珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

羽生善治さんが年を取っても最強でありつづける秘密

実は人には2つの脳がある

人間には脳が2つある。動物である生存本能や生体機能を制御する旧皮質という古い脳と、新皮質という自分を律する為の脳だ。

 

前者の脳は本能に忠実だ。快楽を誰よりも愛し、目の前の現実をみるのに向いている。その他、呼吸を意識しないで出来るのも、この脳のおかげである。

 

古い脳、新しい脳

生存に寄与する一方、目の前の美人に性欲がとどめなく溢れ浮気したくなったり、太っているのに腹が減ったり、やらなくてはいけない仕事があるのに眠たくなったりするといった長期的な目標の達成という観点でみるとマイナスになる欲望もここに起因する。

 

ただ言うまでもなくこれらの要素は、種としての生存本能として大切なものである。これがあるから僕らは西暦2015年という途方もなく長い時間を生き抜いてこれた。動物として、素晴らしい脳の機能である。

 

その一方、大脳新皮質もまた大切な脳だ。この脳は自分を律する事に長けており、先の未来を読む力を得意とする。不倫をしてはいけない。一年後の大学受験の為に今という大切な時間を勉強に費やす。体重をこれ以上増やさない為に、今日は大好きなラーメンではなくサラダを食べようと決意する。

 

新皮質は長期的な目標の為に自分を制御する為の脳だ。ただこの脳の歴史は浅いため、幼い頃からゆっくりと鍛えていかなければならない。子供の頃にゲームの時間を制御したり、小中高とじっと机の上に座ったりといった一見無意味なそれは、この新しい脳の機能を鍛える為の重要な要素となっている。人としての素晴らしい脳の機能である。 

 

羽生さんが若いころの過激であった理由

例えば将棋の羽生善治さん。彼は七大タイトル制覇という、史上初の偉業を成し遂げだ。才能は人一倍優れているのは言うまでもないだろう。

 

その彼だが、若い頃は酷く強気な発言が目立っていた。かつては精神性が重視されていた将棋の世界において[将棋はゲーム、それ以上でも以下でもない]という発言をしてひんしゅくを買ったり、[上座と下座を年功序列でなく将棋の順位の上かどうかで決めるべき]という態度を出して、既得権益から無茶苦茶に批判された。

 

なんでそんな事をしたのか?多分だけど彼の仕事脳は、旧皮質と直結していたのだ。だから強いことが正義であるという動物としてのプライドを捨て去ることができなかった。ゆえにある意味では大人になれない部分があった。

 

上座下座を年功序列でなく実力で決めたがったし、一見無駄に見える将棋村の規則を平気でぶち壊した。何故か?それが自分の動物としての脳の本能と相容れなかったからだ。

 

その結果、彼は勝ちに勝ちまくった。負ければ動物としての脳からくる自分の完全否定に繋がるからだ。もしそれが否定されたら、今までの行動全てが否定されるからだ。あいつは将棋村の規則を破った。だから負けたんだ、と。それは羽生さんにとって、死ぬことよりも辛い事であったはずだ。

 

そんな羽生さんだが、最近は滅法落ち着いた。どこからどうみても、昔のヤンチャな脳を使ったイケイケヤンキーさながらな人間ではなくなった。何故だろうか。恐らくそこには、新皮質が関与している。

 

羽生さんが現在も最強なのは何故か?

一般的には将棋は年をとると弱くなる。理由は2つあり、一つは体力の減退により、集中力が弱くなり先を見通せなくなるから。もう1つは新しい物事を勉強する気力がなくなるからだと言われている。将棋の戦法は日々進歩している。毎日行われる公式戦の対局を追えないと、情報不足で最前線で戦えないといわれている。

 

そんななか、羽生さんは現在でも最強だ。どう考えても常識を超えた強さであり、普通の人にはできることではない。何でそんなに強いのか。その秘密は新皮質をゆっくりと鍛えていたからだと思われる。

 

羽生さんのエピソードは尾ひれがついたものを含めて恐ろしいものがある。一番早く、人付き合いとしての飲み会をやめたのも彼だと言われているし(将棋村は人間関係である程度なりたっている社会であり、そういう風習に逆らうのは当時ご法度だった)、勝つために将棋だけでなく趣味としてチェスをしはじめたりしている。普通の人間は当然というか勝ちたいという欲求はあるが、その為に努力し続ける事はできない。どうしても怠けてしまう。

 

そこを羽生さんは超克した。負けたら全て無意味になるという、動物としての脳の本能を忠実に実践する過程で、それを滞り無く遂行するという自己制御のための人としての脳である新皮質の機能を若い頃から鍛えてきた。今では、鍛えられたその鋼のような意志により、最前線をトップスピードで走り続けることが楽とはいわないまでも苦ではないはずだ。

 

若いころの才能を失ってしまう人がいるのは何故か?

若いころの才能は、人としてよりも動物としての要素が大きい。

 

小室哲哉ビーチボーイズのブライアン・ウイルソンチェッカーズ、これらはそういう舞台で最前線を走れる人は極端に少ない。

 

芸能人や小説家も多くは早くに才能を摩耗させる。村上春樹のような長期間にわたって最前線を走り続ける人も時々いるけど、ああいう人の生活をみると実に自分を律した生活を送っている。

 

若いころの才能は輝く宝石のようなものだ。ものがよければそれだけで輝く。それはそれで、素晴らしいものである事はいうまでもない。だけど最近僕は、年をとって更に輝く才能により素晴らしさを感じるようになった。あれこそ人の最も美しい姿ではないだろか。

 

年齢を重ねる毎に得られる美しさを追い求められるようになろう

極少数だけど、年を取れば取るほど味が出てくる人がいる。俳優なら唐沢寿明アン・ハサウェイモーガン・フリーマン、これらは若いころも素晴らしいが、年を取ったら更に素晴らしい。いや素晴らしいというか美しい。人の素晴らしさはこの美しさにあるのではないだろうか。

 

僕たちは腰が低い自信を持った人に好ましい感情を抱く。何故だろうか。それはその態度から、動物としての強さと、それを表に出さない自制心を感じ取れるからである。動物、人、その2つの強さを持てた人は種としての魅力を兼ね備えた素晴らしい存在であり、その意思の強さにヒトという種としての美しさを感じ取れるからである。

 

機会があったら、彼・彼女らの人生教訓を読むといいだろう。羽生善治さんなら羽生善治 闘う頭脳村上春樹さんなら走ることについて語るときに僕の語ること、これらはあなたに、新しい知見をもたらしてくれるはずだ。僕もいつか、彼らのようになりたい。樹齢数百年の屋久杉が、わけもなく感動をあたえてくれるような素晴らしさを内包したいものである。