珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

批判と真摯に向き合うことの意味について、僕なりの雑感

僕は先日、ブログのコンテンツ力=(筆力×筆者の影響力)という風に定義し、ブログを書いたことにより食らう批判の量はそのコンテンツ力とほぼ同量である(インターネット作用反作用の法則)という考察をした→ネット上で、正義を盾に行われる言論バトルの仕組みについての僕の雑感

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僕は今現在では、自分で思いつくレベルで全力で面白い記事を生み出そうとする事が許される環境にある。幸いのところ、まだあまり影響力が強くない事もあり、僕のブログからはそんなにコンテンツ力が高いものが出てこない。ゆえに表現技法とかもギリギリのエッジを利かせるような事ができてきた。

 

誰が言ったのか、何を言ったのか

物事において、誰が言ったのかと何を言ったのか≒(著者×著者の影響力)はとても重要だ。街の青年が反原発を訴えたところで誰も気にも留めないけど、村上春樹反原発を唱えるとインターネット上の様々な所で活発な議論が生じる。

 

先も書いたけど、僕は所詮ミジンコレベルのブロガーだからこれまで自分のブログのコンテンツ力なんてあんまり気にしてこなかった。ところが先日、ある記事でずいぶんと炎上して、それまであまり喰らわなかったようなネガティブな意見や人格批判、為になるアドバイスとかを受け取ることとなった。

 

こういう炎上が起きた時に、よくネットでいわれているのは「何かいても批判する人は絶対にでてくる。気にしても意味ないから無視しろ」という事だ。正直僕も、はじめはそれでもいいかなぁと思っていた。

 

だけど、どうも人の嫌がる面倒くさい所に何かがあるような気がしてもいた。それなので相手の言ってる事を真摯に読んで、その上でいろいろなアーキテクトを用いたりして、自分の何が問題だったのかを分析してみた。

 

はっきりいって、これは非常にしんどかった。毎晩の酒量は凄く増えたし、精神的にやられまくっていた事もあり日常生活でも暗く気分が落ち込んでいた。妻からは「あんたが何がしたいのかさっぱりわからん」といわれたし、僕自身もやってる最中はこの作業に何の意味があるのか全然わからなかった。

 

批判と向き合う意味

僕は、こういう作業を自分以外にやってる人が他にもいないのかな、と思っていくつか文献を探ってみたところ、はせおやさいさん(id:hase0831)が「ブログにためになることなんて書かなくていい」という著書の中で、批判に向き合う事について誠実に触れられていた(批判に向き合う作業について触れている本は非常に珍しいと思う。少なくとも僕は他にはみつけられなかった。ブロガーは全員読む価値がある名著です)

 

僕は前からはせさんのブログを時々読むことがあったのだけど、彼女のブログの文章は非常に真摯で、ある方面への人が傷つかないことについて非常に配慮されているなぁと思っていた。その回答がみられたような気がして、何か得した気分だった(その他にもブロガーあるあるが多くて何回もうなずいた事を追記しておく)

 

この本を読んでいてふと気がついたのだけど、自分に向かってくる批判についてしっかりと向き合うという作業は、自分の生み出したコンテンツ力から跳ね返ってくる反作用の耐用量の増大になるのじゃないかな、という事だった。

 

たとえば僕のコンテンツ力が100。批判からの耐用力が100だとする。このとき、僕が全力で記事を書いてたまたまコンテンツ力が120ぐらいの作品が出来上がって、120の批判が僕に向けて発信されたとする。

 

このとき、今現在の僕には批判耐用力が20ほど足りていない。しかし批判に真摯に向き合うことで、この耐用力を少しづつあげる事ができる。結果、対応力が20あがる。

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こうして、批判に向き合う作業をしないである人のコンテンツ力が向上しつづけると、多分だけど自分の意見が段々といえなくなっていくのじゃないかな、と思うのだ。

 

ときどき前は普通に面白かった有名人が妙な事を言い出すようになったりする事がある。僕は詳しくしらないけど内田樹さんなんかは有識者から「前はよかったけど、最近の発言は酷い」等、滅茶苦茶に批判されている。

 

なんでそんな事になってしまうのだろう?多分だけど、おかしくなってしまった有名人は、なんのコンテンツを出してもパワーが強すぎて、受け止められる批判対応力が全然足りていないのだ。ゆえに人の話を聞けなくなるため、全然成長できない(批判され続けられる為、精神が多少変調をきたしているというのもあると思う。頭が沸騰していると、冷静な意見は言えない)

 

現代のインターネットは危険

ツイッターはてなのホットエントリー入りすることで、ある人が作り出したコンテンツは容易にそのパワーが増大する(筆力×著者の影響力の後者の成分がインフレする)

 

これはいい事も多いけど、同時に非常に危険な要因も孕んでいる。弱小ブロガーが本来は出会うはずのなかった非常に強い戦闘力を持ったブロガーにサーチされ、ボコボコにされる環境が出来上がっているのだ(マサラタウンの草むらで遊んでいたら、いきなり野生のミュウツーが出てくるようなものだ。)

 

テキストサイトの頃なんかは、そもそもネット人口も少なかったし、こういうバズる環境は整備されていなかった。だから人は、ゆっくりとコンテンツ力を高められ、批判対応力もゆっくりと高める事ができた。

 

でも現代のインターネットの拡散力は非常に高い。素人の書いた文章だって、誰かに見つけれて整備された高速道路に乗り上げると、一気に広がる。フェイスブックツイッター、ホットエントリ。人は面白いコンテンツに常に飢えている。それが広がりやすい環境がある事を一人のコンテンツ消費者としてありがたいと思いつつ、強力な批判が容易に喰らいやすい現状を、一人のコンテンツ生産者として難しい気持ちで受け止めている。

 

結論

ブログの批判に真摯に向き合う作業は、正直辛い。だけど批判対応力を少しづつあげていく作業をしないと、真の意味でのコンテンツ力の高い作品は生み出せないような気がするし、たぶん自分も変になってしまった有名人と同じ存在になってしまう。

 

コンテンツ力が高い作品を一回出すことは、多分運さえあれば誰にでもできる。だけど、継続してインターネットでレベルの高いコンテンツを生み続けたいのならば、批判から目を背けるのはあまり得策ではないな、と思うのだ。

 

もちろん全ての批判を正しく受け止める事は無理だと思うけど、向き合う作業からは逃げちゃいけないんじゃないかな、と思うのです。

 

ブログを書くと承認欲求が満たされるという事がブロガーの行動原理の1つとなっている。僕はこれに加えて、批判と向き合う事であなたの心がより広くなる修行の場としても機能するんだという事を提唱したい。これはきっと、あなたの人生における大切な何かになる(だけどこれ、本当につかれるからほどほどにしておきなよ!)

 

多分だけど、誰かから罵倒されたり建設的な意見をもらえる環境って、そんなにない。精神修行としてのブログライフってのも、面白くありませんか?