珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

レアジョブの「差別は許容するが寛容ではない」発言を批判している人達へ

まず初めに断っておくと、僕はレアジョブの加藤会長と会ったことがある。そして凄く良くしてもらった。この記事はそういう立場にあるものの記事である。

 

加藤社長はLGBTを題材に「差別は許容するが寛容ではない」といった趣旨の記事を書いた。これに対して「加藤会長は差別主義者だ」といった趣旨の意見が多数相次いでいるのだけど、この意見はあの記事を真の意味で理解しているとは到底思えない。以下にその理由を記載する。

 

・差別発言をする事自体は悪なのか

人は生きている限りミスをする。差別発言で人を傷つける事も、よくあるミスのうちの一つだ。では差別発言が悪なのだろうか。差別発言を許容する事は悪なのだろうか。僕はとてもそう思えない。

 

特に社会的マイノリティの人々に顕著だと思うのだけど、こういった方々は非常にセンシティブだ。彼・彼女らは人々の無関心な発言から背後に隠れた差別心を見出し、傷つく事がある。

 

僕らマジョリティは、大体においてそういう発言を差別心から行っているわけではない。そういう発言は、今まで得てきた知見から自然と生まれてしまうものなのだ。

 

社会的マイノリティの人からすれば、そういう意識していない差別こそが最も傷つく発言なのだ、とおっしゃるのかもしれない。だけど僕らだって進んでマイノリティを傷つけようと思ってそういう事をしているわけではない。そのことは理解してほしいと思う。

 

だからもし私達がそういう発言をしてしまったら、声をあらわにして「あなたの発言で私は傷つきました」と言ってほしい。多分私達は初めはその発言をキチンと受け取れないと思う(いつだって自分の意見への反論は耳に入りにくいものだ)

 

でも、しばらくすれば冷静にそういう意見もあった事を思い返せるようになる。こういう風に、意思疎通が可能な社会であることが現代の最も素晴らしい点であると僕は思う。

 

・差別心を出せない社会は本質的には言論統制と何も変わらない

歴史を紐解けば、貴賤問わずに古今東西タブーとして語れない事象があった過去を多数確認できる。そういう社会が、人々を傷つかない社会を形成できたのだろうかというと、実際問題全然できなかった。

 

結局、タブーは臭いものには蓋をするのと変わらないのだ。問題の本質的な解決には全然つながらない。そういう原因を解決せずに緩和療法だけ求めるような社会は、いつか大きな爆発が起きる。それは歴史を少し紐解けば、わかることだ。

 

・多数の痛い目にあった人類は、結局どういう道を切り開いてきたのか

加藤会長は元記事でこう記述されている。

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ある人がニューヨークの話をした。

「ニューヨークに行ったときに思ったんだけれどさ、ここは本当に生きていくのが楽だと思ったんだ」

ニューヨークに行ったことのない僕は、それはなぜですか、と尋ねた。

「ニューヨークがすごいのは、ジャップとかイエローとか、人種差別する人がいないからじゃない。
 人種差別することも一つの個性だと認められていることがすごいんだ」

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これがこの記事の本質だと思う。ニューヨークという、人種のるつぼである都市が行き着いた先は、差別を蓋することではなく、差別すら出す自由を認める事だったのだ。

 

なんでこんな事になったのかって?多分ニューヨーカーは気がついたのだ。マジョリティとマイノリティが理解しあうためには、お互いがお互い、対等な立場にならなくてはいけないのだって。

 

差別発言は当然、社会的マイノリティにとって痛い発言だ。そして差別発言の一番の問題は、それが一方的な暴力装置として機能していた事である。

 

ならばどうすればいいのか。簡単だ。差別発言をした人に、差別された人がうける以上の痛みを与えればいいのだ。ハンムラビ法典にも書いてあるけど、目には目を歯には歯を、をされないと人は痛みを理解できない。結局、お互いがお互い、等しくに痛みを受けるような社会にしか、未来はなかったのである。

 

・結論

相手を差別する発言をする権利はあるかどうかという問題は、結局の所ミスが許容できる社会であるかという事に通じる気がする。

 

何かを恐れて何も言えない社会に意味はあるのだろうか。人を傷つける発言が一方的な暴力的行為として行われるのは問題だけど、多くの間違いをベースに作られた現代社会は、基本的にはそういう社会から一歩先にいっていると思う。

 

差別発言が一方的な暴力装置として機能するのなら、当然制限されるべき事だと思う。しかし差別される側も差別する側に対してカウンターを与えられる機能があり、その結果相手に差別発言をした事による損失を与えられたり、相互理解が生まれる社会ならば、差別発言にも意味がある気がする。

 

個人的にはこういう事が「差別は許容するが寛容ではない」発言の本位なんだろうな、と思う。多分批判している人の9割ぐらいは、差別される側を一方的な被害者的存在として考えているのだろう。もちろんそういう事例の方がが多いとは思うんだけど、そこで思考を停止すると、言論統制と何も変わらない。

 

人は対話できる存在なのである。その事が人類のよい点である事は疑いようもない。

 

臭いものには蓋をするような対症療法は何も産まない。ある場面ではマジョリティな人々だってマイノリティな人々になりうる。そういう可能性を、キチンと全人類が想像できることが大切なのだと僕は思う。