が襲った。鬱病である。その日から彼の能力は著しく下がり、彼の人生のスピードはものすごく低下した。それをみて僕は愕然とし、優秀で自分と比較してエンジンの性能が高性能だからといって、人生が順風満帆に全てうまくいくというわけではないのだな、と。

 

障害者にもいろいろな方がいらっしゃる。運悪く交通事故に巻き込まれてしまって四肢の自由があまり効かなくなってしまったタイプの人もいるだろうし、難病に罹患して身体の自由が制限されてしまうタイプの人間もいるだろう。

 

僕は今、もの凄く充実した生活を送っている。人生のスピードも、どんどんどんどん高めていく事ができるという実感がある。スピードを上げるのはものすごく楽しい。自分でもこれがどこまでいけるのか、正直良くわからない。

 

ただ運悪く障害を持ってしまった人を見るたびに思うのだ。人生で本当に大切なのはスピードではなく、自由だと。周りと比較して遜色のないスピードで動けさえすればそれで十分なんじゃないかと。

 

けれどそれと同じくらい思うのだ。自分はまだまだ早くなれる。もっともっと早くなるべきなのではないか。

 

この矛盾した感覚がどういう風に落ち着くのかがイマイチよくわからない。そろそろ自分が走るのをやめて、人が走り抜けるのをサポートする事に自分の人生を費やすべきなのかもしれないとも思うのだけど。

 

この何ともいえないもやもや感を、みなさんどういう風に処理していらっしゃるのでしょうか?