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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

続・「君の名は。」を様々な角度から考察する

日々徒然

見終わった勢いで書いた「君の名は。」の考察が予想以上に読まれたみたいで、結構驚いた。まあみんな同じこと思ってたんだなぁという事がわかり、著者としても納得した。

 

沢山読んでくれたお礼というか、あの記事の中に書かなかった事が幾つかあるので興味がある人向けにそれらを追記していくことにする。なお当たり前というか当然の如くここから先は「君の名は。」のネタバレ満載なので、未視聴の人は是非とも週末にでも期待して見に行ってくれ。面白いよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君の名は。」はシンメトリカルに作られている事を意識すると、更に深く読み解ける。

上に公式ビジュアルガイドの広告を置いたのは、アフィで儲けるためではなく「君の名は。」が全体にわたってシンメトリカルに描かれている事が意図されている事を伝えたいからだ(ポスターにも使われたこの絵をみればわかるけど、右と左で絵が対称的に作られている)

 

この物語は瀧くんサイドと三葉サイドで、物凄く対称性を意識してストーリーを展開している。ざっと思いついた所でいえば

 

1. 瀧くんの家庭も三葉の家庭も母親がいない、父子家庭である。

2. 行動する時はだいたい3人一組(瀧くん+男子2人、三葉+土建屋+放送部or祖母+三葉+妹、など。この3という数字は、お互いの間で離れていた3年間と関連しているのかもしれないけど、これは深読みのし過ぎかもしれない)

3. 瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった時点で、両者が両者とも涙を流すシーンがでてくる(これは重大な意味が隠されているかもしれないので、後でまた追記する)

4. 両方の主人公ともに自分に好意を抱いてくれているモブキャラがいる(瀧くん→先輩、三葉→土建屋の息子)

5. そしてそのどちらも、主人公とは異なる人と結婚する

 

とまあ数え上げればキリがないぐらい、対称性が意識されている。だからどことどこが対応しているのかや、ストーリー上で対称性のほころびが見える部分に着目すると、この物語のおかしい部分が見え始めてくる。これについては後でまた書くことにする。

 

隕石が衝突するあの日、なぜ瀧くん演ずる三葉は聖地に向かったのか

かなり練りこんで作られたこの物語で、まず誰がどうみてもおかしいとはじめに気がつく箇所が、隕石が衝突するあの日、瀧くん演ずる三葉が「父親の説得に失敗」した後に、「あそこに三葉がいる。会いに行かなくちゃ」と、口噛み酒が置かれている聖地へ向かうシーンだ。

 

「あと数時間で隕石が糸森町に衝突するというのに、なにをこいつは悠長な事を言ってるんだ。おまけに聖地まではかなりの距離がある。そんなところに行って戻ってくるような時間の余裕なんてどう考えてもないだろ」普通はこう考える。僕もこの辺で凄い違和感を感じた。

 

それに冷静に考えると、あの聖地に「三葉がいる」と考えつくのはどう考えてもおかしい。確かに瀧くんは三葉の口噛み酒を飲んでこちら側の世界にループしてきているわけだから、それに対応する三葉が瀧くんの体に乗り移って聖地にいると考えれるのは全くおかしい事ではないかもしれないけど、その後の物語展開をみると、瀧くんは自宅で彗星を見上げており、ちょっとやっぱりシンメトリーがここで崩れている。

 

じゃあ何故瀧くんは聖地に向かったのか。僕は前回の考察で、この物語は二回ループする事を想定しているという話をしたけど、元々想定されていた物語はたぶん以下の様な流れだったのだ、と考える。

 

1.土建屋の息子の爆弾爆発による陽動失敗

2.放送部の女の子がつまみ出される

3.瀧くん演ずる三葉が父親を説得するのに失敗

4.隕石が街に衝突(三葉は死なないまでも、致命傷を体に受ける)

 

こう考えると瀧くんが聖地に向かう理由が凄くしっくりくる。

 

三葉の祖母が説明していたが、口噛み酒が置かれた場所は「あの世」である。じゃあ、あのくぼみを作っているあの山は、この世とあの世の境目と考えるのが妥当な解釈だろう。

 

なんで瀧くん演ずる三葉は、聖地に「あそこに三葉がいる」と言ったのか。それは本来あったはずの物語では、隕石衝突後に瀧くん演ずる三葉は瀕死の重傷を負って、限りなく魂が「あの世」に近づくのだ。そういう存在になったとしたら、聖地≒あの世とこの世の境目に「三葉がいる」と感じるのはごく普通の認識となる。

 

聖地で瀧くんと三葉は、どうしてあのような形で出会いそして別れたのか

この映画で最も美しい場面である、夕暮れ時に聖地で瀧くんと三葉が出会うシーン。このシーンの出会い方もなかなか示唆的だ。

 

お互いがお互い、声だけが聞こえる状況の中、両者の距離が限りなく近くなった瞬間、お互いの姿が浮かび上がる。実に綺麗なシーンで、さすがは新海誠先生が作った映画だけはある。

 

けどこのシーンですごく不思議なのが、なんでお互いの姿が途中まで見えなかったのかである。演出の1つだといわれればそれまでだけど、かなり丁寧に作られたこの映画なのだから、僕はここに何らかの意味があるに違いないと考えていたのだけど、これはきっと「死者≒三葉」の存在に、ループ中の瀧くんが限りなく死者に近づいたからこそ、ああして出会うことができたのではないか、と考えると非常に納得ができた。

 

そして出会った2人だけど、その後瀧くんはなぜ三葉の前から消えてしまったのだろうか?これはループ中の瀧くんはあくまでも生者であり、ループ中に死んだからといって、所詮本当に死ぬわけではなく、本来の世界線≒生者へと魂が戻った≒生者の世界に戻ったと考えると、凄く納得がいく。

 

あとは前の考察にも書いたとおり、妹の口噛み酒を使って再度ループに突入し、全員の力を合わせて糸森町を彗星の危機から救いだした、と考えるのが僕は妥当な展開だと思う。

 

最後がハッピーエンドに終わったのは、対称性のもつれの暗示なのかもしれない

僕は前の考察では

 

”本来のエンディングは、別々の電車の中に乗り合わせた瀧くんと三葉は、お互いの存在に気がつくものの、相手の事を思い出せず、自然と涙が頬をつたって「あれ・・・なんで俺(私)、泣いてるんだろう」と言って、その後、電車が別々のルートを進むというエンディングだったんじゃないか”

 

と考えた。なんでそう思ったのかというと、そうじゃないと瀧くんと三葉の体の入れ替わりがなくなった事の暗示で”涙を流すシーン”を用いた理由がイマイチはっきりわからなかったからだ(終盤で、涙を使って永遠の別れを言葉少なく暗示するんじゃいかと想定していた)(あと四葉の口噛み酒を酒を使ったペナルティとして、やっぱり離別がしっくり来るんじゃないかなと考えたのもある)

 

実は上のシンメトリーの項目にはあえて書かなかったのだけど、この物語は初めに強力な対称性がかけられている。それが”愛しあう男女の死別の定め”である。

 

三葉の母は死んでおり、瀧くんの母親も(書かれてないけど)たぶん死んでいる。そして何より、糸森町を襲った大災害により、”三葉”が”瀧くん”と死別している。

 

この物語の最大のシンメトリーは、愛しあう男女の死別なのである。

 

それがこの物語では街が災害から救われてからちょっと流れがおかしい。まず土建屋の息子と放送部が結婚しているし、先輩も結婚している。どうも”大災害から逃れることができた世界線”では、愛しあう男女は死別の苦しみから逃れられるようになったといわんばかりの展開である。

 

そう考えると、実はこの物語がハッピーエンドで終わっているのは、ひょっとして”対称性のくずれ”という新しい世界の始まりの暗喩なんじゃないかという気もしないでもなくなってきた。そう考えると、あのラストも割と納得がいく。まあ新海誠が、そういう”お約束からの開放”という手法を物語に取り入れられるようになったのは喜ぶべきことなのかもしれない。

 

とまあこれで僕の「君の名は。」の考察はひとまずおしまいだ。これから小説版とアフターでも読んで、この物語との長い付き合いも終わりにしようと思う。

 

長々と二記事も読んで頂き、ありがとうございました。

 

takasuka-toki.hatenablog.com