スペイン・マドリードの美味しいレストランを3店紹介する
遅めの休暇を取得してスペインを周遊してきました。
治安もいいし物価も欧州にしては安いしと非常にオススメな場所なんですが、日本語の情報がびっくりするほど少なくて泣きたくなったので首都のマドリードにスポットを当ててレストランの情報を書いていこうかと思います。
美味しいレストラン
1.
ステーキハウス。値段はワイン半本を飲んで、1人5000円ぐらい。メールで予約可。
日本で牛肉というとA5といったサシの入ったものがよしとされる傾向にありますが、海外の赤身肉の美味しさはそれとは別種類の良さがあります。
この店はマジに旨い赤身肉を良心的な値段(Tボーンステーキ二人前で43ユーロ)で食わせてくれるという点で非常に素晴らしい。調理方法は炭で表面をカリッと、中はレアという最近流行りの低温調理の真逆のようなスタイルですが、ほんとこれが美味しいんですね。
前菜はマッシュルーム(15ユーロ)とホワイトアスパラガス(12ユーロ)がオススメ。ワインリストも充実しているので、予算に見合ったものを頼むといいでしょう。料理とワインと楽しんで、1人5000円程度なんだから文句のつけようもない。マドリードでイチオシのレストランです。
写真は調理場。ワオとか言ってたら写真撮って良いよっていわれたので一枚ぱしゃり。
2.
スペイン料理で最も有名なもののうちの1つがパエリアかと思いますが、この店はスペインでも珍しい高級パエリアを食べさせてくれるお店です。
予算は飲んで1人5000円程度。予約はメールで可。ただし前日~当日にリコンファームを求められますので、ホテルの人に頼んで予約の再確認をしてもらいましょう(僕はメールでやりましたが)
市内のパエリアがだいたい13ユーロ前後なのに対して、このお店のパエリアは25ユーロ前後と約二倍の値付け。果たして何が違うんだろうとドキドキしながら訪れてみたのですが、使用している食材のレベルが市内と桁違いに高かったので値付けも納得するものでした。
前菜はお店オススメのスモークサーモン、パエリアは大ぶりのエビのものとイベリコ豚のものを頼んだのですが、なかなか美味しく、また日本では絶対に食べられないような味付けであったので、十分に満足しながらレストランを後にする事ができました。
飲まれる方はワインリストはプアなので、適当にグラスで楽しむぐらいが丁度いいかもしれません。
3.
スペインと言うと上記のような伝統料理もいいですが、エルブジ(かつて世界で最も予約がとれないレストランといわれたところ)のようなモダンスパニッシュも是非とも体験して欲しいところ。
こちらは一人あたりの予算が一万円程度とやや高くはあるものの、全体的に美味しい味付けの料理が楽しめる事もあってオススメのレストランです。予約はメールで可能。こちらも前日~当日までにリコンファームを要求されます。
肝心の料理ですが、全体的に見た目が面白く、また店の人のプレゼンテーションもエンタメ要素が強いので、かなり楽しいひとときを味わえるかと思います。味だけに関して言えば、上記2店と比較するとやや落ちますが、まあ10皿近くもクリエイティビティの高い料理をだすわけですから、そこはご愛嬌でしょう。
ワインリストはそこまで充実しているわけではないので、グラスで適当にお願いするぐらいがいいかもしません。
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とりあえずこの3つは自信をもってオススメできるレストランになります。予約もメールで可能ですので、マドリードにいかれる方はご検討いただければと思います。
傑作フリゲレビュー・ほたるのひかり~ゼルダにポケモンのバグ遊びが加わった面白みの妙~
ちょっと埋もれさせてしまうにはあまりにも勿体無い名作フリーゲームを見つけたので簡単に紹介しようかと思う。タイトルは、ほたるのひかり(閉店時に流れる某テーマソングとは恐らく全く関係がない)
本作、ほたるのひかりはフリーゲームだ。内容は端的にいえばSFCのゼルダ系ゲームである。ジャンルでいえば2DアクションRPGになるのだろうか。
無料で遊べるとは言えそのクオリティの高さは半端なく、プレイ時間も30時間超とその辺の市販ゲームと比較しても恐ろしいまでのボリュームの高さである(僕はクリアまで35時間程度かかった)
ゲームの内容だけど、SFCのゼルダを現代風に上手くアレンジしたものというのが一番適切だと思う。次々あらわれるダンジョンをクリアすると、その度に技や道具が増えていき使えるアクションが増えていく。これがもう本当に楽しい。
あーこんな事もできるようになるんだーっていう喜びに満ち溢れており、懐古ゲーマーはSFC版のゼルダの一番の面白さってここにあったよなっていう感じを思い出せる事うけいである。
ちなみに難易度はかなり高く、全くノーヒントでクリアするのはかなり骨が折れる。今現在、攻略サイトはひとつもない。たぶんほとんどの人は初めの森のステージでゲームを辞めるんじゃないかって思うぐらい、めちゃくちゃ骨太の難易度である(そのぶん、クリアした時の快感はたまらないものがあるが)
表題にも書いたけど、このゲームを絶妙に面白くしているのがゲーム内に隠された数々の抜け道の数々である。恐らく作者は全く意図していないと思うのだけど、このゲームは、作者が完全にバグ潰し(という表現が正しいのかどうかは微妙だが・・・)を完遂できていない部分がいくつかあり、それを利用して無理矢理ダンジョンを攻略する事ができる事がある(できない事も多いけど・・・)
この抜け道の数々がこのゲームを別の意味でまた面白くしている。最近のゲームではあまりみかけなくなってしまったけど、かつてGBのポケットモンスター赤・緑などを代表とする古い時代のゲームには数々のバグを利用した裏技が隠されており、このバグをついてゲームをあれこれいじくるのは本当に楽しかった。
本作はゼルダの面白さに加えて、このズル(笑)をして無理矢理ダンジョンを攻略していける事が絶妙に噛み合っており、市販ゲームでは絶対にありえない妙のあるゲームとなっている。これぞフリゲの醍醐味である。最高に素晴らしい。
まあ書きたいことは色々あるのだけど、とにかくまずはプレイしてみて欲しい。僕はかなりのフリゲマニアで今年もそうとうの数を遊び尽くしたけど、今年のダントツNo1の大傑作である。フリゲ界の歴史に残る一本だろう。無料なので遊ばないのは損ですよ。
製作者のわにりゅうさん、本当に素晴らしいゲームをありがとうございました。あと何回か助けて頂いて本当に感謝です。あの手助けがなかったら、クリアまでたどり着けませんでした(汗)
意識の高い人と本当に凄い人の差は業績があるかないかだけ
世間には意識が高い人がいる。この意識が高い人達、口では色々いい、凄い事をやりたそうな素振りをしているにも関わらず、実際問題彼らがすごい人になる事は非常に稀である。
今日は意識が高い人と、本当に凄い人の違いについて書いていこうと思う。
人の凄さは実績でのみ記される
自分が特別だという意識は、人ならある程度は持っているものだと思う。僕も中学生の時、意味もなく自分は世界で最も凄い人間だという不思議な自信に満ち溢れていた頃があった。
そのうち成長ホルモンが脳みそから抜け出すにつれて、僕の不思議な自尊心も雲散霧消したのだけど、まあ似たような謎に自信に満ち溢れる経験をした人は結構多いんじゃないだろうか。
意識が高い人達が世間一般から嫌われがちなのは、こういう僕が持っていた中学生時代の「俺は凄い」妄想を、いい年こいた大人にもなって振りまくからだ。そういう遅れてきた自尊心の芽生えに世間は冷たい。何故か?それは世間一般の人が、その人が優れた人であるかどうかを実績を元に判断するからだ。
例えば学歴。東大京大を卒業したということは、それまでの努力に対する1つの形である。もちろん、その後も人生は続くわけで、いつまでたっても学歴を自慢するのは痛い行為だけど、少なくとも20代前半までは自分の頑張りならびに有能さに対する強烈な証明となりうるものではある。
このように、人の社会で評価されるためには地位なり業績なりを上げなくてはいけない。資格をとって医者とか弁護士になる方法もあれば、本を上梓したり巨万の富を築いたりといった方法もある。こういう行為を成し遂げるのは、当然だけどかなり頑張らなくてはいけない。
じゃあ今度は意識の高さをみてみる事にしよう。学歴、資格、実績。これらを作り上げるのに意識の高さは全く必要がない(あってもいいけど。けどあったからといって何の約にも立たない)人が結果を出すのに必要なのは、実践する事だけである。繰り返しになるが、意識の高さなど全く必要がない。
こうして書いてみれば当たり前すぎるこの事実だが、不思議な事にこの単純な事実に意識が高い人が気がつくことは稀だ。彼らは偉い人の成功奇譚を読んで何者かになった気分に浸るのとか、ちょっと行動力が高い人になると直接アポをとりつけてアレコレ聞き出したりといった事はするくせに、こと何かするという事になるとビックリするほど何もできない。
これは恐らくだけど、彼らの脳内では既に自分がすごい人である事が確定事項であるが故に、それを裏付けるための行動を取る気が全く起きないからなのだろう。自分が特別である事が初めに確定しているから、今から泥臭い努力をする気なんてサラサラ起きないのだ。愚かである。
僕自信もこの歳になって、凄い業績をあげた人が周りに何人かいるのだけど、そういう人に話を聞くと、意識が高い人に共通する”俺は凄い”といった選民意識からキャリアがスタートしていた事は非常に稀だ。
結果として凄くなってしまった多くの人達の生き様を分析してみると、様々な事情から必死に頑張り続けざるをえない環境に長い間おり、その結果いつの間にか能力が身についていたという事例が非常に多い。そしてその身についた能力で実績なり創作物なりを上梓し、ある日突然スターのような存在になってしまった事例が大部分をしめる。
どこかに敷かれたレールの上を歩くのはもう嫌だといって大学を辞めた人がいたが、彼なんか典型的な意識が高すぎる人の実例だろう。本当はレールは、無能な人にこそ優しいものだという事を彼は全く理解していない。
その辺にいる高校生が、死ぬほど努力して東大に合格すれば東大生になれる。そして東大をキチンと卒業する事で、一流企業に務めることができる。彼が在学中にキチンと勉強したという仮定においてだが、東大卒業時の彼と、受験開始前の高校生の頃の彼の能力は比べ物にならないぐらいの開きがあるだろう。
大学教育も、しっかり取り組めば随分と色んな技能を身につける事ができる。何もしない人間は、何も技能を持たないが故に何もできないが、しっかり勉強をすればちゃんと知識が身につく。レールにちゃんと乗るだけで、家で寝ているよりも遥かに利便性の高い技能がみにつくのである。その技能を使えば、驚くほど多くの事ができるという事実に人はちゃんと向き合うべきである。
ときどき勉強なんて役に立たないという人がいるが、それはその人が学問を身に着けてないか、もしくは身につけた学問を応用して活用できないという事をわめているにすぎない。医学や法律といった実学は比較的容易に仕事に直結させやすいが、それ例外の技術もキチンと人類の英知は宿っている。馬鹿とハサミは使いようというが、
まあなにはともあれ、凄くなりたいなら何でもいいから実績を作れって事ですよ。あなたが本当に凄いのなら、それはちゃんと評価されるし、その評価によって逆説的にあなたが才能ある凄い人である事が裏付けられるから。
今現在、実績を何も作れないような人は、とりあえず黙ってレールにのって一個でも多くの技能を身に着けるのが吉ですよって話ですわ。レールって、ちゃんと乗ってれば成長するもんですよ。まあ楽ではないけどね。
トランプ大統領は民主党と同じ流れを辿って敗退するんじゃないだろうか
ドナルド・トランプが大統戦に勝利した。選挙前はヒラリーが僅差で勝つという噂で持ちきりだったが、蓋を開けてみればトランプ圧勝で僕を含めて世間の人々は驚愕したと思う。
知っている人も多いかもしれないけど、米国の大統領は、勝利後に演説を行う。オバマ大統領の感動的な演説を覚えている人も多いはずだ。小説家の第一作目にその作者の書きたいことがほぼ全て内包されているのと同様、大統領演説には大統領になった人のやりたいことが大体書いてある。
以下簡単にそれを読み解きつつ、トランプ大統領がどういう為政を行うかを予測してみよう。
オバマとトランプの意味するアメリカ国民の違い
オバマ大統領は大統領演説でこう述べた。ちょっと長いけど引用する。
「民主党員も共和党員も、黒人も白人も、ヒスパニックもアジア人もアメリカ先住民も、ゲイもストレートも、障害者も障害のない人たちも。アメリカ人はみんなして、答えを出しました。アメリカは今夜、世界中にメッセージを発したのです。私たちはただ単に個人がバラバラに集まっている国だったこともなければ、単なる赤い州と青い州の寄せ集めだったこともないと。私たちは今も、そしてこれから先もずっと、すべての州が一致団結したアメリカ合衆国(United States of America)なのです。」
これと比較すると、トランプ氏の定義するアメリカ国民は凄く狭い。彼の想定しているアメリカ国民を一言で言い表すと、トランプ氏1の友人知人といった彼にとって都合のいい人である(都合の悪い人≒非国民)
彼の大統領演説は、その文面のほぼ全てが自分を支援してくれた人への感謝で構成されている。オバマ大統領の定義するアメリカ人が、異なる個性を持つ人々の和解と一致団結を目的としているのと比べると、非常に対称的だ。真逆と言ってもよい。
あの演説を聞いてどう思うかは人それぞれだと思うけど、僕は「自分の傘下に加わる人には無限の恩恵を、そうでない人には排除を」という思想が凄くすけて見えるように感じた。もちろん人は自分と仲の良い人には優しくなりがちだけど、それを政治の世界に持ち込むと物凄くマズイ(過剰な縁・コネはいつだって不祥の温床だ)
アメリカはかつての日本の過ちを繰り返すのだろうか?
トランプ氏の勝利演説からは、政策的な事は公共事業を増やしてアメリカ人の仕事を増やすという事しか述べられてない。はっきり言ってそれ以外の政治家としてのビジョンは全く書かれていない。
もともとトランプ氏の政策は、メキシコの間に壁を作るだとか、違法性のある移民を強制送還するだとか、いわゆる彼の想像する「良きアメリカ人」への優遇を意図しているものが多い。
選挙の結果をみればわかるけど、今回トランプ氏に投票した人は都心部のエスタブリッシュ層以外の人間だ。彼らはなんでトランプ氏に投票したのだろうか?それはトランプ氏の述べる政策が、今の高学歴ハイスペック優遇社会であるアメリカ社会の生きにくさを多少なりとも緩和してくれるのではないだろうかという思惑があるからだろう。
公共事業の良い点は、高学歴ハイスペックではない庶民にもお金がそこそこ落ちるようにできる事だ。オバマ政権、そしてヒラリーとエスタブリッシュメントにより牛耳られている今のエリートしかお金持ちになれないアメリカという国の構造の中で生きている人からすれば、トランプの自民党型バラマキ政策は物凄く夢がある。
問題は言うまでもなく、その財源がどこにあるかである。アメリカは2016年現在、世界第三位の人口大国である。日本の約3倍もの人数である3兆人近くの人に、トランプ氏は分け隔てなく恩恵を与える事はできるのだろうか?
バラマキの資金はおそらく捻出不能
トランプ氏の選挙活動中の発言を聞くと、日米安保を解消するだとか、アメリカの貿易を徹底的に保護化するだとかいった発言が目立つ。たぶんだけど、トランプ氏は一見アメリカにとって無駄にみえるこういう分野への資金投入をカットすることで、余分な資金を国内に投入できるという考えが根底にあるんじゃないだろうか(そして今回の選挙で彼に投票した支持者達も、その資金が外ではなく自分達に向かって流れる事を期待していたものだと思われる)
ただ実際問題、政治・外交・貿易の問題は非常に複雑だ。ある面では一見無駄にみえるこれらの活動も、止める事ができないからこそ今まで続いているのである。トランプ氏がこれらの問題を公約通りに廃止できるかというと、できないだろう。
繰り返しになるが、トランプ氏はこれらの活動を廃止する事で、浮いた分の余剰な資金を公共事業に投資する事を恐らく想定していると思う。だけど上に書いた理由通り、恐らくそんな事はできない。できないのだから、当たり前だけど余剰な資金などアメリカ政府にはうまれない。余剰な資金がないのだから、当然と言うかバラマキはできない。
これってどこかで聞いたことないだろうか?そう民主党が政権を取り、埋蔵金があるはずだと意気込んで第一党を勝ち取った時のあの光景だ。我々日本人なら誰でも知っているけど、結局埋蔵金なんてどこにもなく、政治活動に不慣れだった民主党は日本という国をメチャクチャに破壊し尽くして、結局数年後に自民党が第一党に返り咲いた。
たぶん今後トランプ氏は上に書いたようなストーリーを辿り、結局バラマキ資金を捻出できずに支持率が急落する。彼に期待した人は、結局彼が今までの社会的構図を破壊できない事に深く失望するだろう。
トランプ氏はこの時点で非常に苦悩する。もともとポピュリズム的な発言で支持率を上げてった彼にとって、大衆からの失望は非常に辛いことだろう。そして彼はきっと手を付けてはいけない蜜壷へと手を出す。そう、ウォール街やシリコンバレーといった、アメリカに金の卵を産むエスタブリッシュの巣窟だ。
ドイツが借金で首が回らなくなった時、ユダヤ人から金品を巻き上げてファシズムに突っ込んでいった事は誰もが覚えている歴史上の事実だ。そうして右に傾きまくったドイツが、どんな事をしでかしたかはユダヤの人達は絶対に忘れない。
皮肉なことに、アメリカの金の卵を産むエスタブリッシュの巣窟にはナチスから逃れてやってきたユダヤ人がたくさんいる。ウォール街・シリコンバレーに手を出すということは、上記理由から政治的にも非常にマズイ。そんな事は誰でもわかっている。
今回の選挙でもウォール街・シリコンバレーの人達はトランプ氏に非常に冷淡だったけど、それは彼ら自身が自分たちがトランプ氏の想定する”良きアメリカ人”の枠に入っていないだろう事が心の底からわかっているからだろう(死んだベトナム人だけがいいベトナム人だという言葉がかつてベトナム戦争時代にあったが、これに照らし合わせると税金を払うハイスペックだけがいいハイスペックだ、になる)
こうしてアメリカ国内は”知的エスタブリッシュメント層”と”良きアメリカ人層”の中で真っ二つに世論が割れ、取り返しのつかない事になるんじゃないかな、というのが僕の予想だ。
ひょっとしたら上手く手打ちがなされるかもしれないし、真っ二つに割れる前にトランプ氏が暗殺されるかもしれない。未来はどうなるかはわからない。けど1つ言い切れる事がある。埋蔵金なんてどこにもない。それは私達日本人が、民主党に政権を任せて学んだ、絶対的に正しい1つの真理である。
マクドナルドと銀座・久兵衛の奇妙な関係
僕は三度の飯よりメシが好きだ。そしてその中でも鮨をかなり偏愛している。
魚の切り身を酢飯に乗せただけの単純なこの料理・・・こんな単純な料理に、人はなぜ惹きつけられるのだろうか?鮨には日本人の魂を揺さぶる何かがある。
現在は空前の鮨ブームだ。一年先まで予約で一杯だとか、常連じゃないと予約が取れないという鮨屋がバンバン出てきている。そしてブームの効果もあってか、外食産業の中でも値上げが特に著しく、また野心あふれる若手の寿司職人の独立が後を絶たない。
かつては鮨を一人前に握れるまでに10年の修行が必要だといわれていた。だが現在ではそこまで綿密な修行を行う人は稀だ。最近の若手寿司職人は書物やインターネットでの情報に加え、横の繋がりを強化する事で短期間で比較的容易に技術を高め、かなり若い段階で独立して店をかまえている(鮨は他の料理と比較して必要とされる作業工程が少ないので、比較的独立が容易だというのもある)
若手の独立を加速させた最大の要員は、2003年頃に中野坂上で生まれた鮨さわ田が発端だとされている。銀座青木で半年程度の修行期間を経た後に、佐川急便で激烈に働き開店資金をためた後、当時30代だったさわ田の主人は、築地でお金に糸目をつけずに最高級のネタを買いあさり、そのネタを銀座と比べて非常に安い価格で提供し続ける事で一気にスターダムへとのし上がる事に成功した。
このさわ田の成功を発端として、上野毛のあら輝(現在はロンドンで客単価5万円の鮨屋を営業中)や、神泉の小笹、蒲田の初音、最近だと川口の猪股といった、地代が安い場所で鮨屋を開業し、その分の金額をネタに投入するという作戦が流行ることとなった。
様々な手法で身につけたハイレベルな技術を、築地でお金に糸目をつけずに買った高品質な魚と組み合わせて提供する。これが今現在の寿司職人の最短成功ルートとなっている(皮肉にもこの成功法則が鮨屋の絶対価格をどんどん押し上げる事にもなっている)
なぜこのようなネタだけの若手の寿司屋は評価されるのだろうか?それはこれらの作り出す鮨が、大企業病におかされていないからである。
鮨における修行の功績
ほんの少し前だが、鮨スクールに通うべきか、老舗で10年修行を積むべきかという命題が議題にあがった。
さて鮨屋で10年の成功を積んだ人達が果たして現在成功しているかというと、少々難しいと言わざるをえないのが現状だ。
鮨の大企業というと、やはり久兵衛は外すことができない。ホテルなど多数の支店を構え、高級外食産業としてはかなり珍しく大企業化に成功した久兵衛だが、そこで働いた人達の鮨は端的にいって非常につまらないものの事が多いというのが現状だ。
久兵衛の系譜を踏襲する店の何が面白くないかって、正直な事をいえばどこで何を食べても全部似たような味がしてしまうという事が最大の問題だと僕は思う。
あえて具体名は出さないけども、Q系の職人の作る鮨はネタの程度の差はあれど、出される料理に驚きが非常に少ない。簡単にいうと、どれもこれも、どこかで食べたことがある味なのだ。
これって何かを思い出さないだろうか?そう、マクドナルドである。
高度に洗練化されたメシは、洗練されているが故につまらない
はじめに言っておくと、筆者はマクドナルドがかなり好きである。パサパサのパンズ、無味乾燥なパテ肉、わけのわからないケチャップ。
これらのどれ1つとして、単体で食べたら美味しくない料理だという事は否定しようがない事実である。だがしかし、これがハンバーガーとして組み合わさると、なんか結構いけるのだ。少なくとも100円でクソみたいな原材料から、整合性ある料理が生み出されているという事実には脅威としかいいようがない。
マック以外にも様々なチェーン店がハンバーガーを作り出したが、どれ1つとして完成度という点でいえばマックの足元にも及ばない。ロッテリア、モスバーガーと数々のハンバーガーチェーンが一時期黎明期を争ったが、組み合わせの妙という点ではマックの圧勝だろう。
こうして圧倒的にかったマックだが、残念な事に一度勝ち上がって民衆がマクドナルドに慣れてくると、今度は逆にマクドナルドに飽きてくるようになってしまう。いつでもどこでも、大企業的画一的手法で作られるあのハンバーガーは、どこで食べても同じ味なのである。
それは全国チェーン展開という目的においては物凄く強いメリットだったけど、一度完成されて「飽きる」というパラメーターが確立された後は物凄くでかいデメリットとなる。細部に至るまで組み上げられたマクドナルドのハンバーガーという完成品は、その完成度故に自由度が著しく低いのだ。
そしてこれはそのまま久兵衛にも当てはまる。久兵衛の鮨は物凄く完成度が高い。その完成された手法からは、いつどこで食べても、フレッシュな江戸前の鮨が味わえるための最適な手法が確立されている。
これは久兵衛ブランドを確立し、人々の間に認知を高めるという攻めの段階においてはメリットしかなかったが、一度ブランドが確立された後に「飽きる」というパラメーターが確立された後は物凄くでかいデメリットとなる。細部に至るまで組み上げられた久兵衛の鮨という完成品は、その完成度故に自由度が著しく低いのだ。
もうわかっただろう。マクドナルドと久兵衛。これらは2つとも、攻めの時は最強の矛だったが、それと同時に最弱の大企業病という負の側面も抱える諸刃の剣であったのだ。イノベーションのジレンマならぬ、マクドナルドと久兵衛のジレンマである(これらに飽きる人が出てくるからこそ、サードウェーブ系の高級ハンバーガーや若手寿司職人の店が評価されるようになるのだ)
今後、マクドナルドと久兵衛は博物館のような懐古的存在に落ちぶれるだろうが、それもまた歴史の流れ上、仕方のないことなのだろう。
ティム・クックを1人生み出すために数万人のエリートを殺す社会
若い電通の社員が過労によりこの世を去った。実に痛ましい事件である。
グローバルエリートの超・長時間労働問題は正直なところ難しい。たとえばハーバードビジネススクール 不幸な人間の製造工場ではハーバード・ビジネス・スクール卒という世界でも最高峰のウルトラハイスペック達が、高収入を得るために卒後、コンサルや投資系銀行に進み、辛い現実に直面しているという事が指摘されている。
- 作者: フィリップ・デルヴス・ブロートン,岩瀬大輔,吉澤康子
- 出版社/メーカー: 日経BP社
- 発売日: 2009/05/21
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今回の事件は東大卒の電通というこれまたウルトラエリート街道を突っ走っていった人間の死という問題により注目をあびるようになった。
だけどぶっちゃけ、この手の話題は上にも書かれたように海外では既にある程度仕方がないものとして受け入れられつつあるのが現状である。エリートの過労問題は、必要悪のうちの1つなのだ。今日はそのことを書こうと思う。
ハイパーエリートの行き着く先
ある程度ネット歴の長い人ならティム・クック(アップルCEO)やマリッサ・メイヤー(ヤフーCEO)の一日みたいのを見たことがあるはずだ。大体内容は共通していて、以下のような形態を示している。
5:00 起床。
5:15 社員にメールを送信
5:30~6:30 ジムで運動。その後朝食。
7:00~22:00 仕事
22:30 就寝
これを360日ぐらい続ける(残りの5日は強制的に取らされる休暇)これがグローバル企業のトップに立つものの責務である。
はっきり言って、こんな生き方は鉄のような身体に加えて、鋼のような強靭な意思をもっていないとできない。そして普通の競争社会では、彼らのような人間は出て来る事はありえない(狩猟・農耕民族の中に、ティム・クックレベルで働く人間が果たしているだろうか?)
グローバルエリートの世界は蠱毒のような世界だ。1つの会社の中に、ハイスペを何百人も入れてメチャクチャに競争させて、最後に残った1人がティム・クックのような自然状態ではとても生まれないようなハイパーエリートとなって生き残る。
なんでこんな事がいつまでたっても終わらないのか?それはハイパーエリートが社会に必要とされているからである。彼らのような存在なしには、アップルやヤフーといった企業は統制され得ないのである。
エリートにより守られる社畜達
グローバル企業で生き抜くのに必要な能力は、普通の人間のキャパシティを遥かに超えている。何千年前かにアフリカで生まれたホモ・サピエンスの始祖の遺伝子プログラムには、こんな過酷な競争社会は想定されてなかっただろう。
人の社会は競争社会である。弱肉強食の世界に生きる私たちは、強ければ生き、弱ければ死ぬ。
人類は群れをなす生き物である。TOPが優秀なら群れは素晴らしい動きを取り、TOPが無能なら群れは無残にも殺される。
経済という、これ以上ないほど結果が残酷に出される競争社会において、僕達に必要なのは優秀なTOPである。この優秀なTOPは、どんな超長時間労働でも耐え抜く強靭な肉体と、どんなパワハラ・モラハラが加えられようが心が動じない強靭な精神が必要とされる(そういう人がTOPでないと、他のグローバル企業に食い殺されてしまう)
冒頭で上げたハーバード・ビジネス・スクール 不幸な人間の製造工場にも沢山出てくるけども、エリートの超過労・超パワハラ社会で生き残れなかった人達は、TOPを生み出すために作られた蠱毒のような生存環境の犠牲者だ。
当然と言うか、この仕組みはおかしい。おかしいんだけど、誰もそれを解体できないのは、このTOPに集団全員が命を守られているからに他ならない。
今回の電通事件も、被害者が出たのは悲しい事だけど、だからといって電通のTOPをphaさんに変えて”ゆるく生きよう”みたいな風に社訓を改革しても、誰も幸せにはならないだろう。多分だけど、電通が勤務体制を変えてもホワイト企業は生まれず、後に残るのは博報堂に負けてボロボロに打ち捨てられた資本主義の敗者だけだ。
結局、エリートに依存しないと生きていけない私達にも問題はあるのである。だからこそ、この問題は難しい。やれやれ、本当にどうすればいいんだろうね。
”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば人生は驚くほど楽になる
最近読んだ本の1つで格闘家の青木さんの「空気を読んではいけない」が結構面白かった。今日までセール中で600円ぐらいと半額なので、興味ある人は読んでみるといいと思う。
この本は青木さんの人生論であるわけだが、個人の生存競争の方法論としてもなかなか勉強になる事が多いので、今日は閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)における生存戦略を絡めて筆をとることにする。
閉じた世界(地元)と開かれた世界(グローバル社会)
世間には様々な尺度がある。家族ならば構成員は多くても5人前後だけど、これが学校のクラスになれば30人程度、医者などの職能集団ともなれば、数万~数十万もの人により、”世間”が構成される。
所属する”世間”によって、そこにおけるルールは当然異なる。家庭ならば基本的には親が最も責任ある立場をつとめるし、会社ならば役職によって身分が異なる。これらは基本的には覆さえる事のない、ルールに沿った制度によって運営される集団だ。
一方、これがクラスとか競技スポーツになると話は変わる。クラスならば、基本的には評価尺度は顔や面白さといったものが評価の尺度になるし、競技スポーツば実力がものをいう世界である。
これらの世界は、その閉じられた体系の中で自然と作られたルールによって上下関係が決定される。学校社会なら、太ったオドオドした人間は基本的にはカースト下層を押し付けられがちで、これを覆す手段は基本的にはほとんどない(多少のカーストの上下はあるかもしれないけど、大きく変わることはほとんどない。これだから学校のいじめ問題の解決方法は、基本的にはいじめられっ子をその空間から出して上げる以外に方法がない)
繰り返すが、学校のような社会は閉じた世界である。カースト上位はずっと安穏としながらカースト上位であり続けたい。だから外からのルールの輸入を激しく嫌う。何故ならば、それを認めてしまうとカーストをひっくり返される可能性があるからだ。
「空気を読んではいけない」の中で、青木さんは教師にとことん歯向かう姿勢を出した結果、クラスから疎外にも近い扱いをうけているけども、これは当然といえば当然の話しだ。だって先生を頂点とするクラスという”世間”のルールに歯向かっているのだから。
青木さんの例に限らず、能力がある人は結構幼少期にイジメられる事が多い。鼻息が荒くて生意気だったり、頭が良すぎて自分よりも頭の悪い教師に従うのが嫌だったり。まあ色々原因はあるのだけど。
こうなると”世間”はルールに従わないものを”疎外”という形で最下層カーストに押しやるしかやることがなくなる(ルールを守らない人間は、”存在しないもの”としないと、カースト制度が成立しないのだ)
ここでまずハイスペは”疎外”される事に結構傷つく。ただ傷ついたら傷ついたで、今度は自分一人で生きていかざるをえなくなるので、次に何らかの活動に1人で没頭するようになる事が多い。
それでしばらくすると
「みんなに無理に合わせないでも、全然生きてけるじゃん」
という現実を肌感覚で理解する。こうなると後は早いもので、だいたいその活動を評価してもらえる集団を見つけ出して、今度はそこで精を出すことになる(当然と言うか全員がうまくいくわけではなく、多くのハイスペはそこで高い壁に直面して鼻をへし折られるのだけど)
これを僕は、閉じた世界から、開かれた世界へと活動の場を移すという風に表現している。あなたがもし、集団内で下されたカーストに満足できず、そこで埋没したくなかったら、文字通り”空気なんて読んではいけない”。そこを脱却して、自分が正当に評価される所に活動場所を移せるよう、努力しないといけない。
まあ人間、無理して集団になじまずとも1人で何とかなるもんである。こうして”スキル単独行動”を体得した人間は、閉じた世界で周りのみんなに合わせて行動するといった肩身の狭い生き方から脱却できる。
孤独も、そう考えれば悪いものではない。
開かれた世界での生存戦略
ただ、開かれた世界にたどり着けたからといって安心はできない。いくら開かれた世界とはいえ、そこにはある程度のルールがある(そしてルールがあるからこそ、それを逆手に取ることで勝利をいくらでも手にすることができる)
”空気を読んではいけない”の中で青木さんは、「柔道界では背負投や体落としといった技が評価される傾向があった。体格にそこまで恵まれていなかった自分は、そういう王道の技で勝利は手にしにくかったため、様々な他種目の格闘技から技を盗み、それを使って勝利をもぎ取っていった」といった趣旨のことを書かれている。当然と言うか、このスタンスは王道派からは邪道とされ、柔道界ではかなり嫌われたという。
当たり前だけど、どんな世界であれ、ある程度の伝統ができてくると、”皆が好む正しい風習”がなんとなく出来上がってくる。そしてそれに適応する個人が、より好まれるようになっていく。こういうときに、外からの技術を輸入して、”ルールに違反しない形”で”技術を応用”できるようになると、アウトライヤーは一気に勝ち抜くことができる。
例えば生物学。かつては分類学や形態観察といった手法が頂点とされていたこの業界だけど、遺伝子解析といった技術を、物理や数学といった手法で行うようになってから、かつて評価れていた人達の権威は地に落ちた。ワトソンとクリックの例をあげるまでもないだろう。
例えばヒト。かつて地球上には我々ホモ・サピエンス以外にも多くの種がいた。その多くは我々と比較して、体格的に恵まれており、動物という種の中ではホモ・サピエンスは最弱とはいわないまでも、弱小クラスタだったのは事実だろう(私たちは象にもライオンにも、下手すれば犬にすら勝てない)
なんでそんな弱かったホモ・サピエンスが、この地球を埋め尽くしているのだろうか?その秘密の1つとして、投擲具の開発が重要だったというのが、現在の人類史の通説だ。
原始の投擲具は、2つに折った布の間に尖った木の棒を載せて投げるという、今の私達からすれば単純この上ないこの装置だったそうだけど、これがホモ・サピエンスが他の主を圧倒しはじめたキッカケだと言われている(この装置は慣れると50mぐらい先の標的を射殺す事ができるという)
私たちは筋力では他の種と全く勝負にもならないが、投擲具という”たった1つのアウトライヤー”にとって、この世界の頂点に上り詰める事となった。これも動物界からみれば邪道以外の何者でもないだろう。だけど結果として、勝ち残ったのは人類だ(そしてこの投擲具は、弓矢、銃、大砲、原爆と、どんどん姿かたちを変えて発展していっている。人の歴史は、技術でも頭の良さでもなんでもなく、投擲具による暴力による格付けでしかないのだ)
雑種がサラブレットを追い抜く日
とまあこのように、この開かれたグローバル社会では、”スキル単独行動”+”スキル他分野での技術応用”を獲得できれば、他人を圧倒的に出し抜くことができる。その結果人生が、驚くほど楽になる。
好きで生きるという言葉があるけども、それを既存のルールに乗っかった形で実現しようとすると、それはもう天賦の才能を持った人にしかできない狭き道しか残されていない。
それゆえにサラブレットではない我々雑種は、”好き”で生き抜くために、”孤独な努力”と”他分野からの勉強”を怠ってはいけないのである。逆にいえばそれさえできれば、結構人生、なんとかなるもんだ。
なお空気を読んではいけないは、それ以外にも勉強になるエピソードが沢山ある。ぜひとも骨の髄までしゃぶり尽くしてほしい。