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珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

ロジックや知性で他人を殴りつけている人達へ

日々徒然

はてな界隈なんかでよくみかけるのだけど、記事に書かれている悪意や差別心を巧妙に見つけ出して、それを今まで身につけてきたロジックとか知性を用いてボコボコに殴りつけている人達がいる。

 

こういう人達は大体において「おかしい事に対しておかしいという批判をする事は正統的な行為であり、私の行為は全面的に正しい」というスタンスをとっている事が多い。

僕自身は個人的にはこの行為自体はそんなに尊重できない(正しいか正しくないかは別として)

 

「正しさ」というのは、言語を用いて行われるバトルにおける絶対的善なルールとされている。これは将棋でいうところの駒の動かし方みたいなもので、まあそれがないとどうにもならないよな、という要素でもある。

 

相手の間違いを見つけるは、それなりに訓練を受けた人には実は結構簡単な行為である。世の中には差別心を持った人が割と多数いるので、そういう人に対して批判している本をいくつか読めば、その本で用いられているロジックを使って簡単に他人を罵倒できる。

 

この行為の強烈な所は、罵倒サイドがかなり濃厚な理論武装を身に着けている点と、罵倒サイドが初めから相手を狩る前提で相手を見つけている事である。これはもう大体において、初めから批判されるサイドには勝ち目がない。将棋で言えば駒の動かし方が危うい人v.s.プロの戦いみたいなものだ。

 

こういう戦いが行われた時に、批判されるサイドはまともに戦っても勝ち目が全然ない事が多いので、よく情に訴えたりする等の行為で相手とのバトルフィールドを変えようとする。批判サイドはこの行為を「ルール外の論理を用いてこっちを攻撃するな」というロジックを用いてまたボコボコに殴りつけたりするんだけど、正直やっぱり少しはそういうものを認めてあげてもいいんじゃないかな、と僕は思うのだ。

 

将棋だったらアマチュアとプロが戦うときに、飛車とか角を落として戦う事が容認されている。僕は言論バトルでも、こういった温情的行為は許された方が、いいんじゃないかなぁと思うのだ。

 

論理とか知性で相手を殴るのって、将棋で強い人が弱い人をボコボコにして弱い人が「手加減してくれよ」っていうのに対して「ルールに則ってやってるゲームにいちいち文句つけるな」っていうようなもので、なんていうか一言で言えば大人気ない行為な気がする。そりゃ「正しい」んだよ。でも何かおかしいでしょ。

 

論理として正しいのだから批判を受け入れろというのは、知性の強者による知性弱者への無茶苦茶な暴力である事は理解しないといけないかな、と思う。ロジックとか理論武装とか、凄く強力な手法だから、知性の暴力装置に組み込むと、ピストルみたいな強さを持ててしまうから。

 

そういうピルトルを持った人間に対抗するために、攻撃されるサイドが鎧とかを着る行為を「はいはい。鎧は今回のゲームではルール違反だから脱いでね」ってピストル側がいうのは、なんていうかやっぱり酷いな、と思う。

 

フィリップ・マーロウは「強くなくては生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」と言ったけど、できたら批判サイドもこういった視点を持って欲しいなぁと思う。

 

やっぱり疲れるインターネットは嫌だよ。全部が全部ニコニコ円満にいけるわけではないのはわかるけど、できれば相手に寛容であれるあなたを、僕は見てみたいよ。いつもとはいわないけど、たまには飛車と角を落としてもいんじゃないかな。まあこの文章も、そういう人には「ルール外のロジックを持ちいた汚い手段」にみえるのかもしれないけどね。