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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

世の中の生きにくさを外部に求めても何も解決しない

年末年始で時間があったのでフェミニズムの本を読んでいた。インターネット上であそこまで人の話を全く聞かずに他人を断罪しまくる人が多い党派の思考回路がどういうものなのか非常に興味があったからだ。

 

長々と色々書かれていたけど、その本がいわんとしていた事は以下の三段論法であった。

 

「イジメられっ子(差別される側)はイジメがある事を認識しているけど、イジメている側(差別する側)はそこにイジメがある事を認識していない」

「世の中には多くの男女差別が組み込まれている。世の男性は上の論法にただし合わせてみれば、イジメっ子側(差別する側)である。故に男女差別がある事自体を全く認識していない」

「つまり男性=イジメっ子(差別する側)である。イジメっ子(差別する側)は100%悪い。だから男性は悪である」

 

そしてこの論法を元に世の様々な男女差別を紐解いていき、世のフェミニストよ。団結せよ、といった言葉でその本は締めくくられていた。

 

読んでいて言われてみれば確かになぁという種類の差別があったのは事実だ。そういうものはちゃんと反省すべきだとは思った。

 

ただ、あげられている事例の中には「それエビデンス何にもないし、はじめっから男性が悪いありきでものが考えられてないか?」というものも結構あったし、そもそもこの三段論法を頼りに自分の人生の指針を決めていくのは非常に危ういのではないかとも思ったのも事実である。今日はその事について書こうと思う。

 

人は誰しも固有の生きにくさを持っている

この世に不満が全くないという人はかなり稀だろう。大なり小なり、人は生きにくさを含有しつつ日常生活を送っている。

 

「この生きにくさがどこに起因するのだろうか?」

 

誰しもが一度ぐらいはこう考える。ただまあ普通の人はそんなに真剣には考えずに、日々を適当に過ごすものだと思う。

 

ただごく一部の人達は、それを物凄く真剣に考えすぎてしまい、そしてその原因を男女差別だとか現政府だとかに見出してしまう。前者が一部の過激なフェミニスト団体の人達であり、後者がSEALSのような団体である。

 

この人達の思考は、上に書いた「イジメっ子=悪」という結論ありきの三段論法で構成されている事が多い。ゆえに多くの場合において、自分が虐げられたかわいそうな存在であり、自分は報われるべきだという考えが非常に強固だ。

 

だから自分にどんな理論破綻があろうが「私は虐げられたかわいそうな人→だから私は正しい」という超理論が元にあるため、対話が全くといっていいほど成立しない。これは非常に強固な自己洗脳であり、紐解くことは非常に困難である。これが一部の過激団体がなぜああも過激であり続けられるのかの理由である。

 

僕はこれは一種の呪いのようなものだと思っている。

 

人は誰しもが生きにくさを感じつつ生きている。けどそれは生そのものに伴う苦しみのようなものであり、生きるにあたって抱えていかなければならないようなものだ。少なくとも超克できるタイプのものではない。

 

実は世の中の生きにくさというものは、自分の外にあるものではない。自分の中にあるものである。自分の生きにくさの原因を正しく直視していくと、それは様々なコンプレックスが元となっている事が非常に多い。外部にある様々な社会悪(と自分が思っているもの)は、そのコンプレックスの増強剤であり、その社会悪を是正した所で自分の中にある劣等感自体は消滅しない。

 

仮にだけどフェミニストが男女同権を作ることができたり、SEALSが安倍政権を転覆させる事ができたとして、果たして彼・彼女らの生きにくさは根本的に解消されるのだろうか?僕はまず100%解消されないだろうと思う。そうなった時に彼らがどうするかというと、どうせまた次の生きにくさの原因を見つけてそれを糾弾するだけだろう。

 

繰り返しになるが、私達が生きにくいのは社会に問題があるからではない。自分の心の中に問題があるからである。そしてそれは、キチンと自分のコンプレックスを直視して、それを一個一個解決していく事でしか解決できないものである。

 

これは地味だし面倒くさいし敵が自分の中にあるから向き合う過程自体に苦痛があるのだけど、それに向き合えないままじゃ、いつまでたっても永遠に生きにくいままである。

 

私たちは世の中の格差とか差別とは適切に付き合わなくてはいけない

「けどさ、世の中に差別とか格差があるのは事実でしょ?だから差別を糾弾するのは当然の権利だと私は思うし、あなたのいうように差別がないかのように思うことはできない」

 

上記のような記述に対して、こういう意見が出てくるだろう事は想像に難くない。そしてその意見自体には僕もある程度は賛同する。

 

ただ現実問題として、このグローバルな世の中には格差も差別もメチャクチャにあふれている。私達が安くて美味しい食べ物を食べることができたり、安くてそこそこ性能がいい洋服を着れるのは、低賃金で長時間働く発展途上国の安い人件費を利用しているからだ。

 

政治的に正しい意見を元に考えれば、同一労働同一賃金の原則が善であり、発展途上国の人達は僕達と同じような賃金を貰わなくてはいけないはずだけど、そんな事を全力でOKする人は全然いないだろう(いないからこそ、格安でサービスを利用できているのだ)

 

現代のグローバル社会で豊かに生きるという事は、格差をある程度認めるという事と同義である。グローバル化が非常に先に進めば究極的には世の中はフラットになるのかもしれないけど、そんな社会は少なくともあと100年はかかるだろう。

 

世の中には様々な正義が存在する。ある一面だけを切り取って考えると簡単な正義と悪の二項対立でみれる物事も、より高次な次元に立ってみるとそんな単純なものではない。世の中には正義も悪も、沢山存在する。

 

繰り返しになるが、現代社会は完璧ではない。だからそこに問題があるというのは事実である。そしてそれをちょっとづつ良くしていかなくてはいけないもの、また事実である。だけど世の中には数多くの問題が存在しており、簡単には解決できないものばかりである。だから清濁併せ呑んで生きていくぐらいの覚悟が丁度いいのだ。

 

結局私たちはどうするべきなのか

現代社会の構造上の問題は一気に好転することはありえない。せいぜいちょっと良くしていける位が関の山である。

 

僕も僕の信じるよりよき社会の為に、ちょっとづつは社会改革に取り組んでいる。けどその社会運動は、自分の為に行うものにあらず、次世代の為に行っているものだ。少なくともその活動には自己の救済は全く求めていない。あくまで自分の生きにくさは自分固有のコンプレックスからきており、社会の悪はその増強剤であるという風に認識しているからである。

 

結局ね、勧善懲悪のわかりやすい二項対立の世界に私たちは生きることはできないんですよ。それがしたいのならば、一度ヤマギシ会のようにグローバル社会から完全に逸脱して、完全に自給自足で生活し、全ての責任を自分とその共同体の責務として負うようにしてみればいい。それをやってみればわかるけど、グローバル社会から抜け出して生きる事がどれだけ難しいかが嫌でもわかりますから。

 

だから私たちにできる社会貢献は、新しいテクノロジーを生み出したり、新しいサービスを生み出したりとかして、世の中に1つでも多くの金と雇用を生み出す事なんですよね。そんで作った余裕で快適に生きられる人間を一人でも増やすのが、何よりの豊かな社会への道ですから。

 

社会にはまだまだ余裕が足りないのです。この世界に豊かさをガンガン増やし、誰もが笑顔でいられるように、明日からみんなも頑張りましょう。