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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

心の中でどう思おうが結果良ければそれでよし?かどうかを考える

妻を女子大生だと思う事にしたら険悪だった関係が無茶苦茶改善した、という記事を書いたら一部の人から「相手を見下している酷い旦那だ」といった趣旨の言葉を頂いた。

 

正直な事を言えば、そういう要素が僕に皆無だとは言いがたいのは事実ではある。この問題について今日は少しだけ面白い話をしようと思う。

takasuka-toki.hatenablog.com

 

ケーススタディ。バンドマンと大学生

あるマンションの2階にバンドマン志向の若者がいた。彼は毎晩毎晩遅くまで音楽の練習を夜通しで行っていた。

 

同じマンションの1階に司法試験に向けて必死で勉強している大学生がいた。彼は2階から流れる騒音にイライラしており、毎夜毎夜バンドマンへと文句をつけに行っていた。

 

数ヶ月の時がたつにつれ、バンドマンと大学生の関係は決定的に亀裂が走る事となり、お互いが顔を鉢合わせるだけで血みどろの喧嘩が行われる事となった。マンション中ではバンドマンと大学生のどちらかがどちらを殺してしまうのではないかという噂で持ちきりだった。

 

困ったのは大家だ。もし殺人事件がおきてしまったら、マンションの価値は激減してしまう。

 

そこで大家はまずバンドマンの部屋を完全防音にした。さらにバンドマンと大学生の出口のドアの場所を変更して、彼らが絶対に鉢合わせにならないような構図を作り上げた。

 

これでバンドマン、大学生は完全の別の空間で生きる事となった。争いごとはなくなり、マンションに平和が訪れた。めでたしめでたし、である。

 

この物語にケチを付ける人は多分あまりいない。全員が幸せになった。わかりあえない人とはかかわらないで暮らすのがいい。ザッツオール。

 

けれどこれをバンドマンをコーランを大声で読み上げるイスラム教徒。大学生を神学の勉強をしている敬虔なキリスト教徒と置き換えると物事が非常に複雑になる。

 

もちろん上手くやってるイスラム教徒とキリスト教徒だって世の中にはたくさんいるけど、世の中には宗教関係で血を血で洗う抗争が行われているというのも、また事実である。仮にイスラム教徒とキリスト教徒が全く関り合いにならないような世界が平和だとして、これを良い事であると断言できる人は少ない。バンドマンと大学生、イスラム教徒とキリスト教徒。ここに何の違いがあるのだろう?

 

宗教や哲学といった人の考えにかかわる部分の善悪の判断は難しい

私達は趣味・活動の折り合いがつかない程度の事ならば、別空間で生息する事を受け入れられる。だが宗教とか哲学の世界になると、生息空間を分ける事は差別のフォルダに区分される事となる。

 

冒頭にも書いたけど、僕は妻を女子大生と思うようにしている。これは人に対する捉え方の問題で、どちらかというと人の考えにかかわる部分の問題だ。

 

結果として我が家には平和が訪れた。僕も妻もその事を喜んでいる。事実、我が家は平和になったのだ。その事が素晴らしいのは疑いようもないだろう。ただ一部の人があの記事から感じた、言い様のない不快感についてもわからないでもない。たぶんそこが、人間というものの譲れない何かなのである。

 

わかりあえないモノ同士が殺伐として暮らす世界と、わかりあえないモノ同士が別空間で平和に暮らす世界。どちらの世界が幸せなんでしょうかね。

 

<参考文献>