珈琲をゴクゴク呑むように

アツアツだよ(´・ω・`)

有名人がある日突然変になってしまう原因を考えてみた

「あの人、前は面白かったけど最近ちょっとおかしくなってきたよね」

 

こういわれる人は結構多い。大手メディアに出ている人もそうだし、インターネットでも昔は面白かった人が、徐々につまらなくなってしまうような事象は事欠かない。

 

最近この現象がなぜ生じるのかについての考えがまとまってきたので、以下にまとめて書いてみる事にする。

 

ネットで有名になるのに必要なのはわかりやすさと断言力

インターネットは過激で断罪的な発言が好まれる傾向にある。なぜだろう?

 

世の中には様々な不満が満ち溢れている。

 

会社に行きたくない、満員電車に揺られたくない、給与が低い、気の合う友達がいない。

 

これ以外にも例をあげるとキリがない。こういう不満を持った人は、考えがやや過激になる傾向がある。

 

こういう環境下において、自分の不満をわかりやすく断言的な発言で発信するタイプの人間は非常に好まれる。

 

多くの人は、不満があっても自分の言葉でそれを上手い形で表すのが苦手だ。それを上手い形でわかりやすい言葉に変換する人の元には、多くの支持者が集まる。

 

インターネット、ならびにSNSはこの流れを加速するのに極めて理にかなったツールだ。Facebookなら”いいね”や”シェア”が、Twitterなら”フォロワー”や”RT”といった形でそれが数という形を持って拡散される。

 

大きな数はそれだけで人を引きつける。こうしていつしか力強い発言を行う人間は、インターネット上でアルファと呼ばれる存在となり、一大勢力を築く事となる。

 

この段階までは、アルファの発言はだいたいにおいて「あの人、結構面白いね」という段階でとどまっている事が多い。問題はアルファがこの次のフェーズに移ったあたりから生じ始める。

 

アルファにとっては注目されない≒死である

このあたりから、だんだんとアルファの周りでお金の匂いがし始めるようになる。

 

書籍化やサロン経営、様々なアドバイスによりこういったものを徐々に取り入れたアルファは、だんだんと本来の良さである「自分の素の発言」が消えていき、徐々に観客が喜びそうな発言を好んで行うようになっていく。

 

観客の多くは、アルファに良心をそこまでは求めない。どっちかというと、巨悪を糾弾するかのような痛快感を求める傾向がある。こうなるとアルファの周りにあつまる人たちは徐々に信者の数が増えていき、だんだんと宗教っぽい匂いが漂うようになる。

 

ここまでくると、大体の人はもう駄目だ。信者からのお布施というポジティブな反応を拒絶できるような強い心の人はそうはいない。そして定職をやめてしまうと、もっと駄目になる。だんだんと本来の良さであった「素の発言」から「信者の喜ぶ発言」を行うような存在となってしまい、結果として非常につまらない存在へと成り下がってしまう。

 

これは本当に痛感しているのだけど、人はお金の力で容易に駄目になる。「あ、おれこの活動で食べていけるかも」と思ってしまってからが特に危ない。

 

こうしてかつて輝いていたアルファは、イロモノと化し、普通の人からすれば「宗教っぽいなにか」か「かつては輝いていた」人になってしまう。

 

僕は最近、いつまでも変わらずに第一線で活躍しつづけられる人を本当に尊敬するようになった。前はそれが普通だと思っていたのだけど、自分が好きだった人たちがどんどん教祖のような存在になってしまうという現実を直視するにつれ、本当にそう思うようになった。カネの力は本当に恐ろしい。カネは人から魂を容易に抜き取り、つまらない何かにすることが非常にうまい。

 

自分自身がそういう存在にならないことを、祈るばかりである。みなさんも、もしそういう存在への階段をのぼるようになってしまったとしたら、この記事を思い出して欲しい。

 

人は駄目になるのは一瞬である。一度駄目になってしまったら、元に戻るのは非常に難しい。

 

よい人生を歩み続けることの難しさよ・・・

映画・ひるね姫が何を描きたかったのかについて考察する

神山健治監督のひるね姫を見てきた。正直言うと、映画としてはちょっと退屈かな、とは思った。まあこの人の作品から自分が受ける感想はだいたいそういうものが多いというのは事実なのだけど。

 

ただあれこれ考えていくと、結構良い仕込みがなされた映画だな、とやや考えが変わってきた。以下あの物語を通じて神山健治監督が何を描きたかったのかについて考察を加えていくこととする。

 

車:人

この物語は自動車の自動運転システムが大きく取り上げられている。

 

車は人間が運転するものだ。けど近年のテクノロジーの進歩により、徐々に自動運転についての可能性が掘り進められつつある。

 

車自体には意識はない。けどソフトウェアを導入することで、まるで自分に意識があるかのように”自動”で運転ができるようになる。本作では夢の世界においてエンシェンが何度か魔法を入れ込む事で、機械に意思が生まれる様子が描かれている。

 

さてこの物語の題名は”ひるね”姫である。その通り、主人公であるココネは劇中で何度も何度も”眠り”につく。なぜ”眠り”がここまで劇中で強調されるのだろうか?それは機械に”意識”を入れ込む事の対比として、人間に”無意識”を使わせている事の二項対立に他ならない。

 

ただの機械である車に、プログラムを入れることでまるで人のような”意思(主導権)”を持たせる事ができるという事が劇中で何度も何度も描かれているけど、じゃあ逆に意思をもつ人間からなんらかの手法を使って”意思(主導権)”を取り除くと何ができるのか?たぶん神山健治監督の今作品の着想の元はそこにある。

 

この作品は3/11の後に作られた神山健治監督の初めての作品だ。彼はインタビューで前作である009の撮影中に3/11が起きたことにより「それまで考えてきたことと、どこかで“齟齬が出た”感じがした」と語っている。そしてそれから4年たった今作が初めての新作だという事を考えると、どう考えても物語に3/11の要素が隠れていると考えるのが妥当だろう。

 

cinema.pia.co.jp

 

繰り返しになるが、彼は機械(車)にプログラムを入れることでまるで人間のような意思を持つ存在へと作り上げられるような描写を劇中で描いている。けど、どんなにプログラムを精密に組み上げても、3/11のような災害を回避することはできない(だからココネの母は無くなってしまったのだ)

 

自分が最も深く愛する”妻”を亡くしたココネの父は間違いなくこう思ったはずだ。

 

「いくら緻密なプログラムを書き上げて機械を完全にコントロールしても、理不尽な災害からは逃れる事ができない」

 

じゃあどうすれば理不尽な現実を私たちは避けることができるのか。科学者なら当然そう考えるはずだ。恐らくその時、人間にプログラムを仕込む事で、深層心理の世界に入り込ませ、神話的な世界観を作り出し、その中で現実に直接的に作用させる事ができるのではないか、という考えに至ったんじゃないかというのが僕の予想だ(現にココネの夢の世界は微妙に現実とリンクしている。そして夢の世界はモモタロウ伝説がモチーフになっている)

 

ココネは劇中でかつては父親はたくさんお話をしてくれたのに、最近は全く喋る事なくスマホでメッセージのやりとりしか行わなくなってしまったとボヤいていた。なぜだろうか?それは恐らく、父親はココネに仕組み終わったプログラムが壊れる事を恐れたからだ(現に全てが終わった後はモモタロウは普通にココネに喋るかけるようになっている)

 

この物語が機械と人の対立構造で描かれている点に着目すればその事はよくわかる。劇中でエンシェンが機械に自由意志を送り込む際には必ずといっていいほど、タブレットでメッセージを送り込んでいた。彼女の構築した呪文により、機械は自由意志を手に入れる事ができるようになった。

 

機械にはプログラム(魔法)を入れる事で自由意志を持たせる事ができるこの劇中の描写を対称的に考えれば、人間に”言葉”を入れ込むことで”無意識の世界”に干渉する事ができるのではないかという発想は極めてリアルだ。

 

この物語では社長の座を狙う渡辺一郎が悪役のように描かれているけど、当然ながら彼はただの小手先でしかなく、本当の”敵”は彼では無い。真に打ち倒すべき相手は夢の世界で現れる”鬼”である。

 

では鬼の現実社会での対比対象は何か?それはもうここまでの議論を読んだ人ならば間違いなく”災害”だという結論に至るはずだ。恐らくだけど、東京オリンピックが行われる2020年に災害が起きる”はず”だったのだ。それをココネを通じて”回避”させる事が父親であるモモタロウの狙いだったのだろう。

 

なんで影の首謀者が父親だと僕が思うのかといえば、夢の世界の終わり方が極めて不思議な形で〆られているからに他ならない。この作品、夢の世界のラストに”鬼”を打ち倒すのは父親であるモモタロウの操縦するロボットである。けどちょっと考えて欲しい。なんで彼が最後にケリをつけるのだろうか?

 

普通に考えて、本来ならばラスボスにトドメをさすのは主人公の役割に決まっている。エンシェンが魔法を唱えてロボットに意思を与えて”鬼”を打ち倒すのが筋ってものである。

 

けどそうではない。なぜか?それは神山健治監督の意図として、影の主人公はココネではなく父親であるモモタロウだからに他ならない。あの物語は徹頭徹尾、最愛の妻を失った男による”厄災”へのアンチテーゼなのである。

 

劇中の夢の世界では、”鬼”を打ち倒したモモタロウはそのあと地球を飛び出して厄災である鬼を身にまとう形で自力では脱出不可能となってしまった。古来より”厄災”を回避するためには生贄が必要だ。夢ではその対象としてモモタロウが選ばれている(だから彼は宇宙空間で鬼とともに地球に戻れなくなった。地球に戻れない≒死のモチーフである)

 

恐らくだけど、現実世界ではその生贄の対象はココネだったのだ。父親が仕込んだ言霊により無意識へ干渉を行い、現実世界での”鬼”(厄災)を払拭する事に成功した彼女だけど、なんの犠牲もなしに天災を回避できるほど世の中は甘くはない。当然のごとく命を落とす”はず”だった。それがなんで回避できたかというと、これはもう母親の霊がかのバイクに乗り移ったからに他ならないだろう。

 

最後の最後にビルの中にバイクが突っ込んできてココネの落下を阻止したけど、あれは自動運転とかそういうレベルを越えた動作である。というか本来ならば、プログラム通りにあのバイクは岡山に戻っていた”はず”なのだ。けどそうならなかったのが何でかというと、もう母親の霊以外に説明がつけられない。

 

というわけでこの映画はゴリゴリにテクノロジー推しをしながら、人間と無意識と霊についてをいい感じに書いた作品だなっていうのが僕の雑感です。世の中は”目には見えない何か”が”ある”、という事が上手く描かれてたと思います。

 

おしまい

個人的には幼少時からの英語教育に反対である。以下その理由を述べる

昨今、英語教育の必要性が声高に叫ばれているが、筆者はどちらかというと日本人はまずキチンと日本語を勉強するべきだと認識している。幼少時という人格形成に強く影響する時期に、他の言語を習得する事に労力を費やすメリットが基本的には少ないと思うのがその理由だ。

 

言語はかなり思考と強固に結びついている。例えば神という単語一つとっても、日本語と英語では随分とニュアンスが異なる。英語圏だと神はかなりの確率でThe God(日本語のニュアンスだと唯一神)を意味する事が多いけど、日本語の神からはそういう認識は非常に湧きにくい。私たちにはやっぱり八百万の神々の方が”しっくりくる”。

 

私達日本人がなんだかんだで均質的な思考回路を持つことができるのは、日本語という同一のツールを用いて思考を行っているからである。そしてこれは日本語での会話を通じてより強固にフィードバックをうけながら強化されていく。この習得過程は幼少期から始まって年とともに成熟していく。こうして出来上がった感性は、日本人としてのイデオロギーとなる。

 

イデオロギーという単語に聞きなれない人も多いかと思うので簡単に説明すると、これは人間の行動を左右する根本的な物の考え方の体系を表す単語だ。具体的にいえば資本主義なんかがそうである。その他にもキリスト教だとかイスラム教のような宗教なんかもイデオロギーに相当する。これらは人の行動原理に強く影響を及ぼす”考えの元”となる。

 

人と動物の違いはいくつかあるが、その中でも非常に特異的なものとしてイデオロギー単位で動くという事があげられる。キリスト教の人たちはキリスト教で固まる傾向があり、共産主義を好む人達は共産主義者たちと固まる傾向にある事を考えてもらえばなんとなくわかってもらえるかと思う。

 

私たちは日本という平和で均質的であり、かつ恵まれた土地に住んでいるから実感がわきにくいけども、世界の争いごとの根源はイデオロギーの不一致が元となっている事が大半だ。宗教戦争なんかはその代表例だし、現在も闘争が止まない中東では民族が複雑に入り乱れている事も起因して落とし所が全く読めない。

 

日本のような均質的な社会に暮らしているとそのありがたみが実感しにくいけど、日本の同質感は非常に特異的な現象である。アメリカ社会が拳銃を必要としているのも、拳銃という抑止力がないとイデオロギーの不和に耐えきれないという事が一因としてあるのは明白である。多民族国家はいろいろ大変なのである。

 

人は考えがある程度似ている人とではないと仲良くなれない。あなたの友達は、あなたとなんらかの部分で似ているからこそ友達になれたのであり、根本から思考回路が違う人と親しい友達となれる事は非常に稀だ。

 

こうして考えてみればわかるけど、日本の環境は本当にもの凄く恵まれている。その恵まれすぎている環境がどこからきているのかというと、まずは島国であり、他の大国と陸続きになっていないという事があげられるだろう。私達は壁なんて作らなくても広大な海により自然と渡航が制限されている。これにより、良くも悪くも日本人で生まれ日本で育った人間だけで社会が構成される事になる。

 

そしてもう一つ強い障壁となっているのが言語だ。はっきりいって日本語は、日本以外では全く役に立たない。わざわざ海を渡ってやってくるリスクに加えて、日本以外では全く役にたたない日本語を習得してまで日本にやってきたいという人はまあ稀だろう。それならまだグローバル言語である英語が使える米国とか欧州に行きたいというのが人情だ。

 

この2つの高い高い障壁により、日本は比較的安定した社会を享受する事に成功している。これはもう、イデオロギーの画一化という面から見ればメリット以外のなにものでもないだろう。ありがたい話である。

 

私たち人間はイデオロギー単位で動く烏合の衆である。繰り返しになるが、イデオロギーが同一ではない人たちとはあまり真の意味では仲良くなりにくいし、隣人にはとてもなれない。島国という地の利と、偶然にも特異的な宗教が国内を統一しなかった事から、日本人のイデオロギーは日本語にかなり強く規定される事になっている。こういう事情を鑑みるに、日本語習得を妨げる要因を作ることは結構日本人のイデオロギー認識の弱体化につながるんじゃないかと僕は思っている。

 

と、いうわけで長くなったが個人的には幼少時からの英語教育の必要性の有無には断固としてナシと唱えたい。英語なんて日本語がしっかりできていれば、習得はそう難しいものでもない。

 

それに日本で必要とされるのは一部のエリート層だけである。エリート層は受験勉強で揉まれている事から、英語なんて必要になれば簡単に喋れる。英語なんて殆どの日本人からすれば所詮金稼ぎの道具、ぐらいのもんで丁度いいのである。

 

少なくとも普通に日本で生きて生活する庶民が、英語なんてできる必要性は皆無である。そんな使うかどうかもわからない英語習得に労力を費やす暇があったら、普通の人は百人一首でも暗記している方が個人的にはまだマシだと思うのだが、いかがだろうか?

身体に障害を持つことになってしまった人の人生のスピード感はどういう感じなのだろうか

僕たちは自分の身体を意のままに、それなりにスムーズに操る事ができる。障害をおうまでは。

 

渋谷の大通りをあるいていると、時々杖をついてゆっくりを歩みをすすめる人をみかける事がある。昔はそういった人をみても「邪魔だなぁ」としか考えなくなったけど、最近はそういう人の人生のスピード感はどういうものなんだろうかという事に非常に興味がわいてきている。

 

世の中には仕事が凄く早い人もいれば、遅い人もいる。しかしその人自身からみれば、自分の仕事のスピードというのは自分が絶対基準なわけだから、自分の行動が早いとか遅いとかいう風に感じる事はないだろう。他人の仕事については色々思うことはあるだろうけど。

 

基本的には人は人生のスピード感は早ければ早いほどいいと思う傾向がある。仕事は早く終わらせるのが良しとされているし、生産量は高ければ高いほどよいとされている。けどそうやって人生のスピードをメチャクチャに早めたとして、一体何が手に入るのだろうか?

 

昔の知り合いで、非常に仕事ができる人がいた。ある時、彼を病魔が襲った。鬱病である。その日から彼の能力は著しく下がり、彼の人生のスピードはものすごく低下した。それをみて僕は愕然とし、優秀で自分と比較してエンジンの性能が高性能だからといって、人生が順風満帆に全てうまくいくというわけではないのだな、と。

 

障害者にもいろいろな方がいらっしゃる。運悪く交通事故に巻き込まれてしまって四肢の自由があまり効かなくなってしまったタイプの人もいるだろうし、難病に罹患して身体の自由が制限されてしまうタイプの人間もいるだろう。

 

僕は今、もの凄く充実した生活を送っている。人生のスピードも、どんどんどんどん高めていく事ができるという実感がある。スピードを上げるのはものすごく楽しい。自分でもこれがどこまでいけるのか、正直良くわからない。

 

ただ運悪く障害を持ってしまった人を見るたびに思うのだ。人生で本当に大切なのはスピードではなく、自由だと。周りと比較して遜色のないスピードで動けさえすればそれで十分なんじゃないかと。

 

けれどそれと同じくらい思うのだ。自分はまだまだ早くなれる。もっともっと早くなるべきなのではないか。

 

この矛盾した感覚がどういう風に落ち着くのかがイマイチよくわからない。そろそろ自分が走るのをやめて、人が走り抜けるのをサポートする事に自分の人生を費やすべきなのかもしれないとも思うのだけど。

 

この何ともいえないもやもや感を、みなさんどういう風に処理していらっしゃるのでしょうか?

ニューダンガンロンパV3がいろいろ酷くて悲しい

ダンガンロンパ大好きなみなさん。俺も好きや(´・ω・`)

 

 

シリーズ1,2とファンの期待を全く裏切ること無く制作されたこのゲーム。僕も3も期待を裏切らないだろうと思って買いましたよ。うん、本当に期待を裏切らなかった!

 

最終章の前半まではね。

 

まだ買ってない人もいるだろうからここから先はネタバレ込の愚痴なんで、未プレイの人はプレイが終わったら読んで下さい。あ、このゲーム、買うべきか買わないべきかでいえば買うべきです。少なくとも途中まではシリーズの中でも一番面白いので。

 

以下ネタバレ&愚痴。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この作品は、黒幕の正体が判明した後に一気に暗転する。それまでのお話が全部夢オチでしたーぐらいの、ちょっと酷い展開だ。

 

このゲームの物語ラスト付近で、こんな狂ったコロシアイが好きなお前たちは出歯亀だ!といきなりダンガンロンパの世界そのものを否定し始める場面がある。アマゾンのレビューをみていると、これを説教と捉える人が多いようだけど、僕は説教されていると感じるよりも、どちらかというと製作者がダンガンロンパの世界をただの狂ったコロシアイとしてみていないかのような言動が物凄く悲しかった。

 

別に僕たちは、残虐なコロシアイがみたくてあのゲームをやっているわけではない。キャラの作り方とか、喋り方とか、世界観が好きでダンガンロンパを買っているのである。「ハルマキちゃぁぁぁん可愛いぃぃぃ」って言いたいからこのゲームを買ってるわけで、別にコロシアイなんておまけみたいなもんだ。ないなら無いで誰も文句なんていわないだろう。

 

1,2と神ゲーが続いただけに、製作者が物凄いプレッシャーに襲われただろう事は想像に難くない。そしてそれに堪えるだけの物語を3では作れたと思うし、黒幕判明後の神演出はそれこそ鳥肌モノの凄さだった。だからこそ、こんなに凄いゲームを作れる製作者が、あんなラストを持ってきてしまった事に強い怒りを僕は感じるのだ。だって、そのまま終わらせてたら僕達、みんな手放しに大絶賛でしたよ。もう(´;ω;`)でしたよ。ええ。

 

スパイク・チュンソフトさん・・・お願いだからダンガンロンパの世界観を公式が否定する事はやめてください。V3はなかった事にしてもいいから、いつもの調子で4をまた作ってください。ほんとお願いします。

 

フィクションの世界観に浸る事で救われる人間もたくさんいるんです。物語の力ってそれだけ偉大なんです。ダンガンロンパ、大好きなんです。

 

以上。

開かれた環境で診療を行っていない医者の実力は危ない~新臨床研修医制度危惧論にかえて~

日本の医療レベルは全体的には比較的マシなレベルではあるのだけど、これはあくまで全体の平均の話であって局所局所では結構ビックリするような医療が行われていたりするのもまた事実である。

 

何の分野でも、スポーツの世界1位の人が凄いという事には誰も異論がないだろう。特に短距離走やサッカー、野球といったメジャーなスポーツのトップクラスの選手の実力は、恐ろしいものがある。彼らがなぜ優秀なのかというと、それは激しい競争の中に身を置いているからだ。

 

ウサイン・ボルトの優秀性は、彼を除く凡百のランナーとの比較により証明される。彼は、彼以外のランナーとの激しい競争の結果、超人的ともいえるスピードを得ることに成功した。これは競争の結果である。競争原理が全く働かない、どこぞの未開の地の短距離走者がボルトよりも早いだなんて事はまずない。競争は人をムチャクチャ優秀にするのである。

 

ここで頭のいい人ならば気がつくと思うのだけど、実は真の意味での優秀さというのは開かれた競争原理の働く場所でないと生まれない。閉鎖された場所でのNO.1は、しょせん井の中の蛙のようなもので大したレベルじゃないのが普通だ。

 

日本の医者のレベルが微妙な事が多いのは、実はこれと非常によく似た現象である。まず日本は母国語が英語でない。この時点で非常に多くの医者が、英語という広大な開かれた知の泉へのアクセスから遮断されている。インターネットがつながっているのだから、そこに最先端の知識は”ある”のだけど、その知識を最大限活用できている人は、驚くほど少ない。

 

さらに日本の医療レベルを微妙なレベルにさせている最大の悪習慣が医局制度だ。医局というナワバリにより就業環境を狭い地区に囲い込まれてしまった若い医者は、その医局のレベル以上の知識をみにつけることが非常に難しい。

 

本当なら英語圏で行われている世界最先端の競争の場に組み込まれ、その知見をフルに活用し、各々が実力を切磋琢磨するべきだと思うのだけど、そういう厳しい場所に自分の身をおいている人間は日本の医療現場では非常にレアケースだ。

 

昨今は、若い頃からアメリカの有名大学とかで学んだ知識を惜しげもなく提供する優秀でガッツのある医者の努力もあり、悪しき医局制度から生まれる劣悪な師弟関係制度も崩壊しつつある。が、未だにここから脱却できておらず江戸時代のような医療レベルで運営され続けている恐ろしい病院も結構ある(おお怖い)

 

開かれた環境で診療を行っていない医者の実力は本当に危ない。開かれた場所≒オリンピックだとすれば、開かれない場所≒未開の地のようなものである。開かれていない場所にも優秀な文化がある事もあるのは事実だけど、それを圧倒するぐらい酷い文化が根づいてしまっている事が多いのもまた事実である。

 

来年度より、新臨床研修医制度が発足する。医師の偏り解消を大義名分に施行されたこの制度だけど、蓋を開けてみるとただの医局制度の復活なんじゃないかという部分も多い。個人的にはせっかくよくなりつつある現在の日本の医療制度がまた悪くなりそうな方向に転がりそうで非常に危惧する部分が多く、ちょっと安心してみていられない。

 

日本の医療レベルを引き上げたいのなら、このような区画された閉鎖空間を作り出す事は辞めてもっと競争原理が働くようにするべきだ。競争は多くの人間を疲弊させるのは事実だけど、全体のレベルがむちゃくちゃに向上するというのもまた事実である。

 

この現実から目を背けず、利権関係なしに日本の医療レベルが向上することを心より祈る。

医者だからちゃんとした診療をしているとは限らない~書評・視力を失わない生き方~

てきとーに入った本屋で非常に面白い本を見つけ、先ほど読み終わったので紹介する。おすすめ度は☆5。

 

視力を失わない生き方?日本の眼科医療は間違いだらけ? (光文社新書)

視力を失わない生き方?日本の眼科医療は間違いだらけ? (光文社新書)

 

 

本書、「視力を失わない生き方」は現役の眼科医による眼科診療の最先端について書かれたものだ。やや専門性が高い内容なので普通の人が読むのは大変かもしれないけど、かなりわかりやすく書かれているので読めなくはないかとは思う。

 

この本に書かれている事はかなり衝撃的だ。他の病院で適当な目の治療を施され、失明寸前に陥ってしまった症例がそれこそ雨あられのように紹介されている。

 

こんなこと、本当にあるんか???といいたくなるような話のオンパレードだけど、医療の現場にたつものからすれば結構そういうテキトーな診療をしている医者が多いという事も嫌というほど知っているというのもまた事実なので、まあたぶん本当のことなんでしょうね・・・

 

医者ですらどこの病院がいいかなんてわからない

「どこの病院がいいの?」

 

この質問をされた事がある医者は多いだろう。僕も時々される。けど現実問題、この答えに適切に答える事は非常に難しい。だから正直な事をいうと上の質問に関しては「僕でもわからない」としかいいようがないのが現状だ。

 

なんでそんな事になるかというと、そもそもほとんどの医者が自分で働いている施設の、自分に関係する部署の事ぐらいしか実力を見る機会がないからだ(実力をどういう風に外に提示するのかは非常に難しい。スポーツなら勝ち負けが全てだけど、医療の結果はわかりやすいものばかりではないのである)

 

僕は東京で働いているけども、はっきりいってそこら辺にある有名病院がちゃんとした医療を提供しているかどうかはほとんどわからない。医者ですらこんなもんなんだから、一般の方からすればサッパリだろう。

 

また多くの医者がそうだと思うのだけど、自分の専門以外の分野の治療内容をキチンと全て把握しているような人は非常に稀だ。というか下手すると自分の専門分野ですら、ちゃんと理解してないような人間すらいる有様である(なんでこんな現象が起きているのかについて書き始めると非常に長くなるので今回はやめておくが、この問題は結構根深い)

 

話が横道にそれつつあるので話を今回読んだこの本に移すけど、この本が偉いのは一般人向けへの本にもかかわらず、ちゃんと病気別にどういう治療が正しいのかについての記述を面倒臭がらずに書いている事だと思う。繰り返すが、正直これは相当偉い(だってこれだと内容が難しすぎて売れないだろう事は目に見えてるんだから)

 

上にも書いたけど、僕ら医者でもどこどこの病院の誰がどれぐらいの実力があるかがわからないのは、この本のように「自分の実際に行っている治療」について説明されている場所が皆無だからに他ならない。そういう点では、この本は著者の格好の実力の証明にもつながっており、非常に評価できる(こういう形でキチンと自分の実力を説明している医者はかなり少ないし、今後はこういう風に医者側がキチンと自分の行っている業務の腕をアピールできる事が強く期待されるけども、まあ当面は難しいでしょうね)

 

ちなみに僕がこの本で一番衝撃をうけたのは、医学部時代に習った網膜剥離加齢黄斑変性症と翼状片についての治療法が完全に時代遅れのものであったという事だった。どれも結構治療が大変だという記述を読んだ記憶があったのだが、著者によると今は結構普通になんとかなったりするらしい。いやはや、まさか眼科がここまで進歩しているとは知りませんでしたよ。

 

なんかまとまりのない文章になってしまったけど、この本は普通の人は当然として、医療従業者こそ読むべきだと思う。正直、かなりビックリしますよ。