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アツアツだよ(´・ω・`)

”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば人生は驚くほど楽になる

最近読んだ本の1つで格闘家の青木さんの「空気を読んではいけない」が結構面白かった。今日までセール中で600円ぐらいと半額なので、興味ある人は読んでみるといいと思う。

 

 

空気を読んではいけない (幻冬舎単行本)
 

 

この本は青木さんの人生論であるわけだが、個人の生存競争の方法論としてもなかなか勉強になる事が多いので、今日は閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)における生存戦略を絡めて筆をとることにする。

 

閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)

世間には様々な尺度がある。家族ならば構成員は多くても5人前後だけど、これが学校のクラスになれば30人程度、医者などの職能集団ともなれば、数万~数十万もの人により、”世間”が構成される。

 

所属する”世間”によって、そこにおけるルールは当然異なる。家庭ならば基本的には親が最も責任ある立場をつとめるし、会社ならば役職によって身分が異なる。これらは基本的には覆さえる事のない、ルールに沿った制度によって運営される集団だ。

 

一方、これがクラスとか競技スポーツになると話は変わる。クラスならば、基本的には評価尺度は顔や面白さといったものが評価の尺度になるし、競技スポーツば実力がものをいう世界である。

 

これらの世界は、その閉じられた体系の中で自然と作られたルールによって上下関係が決定される。学校社会なら、太ったオドオドした人間は基本的にはカースト下層を押し付けられがちで、これを覆す手段は基本的にはほとんどない(多少のカーストの上下はあるかもしれないけど、大きく変わることはほとんどない。これだから学校のいじめ問題の解決方法は、基本的にはいじめられっ子をその空間から出して上げる以外に方法がない)

 

繰り返すが、学校のような社会は閉じた世界である。カースト上位はずっと安穏としながらカースト上位であり続けたい。だから外からのルールの輸入を激しく嫌う。何故ならば、それを認めてしまうとカーストをひっくり返される可能性があるからだ。

 

「空気を読んではいけない」の中で、青木さんは教師にとことん歯向かう姿勢を出した結果、クラスから疎外にも近い扱いをうけているけども、これは当然といえば当然の話しだ。だって先生を頂点とするクラスという”世間”のルールに歯向かっているのだから。

 

青木さんの例に限らず、能力がある人は結構幼少期にイジメられる事が多い。鼻息が荒くて生意気だったり、頭が良すぎて自分よりも頭の悪い教師に従うのが嫌だったり。まあ色々原因はあるのだけど。

 

こうなると”世間”はルールに従わないものを”疎外”という形で最下層カーストに押しやるしかやることがなくなる(ルールを守らない人間は、”存在しないもの”としないと、カースト制度が成立しないのだ)

 

ここでまずハイスペは”疎外”される事に結構傷つく。ただ傷ついたら傷ついたで、今度は自分一人で生きていかざるをえなくなるので、次に何らかの活動に1人で没頭するようになる事が多い。

 

それでしばらくすると

 

「みんなに無理に合わせないでも、全然生きてけるじゃん」

 

という現実を肌感覚で理解する。こうなると後は早いもので、だいたいその活動を評価してもらえる集団を見つけ出して、今度はそこで精を出すことになる(当然と言うか全員がうまくいくわけではなく、多くのハイスペはそこで高い壁に直面して鼻をへし折られるのだけど)

 

これを僕は、閉じた世界から、開かれた世界へと活動の場を移すという風に表現している。あなたがもし、集団内で下されたカーストに満足できず、そこで埋没したくなかったら、文字通り”空気なんて読んではいけない”。そこを脱却して、自分が正当に評価される所に活動場所を移せるよう、努力しないといけない。

 

まあ人間、無理して集団になじまずとも1人で何とかなるもんである。こうして”スキル単独行動”を体得した人間は、閉じた世界で周りのみんなに合わせて行動するといった肩身の狭い生き方から脱却できる。

 

孤独も、そう考えれば悪いものではない。

 

開かれた世界での生存戦略

ただ、開かれた世界にたどり着けたからといって安心はできない。いくら開かれた世界とはいえ、そこにはある程度のルールがある(そしてルールがあるからこそ、それを逆手に取ることで勝利をいくらでも手にすることができる)

 

”空気を読んではいけない”の中で青木さんは、「柔道界では背負投や体落としといった技が評価される傾向があった。体格にそこまで恵まれていなかった自分は、そういう王道の技で勝利は手にしにくかったため、様々な他種目の格闘技から技を盗み、それを使って勝利をもぎ取っていった」といった趣旨のことを書かれている。当然と言うか、このスタンスは王道派からは邪道とされ、柔道界ではかなり嫌われたという。

 

当たり前だけど、どんな世界であれ、ある程度の伝統ができてくると、”皆が好む正しい風習”がなんとなく出来上がってくる。そしてそれに適応する個人が、より好まれるようになっていく。こういうときに、外からの技術を輸入して、”ルールに違反しない形”で”技術を応用”できるようになると、アウトライヤーは一気に勝ち抜くことができる。

 

例えば生物学。かつては分類学や形態観察といった手法が頂点とされていたこの業界だけど、遺伝子解析といった技術を、物理や数学といった手法で行うようになってから、かつて評価れていた人達の権威は地に落ちた。ワトソンとクリックの例をあげるまでもないだろう。

 

例えばヒト。かつて地球上には我々ホモ・サピエンス以外にも多くの種がいた。その多くは我々と比較して、体格的に恵まれており、動物という種の中ではホモ・サピエンスは最弱とはいわないまでも、弱小クラスタだったのは事実だろう(私たちは象にもライオンにも、下手すれば犬にすら勝てない)

 

なんでそんな弱かったホモ・サピエンスが、この地球を埋め尽くしているのだろうか?その秘密の1つとして、投擲具の開発が重要だったというのが、現在の人類史の通説だ。

 

原始の投擲具は、2つに折った布の間に尖った木の棒を載せて投げるという、今の私達からすれば単純この上ないこの装置だったそうだけど、これがホモ・サピエンスが他の主を圧倒しはじめたキッカケだと言われている(この装置は慣れると50mぐらい先の標的を射殺す事ができるという)

 

私たちは筋力では他の種と全く勝負にもならないが、投擲具という”たった1つのアウトライヤー”にとって、この世界の頂点に上り詰める事となった。これも動物界からみれば邪道以外の何者でもないだろう。だけど結果として、勝ち残ったのは人類だ(そしてこの投擲具は、弓矢、銃、大砲、原爆と、どんどん姿かたちを変えて発展していっている。人の歴史は、技術でも頭の良さでもなんでもなく、投擲具による暴力による格付けでしかないのだ)

 

雑種がサラブレットを追い抜く日

とまあこのように、この開かれたグローバル社会では、”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば、他人を圧倒的に出し抜くことができる。その結果人生が、驚くほど楽になる。

 

好きで生きるという言葉があるけども、それを既存のルールに乗っかった形で実現しようとすると、それはもう天賦の才能を持った人にしかできない狭き道しか残されていない。

 

それゆえにサラブレットではない我々雑種は、”好き”で生き抜くために、”孤独な努力”と”他分野からの勉強”を怠ってはいけないのである。逆にいえばそれさえできれば、結構人生、なんとかなるもんだ。

 

なお空気を読んではいけないは、それ以外にも勉強になるエピソードが沢山ある。ぜひとも骨の髄までしゃぶり尽くしてほしい。