珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

人はテクノロジーを利用しているのではなく、テクノロジーに利用されているのかもしれないという話

人はいつだって自己中心的だ。人生の意味なんてその最たるものだろう(例えば家畜の生きる意味なんて私達は全然考えようとしないし、考えた所で家畜は人類に利用される事により生存が確保されるようになったとか言いがちだ。なんて人類中心主義なんでしょう)そんな自己中心的なあなたに冷水を浴びせるような中々面白い本がテクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?である。

著者はテクノロジーの発展そのものが生態系の進化に似ている事を指摘し、何故そんなものが起きるのかという事にある日疑問をもったという。そしてその性質をテクニウムと名付け、人間にテクニウムという【何か】が寄生することにより、テクノロジーが発達していっているのではないかと考察をする。

テクノロジーの推進は常に私達の生活の繁栄をもたらす。抗生物質の開発は人類の致死率を劇的に下げ、ハーバーボッシュの法則は肥料を産みだし、肥料は食物を増加させ人口増加をもたらした。なにもテクノロジーは科学技術だけに限った話ではない。法の整備により国家という制度が維持されているのだし、スポーツはある種の戦争の代わりになり4年に一度のオリンピックを代表とするような、多大なるカタルシスを私達にもたらしてくれている。

このようにテクノロジーの発展が常に人類の歴史にともなっており、あまりにそれが日常生活に溶け込んでいるので私達は人類が高度に発展した脳により技術を使いこなしていると思いがちだ。でも逆だとしただどうだろう。つまり何かが私達をテクノロジーの発展へと導いているのだ(繰り返しになるが著者はそれをテクニウムと呼んでいる)

勘違いしてほしくないのだけど、テクニウムそれ自体が善か悪かは何とも言えない。そもそも、テクノロジーなしでは私達は既に生きられない(この文章だってテクノロジーの発展により生まれているのだし)この発想の面白いところは、こういう風にテクノロジーを捉えられるとうまい感じにテクノロジーと付き合えるという部分にある。

テクノロジーは大きくわけると3つのタイプの人をうみだす。

①テクノロジーに使われる人。

②テクノロジーを使いこなす人。

③テクノロジーを作り出す人。

例えば一日中テレビやインターネットをばっかりやっている人は使われる人だし、それらを上手く利用して人生に富や幸福をもたらす人もいる。その一方で、相対性理論を見つけ出す人もいる。どれもこれもテクノロジーを中心に考えれば大切な存在だ。僕達の社会だってこの3タイプの人がいて、一方は搾取され一方は搾取し一方はどちらにも理解されずに孤高に生き、共に共存している。9割の庶民を0.8割の支配者が搾取し、0.1割の天才が両方に貢献する。いつだって歴史は、その繰り返しだ。あなたはどのタイプの人間だろう?人間は人生の意味をみつけられないけど、それはひょっとしたらあくまで人間はテクノロジーの発展のための手段としての一生物であり、私達にとっての家畜のような存在であるからなのかもしれない。

では私達に寄生したテクニウムの目的はなんだろう。テクノロジーが今後発展して発展して大統一理論が発見され、全ての宇宙を支配して、遺伝子をデザインして意のままの人間を生み出し、不老不死になり、時空を超えて全てを支配する。そんな未来が来た時に、ふいとテクニウムはその封印を解かれ、まるで閉じ込められていた魔族が現れるかのような世界が現れるのかもしれない。

なーんてね。ま、発想としては大変おもしろい本である。頭の体操にも、もってこいだ。これから春休みになる学生さんなんか、ちょっと読んでみてもいいかもしれない。