珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

よいモノというのは、ある種の鏡のような性質を含有している

<この記事の編集後記みたいな話になります。単独で呼んでも読めるような形にはしていますが、合わせて読むともっと面白いかもしれません>

blog.tinect.jp

 

この記事を出した後に、増田で強烈なのがあげられた。読んでて思わず大笑いしてしまった。

 

anond.hatelabo.jp

 

リンク先の文章は、ミクロに教科書の記述を比較していろいろ検討してあり、ああそういう風にも読めるんだな、と学びが多かった。

 

個人的には総体として教科書を読んだときの読後感についての記述を行ったつもりだったので、こういう形での反論?は想定しておらず「そうかこういうのも需要あるんだな」と非常に新鮮だった。

 

まあそれは置いておくとして、本題はここからである。

 

この記事のブックマークコメントに

 

 

あの記事は「修学旅行で中学の時行った奈良京都はつまらなかったけど大人になって行ったら超面白かった!」といっているのとほとんど一緒ですよ。

 

というのがあった。これはまさに僕がいいたかった事を上手く表現している。

 

大人になると、様々な情報が自分の中に蓄積されていく。

 

教科書もまっさらな状態で読むのと、様々な情報を持って読むのとではみえる風景が異なるように、京都や奈良といった古都を歩くのも、まっさらな状態で行くのと色々な情報を身に着けた後に歩くのでは、感じ方が全く違う。

 

最近になって、このような年齢の違いで感じ方が完全に変わるタイプのものこそが、本当に価値のあるものだよな、と思うようになってきた。

 

名作とか古典とかそういう風にいわれるものは、いずれも全てそういう性質を含有している。

 

例えば太宰治人間失格。僕はこの本を若い頃に読んで

 

「なんでこれがこんなに名著って誉れ高いのか全然わからん。ドラゴンボールの方が100倍面白いじゃん」

 

なんて思ったのだけど、最近になって読み返してみると、10代の頃に読んだ時に受けた印象と150度ぐらい違う感情がフツフツと湧いてきて

 

「あれ?こんな本だったっけ?」

 

と妙に心に沁みてしまったのだ。

 

よいモノというのは、ある種の鏡のような性質を含有している。

 

京都や奈良は、年を取れば取るほど、見え方が変わっていく。

 

山川の日本史の教科書も、人生経験の違いで異なる場所に行間がみえるようになっていく。

 

太宰治人間失格も、共感できるかポイントが年々ズレていく。

 

これが成長なのか、それとも余分なものを抱えてしまった事を単純に示しているのかはわからない。

 

ただ、そういうある種のノスタルジーを楽しめるようになってきて、年をとるのも悪いもんじゃないな、と思えるようになってきたのである。

 

この次の10年後に、僕は京都・奈良、山川の日本史、人間失格をどういう風に楽しめるのだろうか。そう考えるだけで、なんていうかもう凄く心がわくわくしてしまうのである。

 

人生とは、実に味わい深い。

ガンガンコミックスと科学系のKindleセール、オススメ本のまとめ

だいたいどれも50%以下。以下オススメ本のまとめ。興味あるものあったら是非~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昆虫はもっとすごい (光文社新書)

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かわいそう・かわいい戦略なんて選ぶな。自分の自由は自分で選べるようになれ

<この記事の編集後記みたいな話になります。単独で呼んでも読めるような形にはしていますが、合わせて読むともっと面白いかもしれません>

blog.tinect.jp

 

もともとこの記事を書く発端となったのは、池田信夫さんのあの大炎上した記事が発端だった。

 

「動物には人権がない」というのは言われてみればまったくもってその通りである。ペットは家族だという文言が通用する位に犬・猫は私達人間に受け入れられているにも関わらず、人権が付与されていないというのは非常に興味深いな、と思ったのである(これはデリダが晩年真剣に考察したテーマらしく、僕も後日関連書籍を読もうかと思っている)

 

本文中にも書いたけど、「女性が男性を養いらがらないのは、男性がかわいくないから」という着想を得たのは、街でメチャクチャにかわいいチワワがトテトテと散歩している姿を見たときだった。

 

「あー犬めっちゃカワイイな。僕も飼いたい」

 

「ん?考えてみるとペットは普通にみんな養ってるけど、男性を養ってるって人の話は聞いたことがないぞ?」

 

「ひょっとして・・・男性って全然かわいくないから女性に養なってもらえないのでは(´;ω;`)」

 

というのが一応の思考の流れだ。

 

人権も付与されてない存在を私達がなんで家族として養っているのか、という事を真剣に考えていくと、結局のところかわいい以外に養うという理由を裏付けるような理由が全くみあたらなかったのである。

 

こう書くと「かわいいってメッチャええやん」と思うかもしれないけど、実はかわいい・かわいそう戦略というのは、外からみえるほど楽ではない。犬・猫はかわいくなくなった瞬間、殺処分にあう危険と隣合わせだ。かわいさ・かわいそうさを売れなくなった瞬間に、彼らの生存権は無となる。

 

実はこれは人間においても全く同じことがいえる。生活保護の人間は国民のかわいそうさレベルが一定以上に高まっているが故に、生活保護をうける事が可能となっているが、彼らが昼間からパチンコに行ったり、裏で贅沢をしていたりすると、一瞬でかわいそうレベルが無となり、基本的人権が脅かされるようになる。

 

かわいい・かわいそうを売ってお金を稼ぐということは、ある意味では人権を売ることに等しい。先ほどの生活保護の人間なら、おそらく部屋で黙って本を読んでいたりする分には、かわいそうレベルは全く毀損されないけど、パチンコをやると一瞬でかわいそうレベルが消失する。

 

どちらの行為をおこなおうが、基本的には自由なはずなのに、かわいそうにより保障をうけていると、パチンコという行為がいきなり不謹慎なものになる。これは改めて考えてみると凄い興味深い現象だ。かわいそうな人間が保障をキチンと受け続けるためには、自由が制限されなくてはいけないのである。

 

王子様を待たないで。お寿司も指輪も自分で買おう。

西原理恵子氏が、娘へのメッセージとしての新刊を上梓された。タイトルは「女の子が生きていくときに、覚いていてほしいこと」である。

 

 

そこで冒頭から氏はこう言う。

 

「王子様を待たないで。お寿司も指輪も自分で買おう」

 

これってつまり氏はこう言ってるのだ。

 

「かわいそう・かわいい戦略なんて選ぶな。自分の自由は自分で選べるようになれ」

 

男に頼って生きるというのは、つまるところ程度の差こそ多少あれど生活保護の人の生存戦略とそこまで変わるものではない。かわいいからこそ養われるのであり、かわいくなくなった瞬間から、あなたは程度の差こそあれ自由がどんどん制限されていく事となる。

 

これを暗にわかっているからこそ、専業主婦は家庭の財布のヒモを握りたがるのだろう。獲物(収入)が自分の手元を通過するようにして、夫による恣意的な自由を制限しコントロールしないかぎり、永遠にかわいそう・かわいい戦略の中で生き続けなくてはいけないのだから、そういう選択を旦那に迫りたくなる気持ちは非常によくわかる。

 

本当に、かつての女性は大変だっただろうな、と思う。「男は仕事、女は家庭」という単語は自分が女性だったらと考えると身震いする(そういう意味では女性が社会進出しやすくなった事については非常に喜ばしい事である。男女平等バンザイ)

 

それならば荒野で餓死するリスクがいくらあろうが、やっぱり自分はライオンのような自由な存在でありたい。たとえその過程で自分の命を断つような選択を迫られる事があろうが、かわいそう・かわいい戦略で生きながらえるよりかはよっぽど個人的にはマシだと思ってしまうのだ。

 

日本人男性が健康・経済的理由で自死を選ぶのも、たぶん同じような気持ちなんじゃないだろうか?

 

統計的には40~50歳の中年男性は、健康もしくは経済的な理由を背景に自殺するという傾向がある。これをみて「なにも死ななくてもいいのに」と思う人も多いかもしれないけど、僕は自分が改めて同じような立場に置かれた時、ぶっちゃけ死んだほうがマシだと思ってしまう人の気持はわからくもないのである(当然ながら自殺を推奨するわけではない。そういう選択肢が認められる自由があってもいいと思ってるだけである)

 

だって昼間っぱらからパチンコいくだけで不謹慎とかいわれるんですよ?それって無茶苦茶辛くないですか?

 

こんな時間にこんな下らないブログを書いてても誰からも怒られない自分の身分には、死ぬほど安堵しかありませんね。まったく、かわいい。かわいそうで生きるのは地獄だぜ。

VALUってぶっちゃけバブル期に流行ったゴルフ場の会員権と同じ事でしょ?

またインターネッツ界で業の深いコンテンツが登場した。その名もVALUという。

 

valu.is

 

またしてもイケハヤちゃんが金の匂いを嗅ぎつけたからから連日バルバルうるさく喚いているので、まあどんなもんかなと覗いてみた。雑感としては表題の通り、「これ、バブルの頃に流行ってたゴルフクラブの会員権と全く同じ仕組みの商品やん」というのが率直な感想である。

 

どうやらイケハヤちゃんもVALUがどんなものか全然わかってないようなので、とりあえず技術的な事のうんぬんは置いといて、VALUがどんなものなのかを以下で書いていく事にしよう。

 

VALUの流れ

VALUでアカウントを作成するには、まずFacebookのアカウントが必要だ。FacebookのアカウントでVALUのページにログインし、色々と基本情報を入力してVALUのアカウントを作成する。

 

VALUのアカウントはその他にもTwitterInstagramといったSNSを登録する事も可能だ(今現在、Facebook抜きにTwitterInstagramだけではアカウントは作成する事ができない。だから匿名の人は匿名用のFacebookアカウントを作成する必要がある。今後改善していくとは思うけど)

 

VALUにこれら3つのSNSを登録すると、ビットコイン換算でVALUアカウントの価値が提示される。ちなみに試しに僕が作ってみたところ、8ビットコイン相当の価値があるもの、として扱われた(時価総額だとだいたい200万程度)

 

ここで「えっ?そんな簡単に200万円も貰えるの?」と思うのはさすがに早合点だ。これはあくまでVALU内部で試算した「この人にはこれぐらいの価値があるよ」という目安であり、この時点では僕には一円も入らない(当然だ)

 

その後、アカウントがVALUの審査に通過すると、VALUはあなたにMY VALUなるトークンのようなものを配ってくれる。僕で言うと、8ビットコイン相当ぐらいのVALUトークンがアカウントに付与される事となる。

 

次に、このVALUトークンを、自分で値付けしてVALU内部で販売する事となる。まだアカウントが審査に通過しておらず、僕にどれだけのVALUが付与されるかはわからないけど、とりあえず80高須賀VALUほど付与されたとしよう。このうちの幾つかを僕がVALU上で販売し、好事家がそれを購入したり売ったりされるようになる。

 

このVALUの販売を個人の株式上場のように説明する人が時々いるけど、それは色々な意味で説明があまり正しくないだろう。そうなると、仮にどこかの誰かが僕の持ち分である80高須賀VALUを全部習得したら、僕はその人に全権を握られてしまうわけだけど、そんなのは人身売買と何も変わらない行為だ。さすがにそんな事が日本国で成立するとは思えない。

 

じゃあこの80VALUって何なんだよ、と誰もが思うと思うのだけど、これは会員制のファンクラブ会員証のようなものに大体近いと思うのが妥当なところだろう(実際、VALUの機能上ではある特定の個人のVALUを習得した人向けに、優待情報を付与する権利が与えられている)

 

具体的に説明しよう。僕が先ほど、80高須賀VALU付与されたとして、このうちの40高須賀VALUを販売したとしよう。1VALUを3万円(0.1BTC相当)で販売して、購入者特典として高須賀特別ワイン会のプラチナ会員証を発行したとする。

 

ここで1高須賀VALUを3万円出して買いたいという人は、大雑把にいうと3種類ぐらいの人間にわかれる。

 

1つめは単純に僕のファンだという人。

2つめはワイン会のプラチナ会員権が欲しいという人。

3つめは、僕のファンやワイン会のプラチナ会員権を他人に転売したいという人。

 

1つ目と2つ目はまあいいとして、ポイントとなるのは3つめの転売目的の人だ。この人達が、あれこれ色々やって価格を操作しにかかってくる。

 

高須賀VALUは上限が80と決まっているので、原理上は特典を受けられる人の数は80人に限定される(ここでは話を単純にするために、単位を1VALUに限定し、分割できないものとする)

 

僕の売り出した数は40高須賀VALUだから、この40個が終売すれば僕が追加でVALUを市場に放出しない限りはおしまいだ。

 

販売当初は僕が1高須賀VALU3万円の定額での販売を行うが、全部売れてしまったら、その後の価格決定は需要と供給の流れにより市場の中で決定されていく事になる。

 

例えばどこかの誰かが僕に深く失望してファンをやめたとしたら、3万で買った1高須賀VALUを300円とかで投げ売る事もありえるだろうし、逆にワイン会の会員権が欲しくて30万円でもいいから欲しいというような奇特な方も出てくるだろう。

 

はじめに40高須賀VALUを放出した時、全部売れた仮定すると僕の手元に入ってくる金額は40×3万円=120万だ。

 

その後、市場に放出された高須賀VALUが1高須賀VALUあたり30万円になったとする。

 

すると僕の手元には40高須賀VALUあるから、いちおう僕は時価総額としては40×30万円=1200万円程度の価値をVALUのサイト内で保有する事となる(これはあくまで価値があるというだけで、実際のお金では当然無い。なお当然の事ながら、価値が下がる事もありえる。1高須賀VALUが3円になったら、VALU内部で試算される僕の資産は40×3円=120円だ)

 

これがVALUの基本的な仕組みだ(まだキチンと操作できてないのでところどころ認識が間違ってるかもしれない。その時はコメントなりなんなりで指摘してもらいたい)

 

僕達はVALUをどうすればいいだろうか?

なんか法的なしがらみをくぐり抜ける為なのか、現状ではVALUの購入決済でビットコインを使用しなくてはいけないため一見難しそうにみえるけど、基本的にはなにも難しい事はない。VALUなんて、ただのファンクラブ会員証みたいなもんだと思っておけば、まず間違いない。

 

問題は、このVALUとどう付き合っていけばいいか、だろう。

 

あなたが本当に信用できる人がVALUを上場したとしたら、まあ買ってみるのも悪くはないかもしれない。色々と面白い購入者特典をつけてくれるかもしれない。

 

僕は先ほどワイン会の会員証のような特典を付与する具体例をあげたけど、こういう使い方以外にも、例えば会員限定トークイベントをするだとか、その他にも様々な使い道が今後出て来るだろう。ちょっと前に大炎上したスタディギフトみたいな使い方をする人もいるかもしれない。

 

ちなみにVALUで儲けようと思っている人もいるかもしれないが、正直な事をいうとそんなにオススメする気は起きない。正直、VALUをいくら持っていようがVALU大元が潰れたり、VALUを発行する個人が飛んだりしたら資産価値が0円になるリスクが現状ではあるのだから、かなり危険度合いの高い商品だとしかいいようがないからだ。

 

どうしても儲けたいというのならば、入手後に値上がりしたらさっさと売ってしまうのが一番良いだろう。表題にも出したが、これはバブル期のゴルフ場の会員権と全く同じようなもんである。

 

バブル当時は数億とかしたこれら会員権も、今ではごく一部を覗いて、誰も見向きすらしてないようなモノの方が圧倒的に大多数だろう。

 

少なくとも、僕はイケハヤちゃんのVALUは買わないなぁ・・・

 

<いちおー本当にアカウント作って実証したよって事の証明の為に僕のアカウント公開しておきます。まだ高須賀VALUは公開されてないから買えないけど、仮に発行されたとしても何しようかも全然決めてないから、買わんといてな>

valu.is

暴力団をモデルにすれば国家の仕組みが驚くほどよくわかる。

少し前の話になりますが、生まれて初めて確定申告をやってきました。僕は今年が初めての確定申告だったので、自分が収めている税金を年単位でまとまった形でみる機会は初めてでした(そしてそのそう支払い金額をみて軽く絶望した)

 

これを読んでいる多くの人は、日本に住んでいることでしょう。けど日本という国に住んでいるという事がどういう事なのかをキチンと理解している人は驚くほど少ないのではないでしょうか。

 

今回は暴力団をモデルケースにして国家について簡単に説明していくことにします。

 

税金はショバ代

人には人権というものが備わっている(という事になっている)

 

人権とは簡単に言うと「自分がされて嫌な事は他人にするな」というルールである。例えば道を歩いている人から金品を強奪してはいけないし、他人を強姦してはいけない事になっている。

 

これを非常に当たり前の事だと思っているかもしれないけど、実はそう思える事自体が非常に近代的な事だ。

 

確かに普通の人は勿論他人から金品を強奪しないし、他人を強姦したりもしない。けどそういう行為をしてもペナルティがない社会に生きている人間は、本当にこれらの事をしないだろうか?

 

こうして人間社会では、自分がされて嫌な事をされないために、それをした人間にペナルティを課すようにした。これが現代で言うところの法律である。

 

法律を制定するのは基本的には国家である。僕達は、日本という国に住んで日本の法律を守って暮らしている。法律を守る限り、僕達の身柄は自由だ。

 

とはいえ法律を作ったところで、それを守らせる為には必然的に強い存在が必要となる。こうして法のもとに運営される国家は、それをキッチリ執行するために必然的に暴力的な組織を抱え込むことになる。これが現代でいうところの警察である。

 

こうしてルールを運営する国(とその国を動かす官僚)と、官僚に暴力的な力を備えるための警察ができあがる。ただ国も警察も無償でこれらの行為ができるわけではないので、国民に一定の税金を課す。

 

こうして国民は、税金を払う事で”人権”を安心して享受する事ができる。

 

こう書くと難しいと思ってしまう人がいるかもしれないけど、これらの仕組みは暴力団そのままである。以下のような話にすれば、上の話もすんなりと理解できるだろう。

 

”とある地方都市に、小さなレストランを営む善良な夫婦がいました。このレストランでは非常に良心的な価格で料理を出してまっとうな経営をしていたのですが、あるとき無銭飲食をし始める輩がだんだんと増えていくようになってしまいました。”

 

”善良な夫婦は、力がないので無銭飲食を繰り返す輩を追い出すことができません。仕方がないのでみかじめ料暴力団に支払って、無銭飲食を繰り返す輩をシメてもらう事にしました。”

 

”こうしてこのレストランは暴力団の傘下となり、ルールを守らない人間はこのレストランに寄りつくことはなくなりました。善良な夫婦は再び安心して営業を行えるようになりました。そしてその安心料として、毎月一定額のみかじめ料暴力団に献上することとなったのです。”

 

”こうして善良な夫婦は、ちょっとしたコストで日々の安全を手にすることができるようになりましたとさ。めでたし、めでたし。”

 

 その後のレストランの話

もちろん物語はこう簡単には終わらない。

 

”その後しばらくはレストランと暴力団の関係は良好でしたが、暴力団の構成員が段々と増えるにつれ従来のショバ代では組織を維持する事ができなくなってしまいました。”

 

”困った暴力団は、レストラン側にショバ代のつり上げを請求する事にしました。レストランは嫌で嫌で仕方がありませんでしたが、仕方がないので一旦受け入れることとしました。”

 

”そしてショバ代のつり上げは段々と繰り返されました。何度目かのやり取りの後に、ついに善良な夫婦はブチ切れました。”

 

”「もうお前らなんかに頼まん。うちは別の組織の傘下に入る」”

 

まあよくある話とも言えますけど、この陳腐なストーリーが水面下で進行しているのが現代日本だというと話が全く笑えなくなってくるんですよね。

 

ちなみに少し前まで消費税が2%上がるとかが議論されてましたけど、国家のショバ代は当然と言うか消費税以外にもいろいろあります。所得税社会保険料なんかがその主だったものですけど、この社会保障費、近年どれぐらい上がったかみなさんご存知でしょうか?

 

ちなみに正解ですけど、1990年代と比較して、現代の社会保障費はその当時のほぼ2倍になっています。

 

数値でいえば、200%です。消費税を2%上げるとかいう議論が、いかに馬鹿げた話かがよくわかるというものです。

 

ちなみにこれが何で全然話題にもならないかというと、社会保障費の引き上げは厚生労働省や自治体がある程度好き勝手に決められるからで、国会に議題として堂々とあげられないのがその背景にあるんですよね。

 

今現在はしぶしぶ税金を払っている日本国民ですが、あまりに重すぎる社会保障費の負担にブチ切れるのはそう遠い未来ではないかもしれません(´;ω;`)

まだAmazonが漫画の第一巻を10円ぐらいで投げ売りセールしているので買ったのを紹介する・その3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回のセールは堀がいがありますわー。

Amazonが漫画の第一巻を10円ぐらいで投げ売りセールしているので買ったのを紹介する・その2

続きです。一冊10円ぐらいだし、買えるうちに是非どうぞ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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